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修学旅行の朝、出発式(皐月物語 129)

 修学旅行の朝、藤城皐月ふじしろさつきはいつもより早く目を覚ました。外はまだ薄暗かった。窓を開けて新鮮な空気を入れると、部屋がひんやりと冷えて気持ちが引き締まった。
 軽く体を動かした後、芸妓げいこ明日美あすみに買ってもらった服に着替えた。白のルーズフィットのトップスと黒のテーパードパンツを身に纏うと、明日美色に染まったような気がした。冷えていた服もすぐに体温で温かくなった。
 洗面所にはすでに及川祐希おいかわゆうきがいて、歯を磨いていた。まだ高校の制服には着替えていなく、昨日の夜と同じパジャマを着たままだった。
「祐希、おはよう。今朝は早いね。どうしたの?」
「おはよう。私も早く家を出ようかなって思って。皐月たちが修学旅行に行くところを見たいから」
「え~っ、見に来なくてもいいよ~」
「そういうことを言わないのっ。それに、私が見たいのは皐月だけじゃないよ。真理ちゃんにだって会いたいし、久しぶりに博紀君も会いたいな。皐月がどんな友達と仲良くしているのかも見てみたい」
「そんなの見てどうすんだよ?」
「いいでしょ、別に。6年生の子たちって可愛いじゃない」
 女子高生を連れて駅に行ったらクラスメイトにゴシップネタを提供するだけだ。だが、それも案外悪くないかもしれないと皐月は前向きに考えることにした。新しい話題を提供することで同級生たちは情報過多になり、すでに広まっている噂の印象を薄めることになるかもしれない。
「じゃあ、駅で俺の友達を紹介するよ」
「ホント? 楽しみ~」
「みっともないから、あんまりはしゃぐなよ」
「照れなくてもいいのに。皐月のそういうとこって子供みたいだよね」
 最近の祐希は可愛いと言いながら皐月にキスをしてくる。今朝の祐希はミントの香りがした。

 一階に下りた皐月は楽器置場になっている取次にリュックサックを置いて台所へ行った。
頼子よりこさん、おはよう」
「おはよう、皐月ちゃん。朝食は喫茶店のモーニングみたいにしたよ。飲み物は何にする?」
「トーストセットならコーヒーにしようかな。準備は俺がやるよ」
「そう? ありがとう。じゃあ、お湯を沸かしておくね」
 頼子が薬缶に水を入れて火にかけた。お湯が沸くまで少し時間がかかるので、皐月は祐希が何を飲みたいのかを聞いておこうと思い、台所を出た。小百合さゆり寮は昭和の古い旅館だった建物を置屋にしているので、階段が急勾配だ。皐月は階段に後付けされた手摺をつかんだ。
 階段を上っていると、祐希がまだ洗面所にいるのが見えた。皐月は床すれすれに顔が出る高さで上るのをやめて、下から祐希を見上げた。ヘアースタイルはほとんど仕上がっているようで、今はメイクをしているところだった。
「朝食はトーストセットだって。俺はコーヒーを飲むけど、祐希はどうする?」
「私もコーヒーにしようかな」
「わかった。俺が淹れておくよ」
 祐希に手招きをされたので、皐月は階段を上り切った。祐希は皐月を引き寄せて、この朝二度目の口づけをした。
「しばらく会えなくなっちゃうからね」
「しばらくって、一日泊ってくるだけじゃん」
「いつも一緒にいるから、一晩でもいなくなると寂しいなって思って……」
 祐希がもう一度キスをしてきた。皐月はコーヒーのお湯のことが気になるので、祐希の癖に合わせた繊細さに欠けるキスをすると、すぐに体を離した。
「6時15分には家を出るから、早く下りて来いよ」
