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二学期初日の登校前 (皐月物語 19)

 枕元のスマホのアラームが朝の6時ちょうどに鳴り、及川祐希おいかわゆうきは眼を覚ました。柔らかい朝の光が手漉きてすきこうぞ障子紙しょうじがみを通して差し込んでいる。
 腰付障子を開けると廊下の硝子戸がすでに開けられていた。9月になると朝の空気で少しずつ秋に近づいていることがわかる。微かに流れる風が涼しくて気持ちがいい。
 祐希は窓枠に腰をおろし、欄干らんかんに手をかけて外の景色を見た。駅前大通りの裏の狭い道にある小百合さゆり寮からは商店街の店の勝手口が見えるだけなので、決して眺めが良いわけではない。それでも祐希はこの家に来てまだ二度目の朝なので、駅前商店街の裏通りの景色さえ新鮮に映った。
 祐希は皐月さつきを起こさないように、皐月の部屋を通らずに廊下を廻って洗面所に行った。隣の頼子よりこの部屋はもう布団が片付けられ、襖が開け放たれていた。旅館だった小百合寮は襖を間仕切りにしている。壁で仕切られていないので、隣の部屋の音がよく聞こえる。古い建物なので、プライバシーの概念が時代にそぐわない。
 洗面所には木枠にはまった大きな鏡がある。濃紺のタイル張りの洗面台にシンクが埋め込まれていて、レトロな味わいがある。普通の家の洗面所よりも広く作られているのはこの建物が元は旅館だったからなのだろう。
 祐希の朝の儀式はまず口をゆすぐことから始まる。そして顔を洗う前に櫛付きカチューシャで前髪を上げる。顔を洗う時は牛乳石鹸の赤箱が中学の頃からのお気に入りだ。泡がクリーミーで香りがほのかなローズ系なのがいい。洗顔後はシーブリーズを手にとって顔を軽くたたき、乳液をつけて保湿する。
 洗顔の後は髪の手入れをする。まず寝癖直しウォーターで乱れた髪を直すが、前髪だけは水で濡らして乾かさないと上手く決まらない。ドライヤーの音で皐月が起きないかなと気にしながらも、起こしちゃったら「おはよう」って言えばいいかと開き直る。もう朝食の時間だし、どのみち髪のセットが終わったら皐月を起こすつもりだった。
 皐月の部屋の扉をそっと開いた祐希は中を覗き込んで皐月に声をかけた。
「起きてる?」
 まだ遠慮がちだな……昨日と同じ台詞しか言えなかったことがもどかしい。皐月はまだ寝ているので、ちょっと声を作って明るく振舞ってみようと思った。
「お~い、朝だよ~。起きなさ~いっ!」
 皐月は一度寝返りを打った後、すぐに上半身を起こして祐希を見た。
「なんか今、知らない女の人の声が聞こえたんだけど」
「それ私。おはよう」
「……おはよう」
 友だちのノリでふざけて喋ってみたけど恥ずかしくなってきた。
「もうすぐ御飯ができるから、先に下に行ってるね」

 祐希がそそくさと階下へ向かうのを見ていた皐月は、実は祐希が起こしに来る前にもう目が覚めていた。皐月は祐希のスマホのアラームですでに起きていた。襖一枚しか隔てていない部屋とはいえ、聞こえてくる音は微かなものだから、皐月は相当耳聡い。もう一度寝直そうと思えばできたが、すっきりと目覚めたのでこのまま起きてもいいやと思った。
 自分が起きていることを悟らせないよう、皐月は布団の中で栗林真理くりばやしまりから借りた『100%ガールズ 1st season』の続きを読むことにした。
 普段は動画ばかり見ている皐月だが、こうして本を読むのもなかなか楽しい。今までは読書感想文のために課題図書を読まされていただけだったので、本に対して嫌悪感があった。でもこうして真理の好きな本を読むというのは自分の知らない真理の心に触れるような気がして少しドキドキする。
 洗面所での祐希の朝のルーティーンが一段落したような気がしたので、狸寝入りをして祐希に声をかけられるのを待った。もしかしたらそのまま階段を下りて行ってしまうかもしれないけれど、そうなったらすぐに窓を開けたい。今日から九月とはいえ、部屋はまだ熱気がこもりがちで皐月には暑く感じる。
「起きてる?」
 祐希が来た。声をかけられたら最初はスルーしようと決めていた。祐希に構ってもらいたかった。
「お~い、朝だよ~。起きなさ~いっ!」
 なんかアニメっぽい声を出してる。ちょっと笑いそうになったが、寝返りを打っている間に眠そうな顔を作り直した。「おはよう」と言った時の祐希の振舞いがちょっときょどっていておかしかったけれど、朝から顔の手入れをしていたので綺麗なお姉さんだった。

