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琉球風水の歴史を紐解く【沖縄のなかの中国】

沖縄の歴史には、中国(王朝)の影響が色濃く残っています。もちろん、日本、東南アジア各国の影響もありますが、なかでも中国(福建省)の風水思想は、沖縄に大きな影響を及ぼして今に至ります。

風水師は「ふーしーみ」(風水見)と呼ばれ、琉球王朝時代には首里王府の政策として取り入れられていたほど、密接に絡んでいたんです。

■久米村の閩人(びんじん)36性

14世紀頃の琉球は、中国(明朝)との朝貢体制下にあり、明王朝容認で中継貿易を行なっていました。

中国の産物をマニラ、インドネシアなどの東南アジアや日本に、あるいは日本の品々を中国や東南アジアにというふうに、沖縄は直接貿易ではなく中継貿易で栄えていたんです。

貿易に必要なものは船、そして航海術。海外貿易には外交官や書記官、通訳官も必要です。首里王府は福建省から久米村(那覇市)に閩人36性を招いてこれらの任にあたらせました。

36姓とは、36人とか、36の姓という意味ではありません。大勢という意味です。ちなみに、福健省は風水の本場です。

久米村にやってきた大勢の閩人たちは職能集団です。1392年、明の洪武帝より琉球王国に下賜され、その後300年間にわたって渡来、定着していきました。

しかし15世紀後半。明朝に内戦が起こります。海外貿易どころではなくなり、しかも倭寇(日本の海賊)が勢力をつけ、海の安全がおびやかされるようになります。

海外貿易のキーパーソンであった中国系の人たちは、久米村を離れ祖国に戻ったり、琉球人と結婚して分散。栄えていた久米村は凋落してしまいます。

そうしたなかに起きたのが、薩摩の侵攻でした。1609年、琉球は薩摩の侵略を受けてしまいます。そして1643年、明朝は滅び、清朝の時代がやってきます。琉球王府は、清朝との貿易を再開するために、久米村の再建を計りました。裏では、薩摩が糸をひいていたと言われています。

各地に離散していた閩人とその子孫。また、船が難破して漂着していた中国人。そして中国語に堪能な日本の商人などを集めて、久米村が再建されました。

この久米村では儒学教育が行なわれ、有能な者には奨学金を持たせて中国留学に送り出しています。留学先で亡くなる人もいて、中国にはそんな琉球人のお墓が今も残っています。

■はじめての風水見は、難破船で漂着した中国人?

「琉球国由来史」(1667-1671年)には、福州に留学した周国俊という人が、かの地で風水を学び、これが琉球での「風水見の始まり」と記されているそうです。

ところが、石垣島の「ハンナ大主墓碑」には「古波蔵親雲上(コハグラペーチン)に墓地の風水をみてもらった」という記述があるのです。

実は、この古波蔵親雲上さん、中国拙江省の人で、本名は楊明州です。1642年、マニラに向かう中国船が漂流し、28日間ただよった末に石垣の川平湾にたどり着きました。

漂着した中国人の楊明州さん、のちの古波蔵親雲上の乗っていた船は、倭寇、つまりは日本に襲われたようです。

船が他国に漂着した場合、どこの国でも面倒を見て、祖国に送り返すのが当時の慣習でした。しかし楊明州さんは、一緒に乗っていた同郷の張五官さんたちと石垣に住み着いてしまいます。そして彼らは、久米村に招かれて、儒学の先生になります。

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■琉球王朝の名政治家は風水師だった

久米村では、先に紹介した周国俊さんだけでなく、当時の首里王・尚貞の命令により蔡応瑞という人も、銀30両を与えられて福州に留学、儒学と風水を学びました。

蔡応瑞さんは帰国後の1685年、伊是名島で風水見を行い、1688年に伊是名島の玉御殿を風水景観に修復しています。

伊是名島の玉御殿。それは、第二尚氏王朝・尚円王の家族・親族が眠る聖墓。すなわち、琉球王国の政策の中心に風水思想が入っていたんですね。

1700年~1800年代の琉球では、風水を学ぶための中国留学が相次いでいます。久米村には「風水の法を学んで、国用(国家事業)に役立てるよう」との布達が王府から出されているほどでした。

薩摩にコントロールされているとはいえ、琉球は中国とつながり学び続けていたんですね。当時の日本は鎖国しています。薩摩は貿易利権を得ていたのでしょう。

そして久米村では、風水見、地理師、陰陽師分野の技術を発展させ、帰化人の息子だった蔡温さんが表舞台に登場してきます。大和名を具志頭親方文若(ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく)といいます。