 皐月は唇を親指で拭い、階段から転げ落ちないように急いで下りた。台所に入ってトレーを出し、二人のマグカップとコーヒー豆と、ハンドドリップで使う器具一式を居間に運んだ。
 小川珈琲店の『有機珈琲フェアトレードモカブレンド』をコーヒーミルに入れ、ゴリゴリと手で挽いた。コーヒーサーバーにドリッパーを乗せ、ペーパーフィルターを密着させて挽いたばかりのコーヒー粉を入れた。粉の表面を平らにするのがいいと、幼馴染の栗林真理くりばやしまりに教わっているので、その通りにした。
 皐月が再び台所に行くと、頼子が薬缶からドリップポットに湯を注いでいた。火傷しないように気をつけてドリップポットを居間に運び、ドリッパーに湯を注いだ。最初に軽く、全体に湯を浸み込ませ、二度目は中央に小さな円を描くように湯を注ぐのがいいらしい。これも真理に教わった。
 皐月はコーヒーが抽出されるのを見つめながら、祐希との関係に背徳感が薄れていることを感じていた。それは秘密の約束をしたという安心感でもあるが、性的な行為に慣れてきたことで間違いない。女の子と触れあうことに憧れ、ドキドキしていた頃の純情は忘却の彼方へ捨ててしまったのかもしれない。
 コーヒーを淹れ終わったので、ドリッパーを片付けに台所へ持って行った。頼子は調理を終えていて、出来上がった弁当を楽しそうに詰めていた。朝食のパンがちょうど焼けたところだったので、皐月はトーストにバターを塗り、自分の分と祐希の分を居間へ運んだ。
 コーヒーサーバーからマグカップにコーヒーを注いでいると、祐希が二階から下りてきた。制服に着替えた祐希はナチュラルにアイメイクをしていて、一目いつもより華やいでいた。こんなに可愛くなった祐希と一緒に駅に行けば、クラスメイトや他のクラスの子たちにいろいろ言われるだろう。
「うわ~。コーヒーとトーストだ。いい匂いっ! お腹空いちゃった~」
「食べようぜ」
 今日は録画している『Newsモーニングサテライト』を見ないで、YouTube にあるスターバックスのJAZZカフェミュージックを流すことにした。リラックスし過ぎて家でゆっくりしたくなってしまうが、今日は時間を気にしなければならないので、ちょっと早食いするつもりだ。
「祐希ってさ、なんで今朝はメイクしてんの?」
 皐月はサラダを食べ終わった後、さっきから気になっていたことを聞いてみた。
「可愛くなったでしょ?」
「可愛過ぎるんだよ」
 皐月はパンの耳をかじり、コーヒーで流し込んだ。
「皐月のお友達に見られるから、ちゃんとしなきゃって思っただけ」
「デートだろ、どうせ」
「違うよ。……心配?」
「別に」
 一辺だけ残したクラストを持ち、バターのたっぷり滲み込んだクラムだけを大きく口を開けて頬張った。美味しいものを食べると、一瞬ではあるが嫌なことから意識を逸らすことができる。
 頼子が祐希のも含めて三人分の弁当を持って来た。皐月と真理の分は使い捨てられる紙袋にくるまれていて、祐希の弁当はランチバッグに入れられていた。
「お弁当に羊羹ようかんを入れておいたからね」
「ありがとう。何個入れた?」
「一つだけど?」
「昨日は江嶋えじまに二つあげてたじゃん」
「あれは昨日と今日の分。もっと欲しかったの?」
「いや……やっぱりいいや」
 卑しかったかな、と皐月は苦笑した。微笑んだ頼子はリュックサックの横に弁当を置き、今の隣の部屋に入って皐月の母の小百合さゆりを起こしにいった。
 朝食を終えた皐月と祐希は食器を台所へ戻し、リュックの中に突っ込んである移動用のナップサックに弁当を入れた。祐希は玄関の鏡でメイクを直し始めた。
「おはよう。もうそろそろ家を出るの?」
 小百合が寝足りない顔で、就寝着のまま部屋を出てきた。