 読んだ本を閉じ、祐希に遅れて皐月も一階へ降りた。居間に行く前に台所を覗くと頼子が朝食の準備をしていた。
「おはよう、頼子さん」
「おはよう。祐希に合わせて早起きさせちゃってごめんね。眠くない?」
「大丈夫。夜更かしは苦手だけど早起きは得意だから」
「皐月ちゃんは健康的だね。もうすぐ朝食の用意ができるから待っててね」
「何か手伝うことある?」
「じゃあ用意ができたものから持ってってもらおうかしら。祐希にも手伝わせなきゃね」
 お盆にいろいろな小鉢が3セットずつ置かれていた。今日は小百合抜きの三人での朝食だ。皐月はまずこのお盆を居間へ持って行った。皐月を見た祐希もキッチンへ行き、残ったお盆を取りに行った。皐月はとりあえずテーブルの上に適当に並べ、また居間へ戻った。あとは急須と湯呑のお盆と、まだよそっていない御飯と味噌汁のお盆が残っている。皐月はお茶の方を持っていき、残りは頼子に任せた。
 居間に戻ってテーブルの上に適当に置いた食器を祐希と二人で並べ直した。皐月はどうやって並べるのかわからなかったので祐希に任せようと思っていたら、どうやら祐希も良くわかっていないようだ。
「祐希、並べ方わからないの?」
「え~っ、そんなのわからないよ。こんな立派な朝食、家で食べたことなかったし。適当でいいんじゃない、見た目さえ良ければ」
「いい加減だな~」
「大らかなのよ」
 祐希と皐月は食卓におかずを自分の好きなように置いた。焼鮭と大葉の上に大根おろしの乗せた皿、ほうれん草のお浸しに鰹節のかかった小鉢、ポテトサラダとプチトマトの小鉢、白菜と胡瓜きゅうり茄子なすの漬物三種盛り、温泉卵の小鉢、味付け海苔の小皿。この後に味噌汁と御飯が来る。
「すげ~なぁ。たくさんおかずがあるよ。こんなに食べられるかな……」
「あれ? 小食なの? 大丈夫だよ、一つ一つはそんなに量ないし」
「頼子さん、張り切ってるんだね」
「なんか食事作るの楽しみにしていたみたいだよ。今までは忙しくてあまりちゃんとした食事を作れなかったって言ってたから」
 祐希と皐月がああだこうだ言いながらおかずを並べ直していると頼子が御飯と味噌汁を持って来た。
「あら、ちゃんと用意してくれてたのね」
「お母さん、こんな感じでいいの?」
「あなたたちの食べやすいようにしてくれたらいいのよ。正式な配膳の作法もあるけれど、あんなのちっとも合理的じゃないから。地域によっても違うし、利き手でも食べやすさが変わってくるしね。だったらどうでもいいよね、おうちで食べるだけだったら」
 頼子が楽しそうな顔をしていた。
「こんなにたくさんのおかず、用意するの大変だったじゃない?」
「市販品もあるから見た目ほど大変でもないのよ。むしろ手抜きで恥ずかしいわ。皐月ちゃん、こんな朝食で良かった?」
「いいに決まってるじゃん。ありがとう! でも無理してない?」
「全然だよ~。心配してくれてありがとう」
 味噌汁は八丁味噌で、具は豆腐とわかめ。お茶はほうじ茶。皐月の大好きなものばかりだ。こんな朝食は芸妓げいこ組合で熱海に旅行に行った時以来だ。
「さあ、御飯にしましょう。今日から学校が始まるんだからね。しっかり食べて、元気に学校に行こうね」