蔡温さんは、琉球時代の名政治家として知られますが、同時に彼は、風水師(ふーしみー)でした。

蔡温さんもまた、中国に留学しました。中国で彼は、秘伝の風水書と風水を見るための羅盤を譲り受けました。帰国後、31歳のときには、当時王子だった尚敬王の国師(先生)となり、久米村から首里に移転し、政治的な活躍をはじめます。

1713年、蔡温さんは首里城、国廟(祟元寺)、玉陵(玉御殿)の風水を見ます。時の政権の中枢部に深く関わっていた証拠ですね。1728年、蔡温さんは47歳で三司官(宰相の地位)に任命されます。

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■風水を技術的に活用して国づくり

蔡温さんの施策は、風水を元にした国づくりです。彼は風水を技術の裏付けとして活用したのです。留学時代に彼は、儒学以上に「実学」(陽明学)の影響を受けました。結果、中国にも朝鮮半島にもない琉球独自の風水を発展させていったものと思われます。

例えば、風水では川は曲がっているほうが良いとされます。直線だと気のエネルギーが一気に流れ出してしまうからとのこと。蔡温さんは、川の曲線化の目的を、河川の氾濫防止に応用しました。

植林にも力を入れました。当時、人々が樹木を好き勝手に切り倒して燃料にしていたため深刻な自然破壊が起きていました。彼は、風水思想を利用して植林を奨励します。植林しないと家に禍が起きるぞ、というわけですね。

風水で良いとされるのは山(気のエネルギーの根本)。ところが琉球は山が少ない。そこで樹木を山の代わりに見立てて「抱護」(ほうご)の思想を広めました。

台風襲来が多い琉球で、樹木は土地や家屋を守ってくれます。川筋や村囲い、屋敷・集落、海岸線に台風に負けない樹木を植えて防風林にすることはとても重要です。

防風林には風をふせぐ役目があることから、風によって内部の「気」(エネルギー)が飛散しないようにする「抱護林」と位置付けたのです。

村の配置変えも頻繁に行ないました。「水害や渇水、不作など、集落の「気」が悪いので村の位置を変えたい」との届出が首里の王府に出されると、久米村から風水師が村に派遣されます。風水師が配置換えをしたほうが良いと判断すれば、首里王府は村に許可を出します。

例えば、配置替えを行なって1年後、元の村落があった場所が「良くなる」場合もあります。するとまた、村落を戻すというケースもあったとか。

このようにして蔡温さんは風水を利用した国づくりを進めました。福建発の中国風水は、琉球独自の発展を遂げながら、首里王府から庶民の暮らしに至るまで浸透していったのです。琉球時代の沖縄の町や村、家並みの殆どすべては、琉球風水で作られていたそうです。

残念ながら、先の大戦で国土壊滅状態になり、しかも戦後の米軍基地設置などで、昔の面影は殆ど残っていません。一端を垣間見れるのが、沖縄本島北部の備瀬のフクギ並木でしょうか。

■神のネットワークと結びついた琉球風水

そしてまた、沖縄独特の風水思想をあらわしているものが御獄(ウタキ)の存在です。ウタキは沖縄の神々が下ってくる聖地であり、信仰のよりどころとして、今も大切に守られています。

代表的なものが世界遺産に指定されている斎場御獄(せーふぁーうたき)。琉球最高の聖地として、ニライカナイ信仰の根幹をなす神聖な場所です。

沖縄では各家庭でヒヌカン(火の神・家庭の守護神)を祀っています。ヒヌカンは村落や地域ごとに祀られた御嶽とつながっており、それら地域の御嶽から、人々の願いがセーファー御嶽に届けられ、さらに、創世神アマミキヨが天から降りて国づくりを始めたといわれる聖地・久高島にまで祈りが届くのだといいます。

これ、まるで現代のインターネットだと思いませんか? サイバー空間か、神のネットワーク領域か、という違いだけです。

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ヒヌカンを守り、祀るのは女性です。男性の役割ではありません。御嶽もまた男子禁制となっています。斎場御獄に入れるのは、男性では唯一、国王だけでした。

風水における聖地は、良いエネルギーが集結する大地のツボ。琉球風水では、御嶽となるわけですが、本来の儒教色は薄いようです。

中国の風水思想は儒教と密接に結びついています。儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を基に五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教えます。

琉球では、気候風土や民俗宗教との結びつきを深めていきました。琉球の風水とは、自然との調和であり、自然との共存です。

風水において理想とされるのは祖山に該当する山の存在(抱護の山)であり、この山が集落や町並みを護る形で後ろに控えているのが良いとされますが、沖縄の場合、そこには必ず神の息吹を感じられる御嶽があります。

御嶽が大地のツボならば、そこはエネルギーと元気を貰える場所。沖縄にはたくさんあります。沖縄のパワースポットめぐり、いかがですか。

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