「うん。無理して早起きしなくても良かったのに」
「あんたが家を出たら、もう一度寝るよ。駅での見送りは祐希ちゃんに任せる」
 学校側は保護者による駅での見送りを推奨している。
「見送りに来る親はあまりいないんじゃないかな。親に車で送ってもらう奴はいると思うけど、車を停める場所がないから、親はすぐに帰っちゃうと思うけど」
凛子りんこも朝は真理まりちゃんを玄関で見送るにとどめるって言ってたな。駅まで出ると、メイクをしなきゃいけないからね。まあ、凛子の家は駅のすぐ近くだから、わざわざ駅まで行かなくてもいいんだけど」
 皐月と祐希は小百合と頼子に見送られて家を出た。今日はいつもより朝も早いし、向かう方向も違う。隣には祐希がいるので、皐月には特別の朝という感じがして、自分でも驚くほど気持ちがたかぶってきた。
「リップ塗ったんだ」
「新しい色、買ったの。似合う?」
「うん」
「キスしたくなっちゃう?」
「なる」
「してもいいよ」
「こんなとこでできるわけねーだろ。バ~カ」
 皐月はこんなに可愛くなった祐希と学校で会える祐希の恋人が羨ましくなり、嫉妬心が湧いてきた。いでいた心にさざなみが立ち始めた。

 修学旅行出発の集合場所は豊川駅の改札口の前だ。東西自由通路は広いので、1学年の児童数くらいなら余裕で集まることができる。
 豊川駅西口のロータリーに次々と車が横付けされ、児童が降りてきた。西口には長時間の駐車ができないので、すぐに車は去って行った。駅で子供を見送るつもりがあるならば、親は車を東口にある名鉄協商の駐車場に停めるか、西口から少し離れた豊川商店街の駅前駐車場に停めなければならない。
 皐月と祐希は広い階段を上らずに、エスカレーターで改札口まで上がった。改札口前には集合時間10分前なのに、すでに大勢の児童たちが集まっていた。見送りの父兄が皐月の想像よりも多く、修学旅行が大型の学校行事だということをここで改めて実感した。
 6年4組の児童が集まっているところを見ると、月花博紀げっかひろきの周りには男子の友達が集まっていて、その周りに女子が群がっていた。皐月は博紀と目が合ったので、軽く手を挙げた。祐希を見たからなのか、博紀が一瞬動揺したように見えた。
「博紀、おはよー」
「おはよう。祐希さん、おはようございます」
「おはよう、博紀君。いよいよ修学旅行だね~」
「はい。祐希さんはこれから登校ですか?」
「うん。でも、登校のついでに皐月たちを見送ろうと思って来たの」
 博紀と話をしている祐希を見て、一緒にいた村中茂之むらなかしげゆきら男子友達はポカンとしていた。皐月の班のメンバー以外に祐希の存在を知る者はいない。ファンクラブの女子たちは博紀と親しげに話す祐希に強い視線を送っていた。
 皐月は博紀のファンクラブ会長の松井晴香まついはるかに腕を引っ張られ、群れから少し離れたところで詰問された。
「ちょっと、藤城。あのJKってどういう人?」
「おう。松井、おはよう。彼女は俺んに下宿している人だ。博紀とは面識がある。事情は複雑だから、また暇な時に教えてやるわ」
「月花君の態度が私たちと話す時と全然違う……」
「年上だからじゃね?」
 晴香が泣きそうな顔になっていた。皐月は自分がみんなにからかわれることばかり考えていたが、博紀のファンがこんな風に悲しむことを全く考えていなかった。
「松井、メイクしてきただろ。服もよく似合ってる。お前の方があの女子高生よりずっと可愛いじゃん」
「慰めてくれなくてもいいよ。絶対あの女の方が可愛い……」
「そんなことねーよ。松井の方が圧倒的に可愛いって。今日のお前って6年生で一番可愛いんじゃねーか? もっと自信持てよ。それに京都ではずっと博紀と一緒にいられるんだろ。お前の勝ちじゃん」
