コザクラの夜は更けて
かつて沖縄にコザという街があった。沖縄市と名前が変わり地図から消えて久しいが、いまだに、その名前で呼ばれている。
嘉手納米空軍基地の門前町として生まれ、朝鮮戦争、ベトナム戦争とともに繁栄し、沖縄が日本に復帰して衰退した。
そのまちに、小さなBARがあった。
名をKOZAKURAという。
ふつうBARとは、客層が偏るもの。地元客の店、観光客の店、若者が集まる店、おじさんご用達の店等々。沖縄の中でも特殊な歴史を歩んだ町なら尚更だ。この店は地元客。あの店はアメリカ~と…。
KOZAKURAは、誰でも受け入れた。政治家、音楽家、基地反対運動家、軍用地主、商売人、役人、医者、年金生活者、旅人、そして、米兵たち。
戦場帰りの海兵隊チームは、毎晩のようにKOZAKURAにやってきた。金武町のキャンプハンセンから片道30分かけてタクシーを飛ばし、KOZAKURAで食べ、飲み、出会った。彼らは、深夜0時の門限に間に合うギリギリの時間まで、店で楽しんでいた。
戦地で彼らの仲間が殺され、彼らもまた大勢の「悪い奴ら(Bad Men)」を処刑したことを、地元の人は知った。彼らは、日本の女を目当てにやってくるフラーたち(おろか者)ではなかった。日本のワサビを楽しみ、地元の反戦家や親父さんたちとの会話を楽しみ、KOZAKURAのオーナーを「日本のお母さん」と呼ぶ、普通の、軍隊に洗脳されただけの若者たちだった。
コザと音楽は切っても切れない関係にある。米兵を楽しませるために生まれたロックミュージック。同時に、反戦を掲げるフォークソングもまた、コザから日本に向けて発信されていった。
相容れない2つの価値感がコザでは共存していた。
原潜チームもまたKOZAKURAにやってきた。彼らは海のエリートたち。長ければ半年潜り続けるというアンダーウォーター暮らしでは、ストレスを感じない強い精神力が求められる。航行中でもネットを楽しみ、酒が飲めるのだという。非常にまじめで、頭の良い男たちだった。彼らは地元の人たちと一緒にヤンバル旅行を楽しみ、沖縄を満喫して艦に戻っていった。
コザは不思議な街だった。基地反対派もいれば、何もせずとも金が入り続ける軍用地主もいる。選挙では、敵と味方になるものの、街では仲良く一緒に酒を飲んでいる。
当時、コザでは「昼は反基地運動、夜になったらアメリカ人とバーベキューパーティ」というジョークがあった。
軍隊の存在は認めないけれど、個人としてのアメリカ人は友達。本来は成り立たないロジックだ。
それを無理やりに成り立たせてきたのがコザ。米兵のニーズによって発展した街だ。沖縄だけでなく、本土やアジアから人が集まり街を作ってしたたかに、たくましく生きてきた。
しかし沖縄が日本に復帰して以降、右肩下がりになっていく。ゴーストタウン、スラムとまで呼ばれたこともある。そしてついに、名前すら失った。
人が個として出会う街。それがコザだった。ヘイトは、コザでは起こりえない。コザは、何人たりとも拒否しない街だから。成り立たないロジックすらも成り立たせた街だったから。
BAR KOZAKURAは、今は無い。けれど、当時のコザの遺伝子は今も受け継がれている。