ズレた間の悪さも
20200719
ギリギリで朝と言われる時間に起きる。
休みの日だから平日に進めることの貯金をしておきたい、という気持ちと、やるべきことをやらないでいいのが休日じゃないか、という気持ちとがせめぎ合ういつもの日曜日。大体の場合は後者が勝つし、今日もご多分に漏れずそうだったのだけれど。
用事で外出して、真心ブラザーズを聴きながら帰る。
小学生の頃にはえらい勢いでCMソングに使われていたし名曲揃いなのだけれど、いつしか自分の中のヘビロテから外れて、ちゃんと聴いたのはもう15年ぶりとかだったかもしれない。10代の頃には気づけなかった歌詞の味が今の自分には理解でき始めてきた。
しかも、彼らがルーツにしているフォークや、カバーもしたことがあるRCサクセション(忌野清志郎)と同様「日本語がしっかり聞こえる」ことを大事にしているアーティストだから、きちんと心に迫ってくる。「マイ・バック・ページ」の歌詞とかすごいよ。まああの曲はボブ・ディランのカバーだから、その半分はディランの原詞のすごさなのだが。
そういえば、清志郎もディランをカバーしていた。色んなものの縦横なつながりが見えてくるのは、年を重ねて悪くないことの数少ない1つかもしれない。
どんな作品に、どんな時期に出会ってもいいと思うし、そこに貴賤はないと考えるけれど、その作品が胸に迫ってくるタイミングってのが各々にあるのは確かだ。15歳の頃に「こういう音楽も面白いね」以上の感想を持たなかった真心が胸に響いてくるのを発見できたのはよかった。
同じことは東さんがゲンロンαに書いていた論考にも言えた。有料なのでメンバーじゃない人には全文読めないのだが。
彼の30年前からの仕事を、自らの言葉で整理し直す前半はその明快さと説得力に唸るし、後半の論旨が2020年の現実に果たす重要さ(アクチュアリティ、と書きかけて、そういう言葉を説明なしにこのnoteに置くのは違うなと思って一応噛み砕いておく)もまた最高だった。
個人的には、東さんの仕事は、哲学を基盤にしながらも、思考に留まらず現実世界や自分の行為への内省を引き起こすところ(それでいて社会と哲学の結節点を最初から念頭に思考し始めるのでなく、あくまで重心は思想におくところ)が好きなのだけれど、今回もそういうエッセンスを感じた。
俺が最近の人生に感じている違和感も、結局は哲学のタームで明晰に言い表せてしまう。その中身はパーソナルなこと(パーソナルにも、ネットに出せるパーソナルとそうでない(そうしたくない)パーソナルがあるのだ、当然ながら。各々違いはあれど、現代人はそのバルブを適宜調整しながらネットと付き合っている)なのでここでは触れないけれども、なんというか、その言い当てられた感が恥ずかしく、同時に嬉しかったりする。
昔の自分のフィールドについて書くと、文体が否応なく自分の昔の、というかもともとの、感じっぽくなる。具体的に言うと「カッコ書きが多くなる」のが俺のもともとの文体にある特徴だ。
誰かの影響を受けているのだろうか。誰か似た文体の人っていたかな。