 実際、この日の晴香は可愛かった。晴香は勝色かちいろのフレアデザインのジャンパースカートに、白のリボンブラウスを合わせてきた。黒のウォーキングブーツと組み合わせて、きれいめのガーリーテイストに仕上がっていた。
 皐月は元気づけるために晴香を褒めたが、こんなに魅力的な女子に好かれる博紀のことを羨ましく思ったくらいだ。皐月は晴香のメンタルを保つためにも、今すぐ祐希を博紀から引き剥がさなければならないと思った。
「祐希、もう改札に行きなよ。学校に行くんだろ?」
「こんなに早く高校に行ったって、開いてないよ。私は皐月たちを見送ってから行くの」
 小学生男子に囲まれているからか、祐希はやけに機嫌が良かった。確かに晴香が泣くくらい祐希は可愛かった。男子たちも同級生の女子を相手にしている時とは違い、祐希には甘えている感じがした。
「ねえ、博紀君と皐月の写真撮らせてよ。後で小百合さんに見せてあげたいから。博紀君、いい?」
「いいですよ」
「マジか、お前! 写真撮らせてもいいのか? 祐希に拡散されるぞ」
「そんなことしないよ。私の友達にちょっと見せて、自慢するだけだから」
 博紀がこんな際どいお願いをきくとは思わなかった。祐希は同級生の博紀ファンと、数少ない皐月ファンに写真を見せたいのだろう。皐月が博紀と一緒に写真に写るのは夏休みの終わりの豊川稲荷以来だが、二人で写った写真はまだ一枚もない。
「博紀と一緒に写った写真、俺のスマホの待ち受けにしようかな」
「気持ち悪いこと言うな、バカ」
 撮影を終えると、祐希が博紀や茂之たちを集めてみんなの写真も撮りたいと言い出した。舞い上がっている祐希を苦々しい思いで見ていると、真理が到着した。
「祐希さんも入ったら? 私が撮ってあげる」
「真理ちゃん? おはよう。可愛い~! 写真、お願いしちゃおうかな」
 真理は祐希からスマホを受け取り、まずは祐希を真ん中にした皐月と博紀の三人の写真を撮った。その後、クラスの男子たちを交えた、紅一点の集合写真も撮影した。
 この時、少し遅れて花岡聡はなおかさとしがやって来た。祐希の周りに男子が群がっていることが気になるらしい。
「先生、おはよ。あの女子高生って誰?」
「ああ。あの人は俺ん家に住んでいる人。確か花岡には話したことがあったよな。俺の家に芸妓の弟子が来て、娘を連れて来て一緒に住み込んでるって。その子だよ」
 祐希のスマホの写真を博紀たちが見て、男子たちが祐希に写真をくれと言い出した。修学旅行が終わったらみんなに送ってやると、祐希の代わりに皐月がみんなと約束した。
「祐希。こいつが俺の親友の花岡聡先生」
「こんにちは。及川祐希です」
「こんにちは、はじめまして」
 聡が顔を赤くしていた。普段はエロいことばかり言っているくせに、意外と初心うぶな奴だ。今日の聡はグレーのビッグシルエットの重ね着風トレーナーを着ていて、カーキーのカーゴパンツで決めてきた。チャラい感じが格好いい。
「ねえ、祐希。聡と三人で写真を撮ろう。真理。俺たちの写真、撮ってくれる?」
「いいよ。じゃあ、祐希さんが真ん中になって」
 祐希を真ん中にして三人が並んだ。三人で撮ろうと思ったが、背後に男子どもが集まってきてしまい、集合写真のようになった。撮影が終わると、また男子たちが祐希に群がったので、皐月は真理に大事な話をした。
「弁当持って来たぞ」
「ありがとう」
「今日の真理、めっちゃ可愛いな」
 真理はモノトーンのコーデで決めてきた。ワイドカラーの六分袖のホワイトシャツはフロントフリルがクラシックだ。黒のネクタイと黒のスカートを合わせ、黒のレギンスを履いていた。金の蝶の髪飾りと黒いスニーカーの赤い靴紐がいいアクセントになっていた。