 時間は6時20分。頼子と祐希と皐月の三人の朝食となった。皐月は余所よその家の朝食におよばれしているような居心地の悪さを感じていた。
「ママはまだ寝てるんだね。昨日は帰りが遅かったんだ」
「11時過ぎだったかな、帰ってきたのは。そんなに遅くなかったよ」
「じゃあ頼子さんはママが帰ってくるまで起きてたの?」
「そうよ。小百合が帰宅してからちょっとおしゃべりして寝たわ」
「あんまり寝てないじゃん」
「私は5時間も寝ればいい人だから大丈夫よ。それに昼寝する時間だってあるし。旅館で働いていた時はいつもこんな生活だったから慣れているの」
 朝食は普通に美味しいと皐月は思った。市販品が多いのは短時間で品数を増やすためには仕方がないから特に何も思わなかったが、ご飯の炊き加減や味噌汁の味付けは皐月の好みに合っていた。漬物は普段食べていなかったので少し抵抗があったが、食べてみると悪くはなかった。
「ねえ頼子さん、朝ごはんの時っていつも何かテレビとか見てるの?」
「そうね、家では時計代わりに情報番組をつけてたかな。メ~テレの『ドデスカ!』っていう地元の話題中心の番組なんだけど。皐月ちゃんは経済ニュースを見てるんだよね」
「今録画してるけど、『モーサテ』を再生しながらごはん食べたり宿題したりしてたよ」
「じゃあモーサテ見る?」
「いいよ、祐希が学校に行った後で。いつも7時過ぎくらいに録画で見てたから。それより『ドデスカ!』つけようか。いつも見てる番組見ると落ち着くでしょ。生活のリズムっていうか」
「じゃあそうさせてもらおうかな。ありがとうね、皐月ちゃん」
 テレビをつけ、いつもよりも少しボリュームを落とした。皐月にしてみれば、まだ慣れないこのメンバーでの朝食には何か番組をかけ流していた方が間が保てて助かった。頼子は二人に気を使いながら時々話しかけてくれるが、意外なことに祐希は黙々と食べるタイプだった。食べ終わった後にようやく自分から話し始めて、喋るだけ喋った後、6時45分になると自分の部屋に戻って学校に行く準備を始めた。その頃になると頼子も皐月も食べ終わり、頼子は後片付けを始め、皐月は居間に一人残った。

 皐月は録画中のモーサテを追っかけ再生で見ながら、昨夜真理に借りた『特進クラスの算数』という中学受験用の問題集を見た。最初の方には学校でもやったような計算問題が載っていたが、ほとんどの問題は授業でやったことのないタイプのものだった。皐月は最初こそ知的好奇心をくすぐられたが、この分厚い問題集のほとんどが難しそうな問題だったので、手をつける前から嫌気がさしてきた。
 祐希が階段を下りてくる音が聞こえたので、ビデオを一時停止して問題集を閉じた。祐希がキッチンを覗いて頼子に行ってくると声をかけ、居間の方に来た。
「学校に行ってくるね」
「見送るよ」
 制服に着替えた祐希はかわいかった。見た目は地味なセーラー服だが、着崩さずきっちりと制服を着た姿は清楚で魅力的だった。メイクをしているようには見えなかったが、色付きリップで唇がほんのりとピンクに色付いていた。髪はサラサラにセットし直されていた。香水でもつけているのだろうか、今まで皐月が知っていた祐希とは違う香りがしていた。
「なんか祐希、今朝はかわいいね。女子高生って感じで凄い」
「なによ、凄いって。意味分かんない。でもかわいいって言ってくれて嬉しいな。朝から気分がいいよ」
 祐希は頼子と皐月に見送られて学校へ行った。7時5分に家を出て、15分発の中部天竜行き普通に乗って学校の最寄り駅で降りる。

 皐月は登校の時間までモーサテの続きを付けっぱなしにして再び算数の問題集に目を落とした。しかし祐希の見送りで集中力が途絶えたのでテレビの音声が気になり、あまり没頭できなくなっていた。
 問題を解いているわけではなかった。なんとなく断片的に考え事をしていた。算数のこと、受験のこと、真理のこと、祐希のこと、祐希の恋人のこと、そして千智のこと……。見てもらえないかもと思いながら入屋千智におはようのメッセージを送ってみた。すぐに返信が返ってきたのが嬉しかった。千智も朝は忙しいだろうから返信の返信はしなかった。
 問題集の問題を見ていると、皐月は中学受験という選択を考えもしなかったことを後悔し始めた。時々見せてもらっていた真理の塾のテストの問題、こういうのを解ける子たちばかりが集まる学校は楽しいのかもしれない。成り行きで地元の公立の中学に行ったところで、楽しい未来なんてないのかもしれない。皐月は稲荷中のいい話を何も聞いたことがなかった。
 今から受験勉強をしたところで入れる学校はあるのだろうか。真理が言うには、この問題集の例題・練習と力だめし問題ができれば普通のレベルの学校なら合格できるんじゃないかとのこと。この問題集をやってみて皐月が中学受験をしようと思ったのなら、家にあるテキストを何でも貸す。でも中学受験をしないのならこんな本で勉強するのはあまり意味がないと言った。どうせ勉強するなら数学の勉強でもして中学・高校の先取りをした方がいいとのこと。祐希が帰ってきたら高校の教科書を見せてもらおうか。
「ちょっと皐月ちゃん。もうそろそろ学校に行く時間じゃない?」
 もう7時45分になっていた。50分には班登校の集合場所に行かなければならない。これからは朝に1時間の空き時間ができるので、明日からはモーサテを見るのはママに任せて、自分は勉強でもしようかと思い始めた。ただその勉強が中学受験の勉強か先取りかはまだ決めかねている。


最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。