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分からないことを書くこと

noteを始めてみて知ったのは、何かを書くには、思っていたよりも深呼吸と気合が必要ということだった。

形にならないヤワヤワ話を書く勇気が、私にはなかった。

ヤワヤワな文章は、日の下に晒すためにはもう少し削ったり加筆したりしないとだめだなあと思ってしまって下書き保存している。公開することを前提に書き始めたのに、書いてるうちにだんだん不安になってきてしかし消すこともできずにいるそれらヤワヤワ下書きは、今もnoteのサーバーのどこか片隅に重なって二酸化炭素を排出している。

noteは広い。インターネットはもっと広く、現実世界もぐるっと地球の表面に、宇宙の果てまで広がっている。

大抵のことはもう既に考えられているし、呟かれているし、特許が取られている。

先日、「海鮮丼屋」と「廻船問屋」が同じ「カイセンドンヤ」だなということにふと気付いてtweetしようとしたが、ちょっと待てと一応検索してみたら、やっぱりもう皆んな無限に呟いていた。


結局ここに書けるのは、当たり前やろと言われたら終わりな、ある種「分かりきった」な話ばかりだ。

それでも、検索したら無限にヒットするとしても、私にとって「分からん」と思ったところを考えていきたい。答えは一つだったとしても、「分からん」と思ったその感覚はそれぞれ各人固有のものだ。大事なのは「分からん」ものを見なかったことにして放置するのではなく、分からん分からんと考え続けることと、分からないのを承知な上でその時々、言い切ることだ。

分からないものについて、今、分かっている範囲で言い切ること。それがひとつの責任の取り方の気がする。

分かんないけども。