 クラスの男子の真理を見る目がいつもと違って輝いていた。それは今日の真理の姿を見れば無理のないことだ。
「どうせ他の女の子にも調子のいいこと言ってるんでしょ」
「そんなことねーよ」
 皐月は真理に可愛いと言ったが、本当は格好いいと言った方が適切だと後で気がついた。良く考えないで反射的に可愛いと言ってしまうのが皐月の悪い癖だ。
「でもさ……今日の真理のコーデ、俺とかぶってない?」
 明日美に買ってもらった皐月の服もモノトーンだ。皐月の場合、紫のインナーカラーがアクセントだ。
「ネットで見たコーデを参考にしただけ。偶然だよ。あ~あ、私も祐希さんみたいにメイクして来ればよかった」
「お前がメイクして来たら、みんなに見つかっちゃうじゃん」
 皐月と真理が話しているところに祐希がやって来た。祐希の浮かれた雰囲気が心なしか消えているように感じた。
「真理ちゃんと皐月ってリンクコーデだね。まるで恋人同士みたい。二人の写真も撮ってもいい? 小百合さんに見せたいな」
「また写真かよ……。いいのか? 真理」
「いいよ。私もお母さんに今の皐月を見せたいから」
 祐希に真理と写った写真を見せてもらった。真理は少しはにかんで写っていた。真理と二人の写真なんて何年ぶりだろう。皐月は真理と二人の写真をあまり持っていない。これからは真理の家に行った時に写真を撮っておくのもいいなと思った。
「真理ちゃん、藤城君、おはよ~」
 同じ班の二橋絵梨花にはしえりか吉口千由紀よしぐちちゆきがやって来た。絵梨花は相変わらず清楚なお嬢様だ。限りなく白に近い薄ベージュのブラウスに、秋らしいブラウンのワンピースが可憐であり上品だ。千由紀は薄花色のワンピースに紺色のベストを合わせていた。カーキー色のベレー帽がよく似合っている。
 絵梨花を見た祐希が嬉しそうな顔をしていた。真理が絵梨花と話し始めたので、祐希が少し離れたところから真理と絵梨花を見ていた。皐月は千由紀に話しかけた。
「今日はなんとなく文学少女っぽいんだけど」
「ベレー帽なんかかぶっちゃったからね……」
「紺色のコーデがよく似合ってる。知的に見えるけど、ベレー帽で可愛らしさもアップしてる」
 珍しく千由紀が頬を染めていた。皐月と千由紀が話しているところに鉄道オタクの岩原比呂志いわはらひろしがやって来た。
「藤城氏、おはよう。飯田線は何度乗っても楽しいね」
「豊橋駅に行く時って、テンション上がるよな」
 比呂志は鉄ヲタらしいコーデだった。ジャケットを羽織ったりキャップをかぶったりして、結構ファッションを頑張っていた。
「今日は新幹線にも乗れるし、京阪にも乗れる。班のスマホ借りて、写真撮りまくってもいいのかな?」
「いいよ。枚数に制限なんてないんだから。新幹線の写真は撮れないけど、京都の鉄道の写真は撮りまくろうぜ」
 オカルトマニアの神谷秀真かみやしゅうまもやって来た。ぱっと見は小学生らしい無難なファッションだが、わかる人にはオカルトの匂いがする。勾玉のペンダントをしているし、パーカーの下のTシャツにはカタカムナウタヒ第5首がプリントされていた。
「おはよう、皐月こーげつ。眠いよ。昨日は遅くまで仏教とか神道のことを調べてたから睡眠不足だ」
「さすがは秀真ほつま。俺もそういうの調べようと思ってたんだけど、寝ちゃった。京都では情報注入頼むわ」
 皐月たちが話をしている間、祐希は真理の傍にいながらずっと皐月たちを見て微笑んでいた。以前、班のみんなに祐希のことを話したことがあったので、皐月はみんなに祐希のことを紹介しようと思い、祐希や真理たちを集めた。
「紹介するよ。彼女が一緒に住んでいるって言った人で、祐希さんって言うんだ」
「及川祐希です。はじめまして」
 真理以外の子たちはそれぞれに挨拶を返した。比呂志や秀真は照れているのか、声が小さかった。千由紀は人見知りなので伏し目がちだったが、絵梨花はしっかりと祐希の目を見ていた。
「藤城さんが祐希さんのことをお姉さんみたいな人って言ってたんですけど、藤城さんって家では祐希さんの弟みたいな感じなんですか?」
「うん。弟がいたらこんな感じなのかなって思うよ」
 可愛い絵梨花と話ができて、祐希は幸せそうだ。真理は祐希が皐月のことを弟だといったせいか、穏やかな顔で絵梨花と祐希が話しているのを見ていた。千由紀はいつも通りの無表情で祐希を見ていた。
 遠くから江嶋華鈴えじまかりんに呼ばれる声が聞こえた。声の方を探すと、野上実果子のがみみかこと二人でいるのが見えた。皐月は華鈴からおやつの餡ドーナツを貰わなければならないので、祐希たちの元を離れた。
「おはよう。なんだ、野上。お前、髪の毛黒くして来たのか」
「まあ、北川の顔を立ててやろうと思ってさ……」
 実果子は臙脂えんじ色のスタジャンとブルーのデニムパンツのコーデだった。謎のキャップをかぶっていたが、それがよく似合っていた。アメカジスタイルは普段のヤンキーみたいな恰好よりも実果子に合っていると思った。
「金髪プリンも似合ってたけど、黒髪の野上もいいじゃん。お前って結構可愛かったんだな」
「うっせーよ、バ~カ」
 照れた実果子は皐月の左肩の辺りを思いっきり突き飛ばそうとした。だが、皐月がギリギリのところでかわしたので、実果子は勢い余って皐月に倒れ込んできた。皐月は実果子のことを抱きとめて、華鈴に話しかけた。
「餡ドーナツ、持って来た?」
 実果子のことを意識しないふりをして体を剥がし、皐月は何事もなかったように華鈴に体を向けた。
「持って来たよ」
 華鈴がリュックサックを下ろし、中から餡ドーナツを二つ取り出して皐月に手渡した。華鈴は白のロングTシャツに柿色のベストを使ったコーデで、ブラウンのショートパンツが秋らしくて可愛い。優等生の華鈴がカジュアルを頑張った感じがした。
「これこれ! なんだ、二つもくれるのか?」
「だって昨日、羊羹を二つくれたでしょ? だから私も二つあげる」
「おう、ありがとう。……野上、お前にも一つやるよ」
「えっ? なんで?」
「二つもらったんだから、半分こしようぜ」
「ありがとう……」
 実果子に餡ドーナツを渡すと、戸惑いながらも嬉しそうに受け取った。華鈴がリュックの中から皐月に貰った羊羹を取り出した。
「実果子ちゃん。私の羊羹もあげる。昨日、藤城君に二つもらったから」
「いいの?」
「うん」
 実果子が申し訳なさそうに華鈴から羊羹を受け取った。実果子の家は父子家庭だ。父親がトラックの運転手をしているので、今日の弁当は実果子が作るか、どこかで何かを買って持って来たのだろう。
「こっちは何もお返しするものがないんだけど……」
「くだらないこと言ってんじゃねーよ。俺はギブアンドテイクとか考えてねーから」
 皐月は卑屈な実果子を見たくなかった。キレられてもいいから、煽り気味にキツいことを言った。
「これで俺たち、京都の訪問先は違うけど、同じおやつを食べることになるんだぜ。楽しくねーか?」
「……まあ、楽しいかな」
「だろ? いいじゃん、それで」
 5年3組の時のこの三人で京都をまわれたら、それはそれで楽しいだろうなと思った。皐月たちは半年間も同じ班で席が近かったので、皐月にとって今の6年4組のメンバーよりも親密度が高い。
「藤城君。出発式の挨拶、よろしくね」
「おう、任せてくれ。人前で話すのは江嶋みたいに上手くないと思うけど、頑張るわ」

 集合時間の6時30分になったので、クラス毎に児童が集まって出欠の確認を取り始めた。児童の周りには父兄たちが大勢いた。その中に祐希もいた。皐月は出発式が始まる前にクラスから抜け出して、祐希のところへ行った。
「じゃあ、修学旅行に行ってくるね」
「楽しんで来てね」
 皐月が素早く元いた場所に戻ると、皐月と一緒に修学旅行実行委員を務めている筒井美耶つついみやが駆け込んできた。
「美耶、遅ーい! 欠席かと思った!」
 晴香らが怒っていた。皐月も美耶を見かけなくて心配だったが、美耶が病気で休むわけがないと思っていた。
「筒井、ギリギリセーフだな」
「間に合って良かった~」
「本当だよ。お前がいなかったら明日のバスレク困っちゃうよ。それに筒井がいないと寂しいじゃん」
「えへへへ」
 校長先生の挨拶とともに、修学旅行出発式が始まった。修学旅行の責任者の北川先生から最終的な注意事項の確認がなされ、見送りに来た保護者に挨拶をした。その後、修学旅行実行委員会の委員長から挨拶があると言われ、皐月はみんなの前に出ていった。
 豊川駅の改札口を背にして、皐月は6年生の全児童と保護者の前に立った。思ったよりも緊張しなかった。皐月は覚えてきた挨拶文を暗誦しようと考えていたが、直前になって気が変わり、アドリブに切り替えた。
「おはようございます。修学旅行実行委員の委員長の藤城皐月です。今朝はみんな、いつもより早起きをしたと思いますが、お元気ですか? 僕は今年最高レベルの元気で、テンションが上がりまくっています。何をやってもうまくいくような気がしていて、ちょっと調子に乗っているかもしれません」
 祐希が笑っているのが見えた。父兄や児童たちの反応も悪くなかった。
「こういう時は気が緩みがちです。ですから、僕の周りにいる人は僕のことを気に掛けて、僕がよからぬことをしそうになったら遠慮なく叱ってください。もしかしたら僕のように浮かれている児童が他にもいるかもしれません。班行動の時に僕みたいな子がいましたら、どうかまわりのみんなでフォローしてあげて下さい。よろしくお願いします」
 視界の端に入屋千智の姿を捉えた。千智が見送りに来ることを聞いていなかったので驚いたが、皐月が動揺することはなかった。しばらく会えないと思っていた千智に会えたことが嬉しかった。遠くから見ても、千智は誰よりも可愛かった。
「保護者の方々へ挨拶をさせていただきます。これから僕たちは京都・奈良へ旅立ちます。大いに学び、大いに遊んで、ひと回り成長して帰って来ます。一日家を開けることになりますが、どうか寂しがらないで待っていてください。お土産はあまり買えないかもしれませんが、土産話はたくさん持ち帰ることができると思います。稲荷小学校の6年生の児童は家族に修学旅行で見たこと感じたことをたくさん話してあげてください。それでは今から僕たちは修学旅行に行ってきます」
 挨拶を終え、礼をすると父兄たちから拍手が起こった。千智を見ると目が合った。ので、軽く手を上げて元いた場所に戻った。千智の笑顔は遠くから見ても眩しかった。
 出発式が終わり、北川先生の指示のもと、児童たちは整列して自動改札横の改札口から中へ入って行った。これからJR飯田線に乗って豊橋駅へ行き、新幹線に乗り換えて京都駅へ行く。
 改札を抜ける児童一人一人に校長が声をかけていた。皐月は挨拶を褒められ、頭をなでられた。とうとう修学旅行が始まった。


最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。