修学旅行の夜(皐月物語 144)
稲荷小学校の6年生130人は修学旅行で京都のホテル「つづれ屋」に宿泊している。夕食の時間になり、児童たちは5階の食堂に集まっていた。食堂は会議室よりも広く、小学校ならもう1校は呼べそうなほど余裕のある作りだった。
広い食堂には4人掛けのテーブルがずらりと並べられていた。会議室で行われた匂い袋作りの体験学習の時とが違い、座席の区画がクラスごと男女ごとに分けられていた。席順は決まっていなかったので、入室した順に席を詰めた。
藤城皐月と花岡聡が6年4組の男子の場所へ行くと、神谷秀真と岩原比呂志の前の席が空いていた。秀真が手を振ったので、皐月と聡は秀真と比呂志の前の席に座った。そこは月花博紀たちのグループの隣のテーブルで、皐月は博紀の横の席になった。
「うわっ! 凄っ! めっちゃ美味しそうじゃん」
テーブルに並べられた料理を見て、皐月は驚いた。修学旅行だからもっとしょぼい料理だと思っていたので、想像以上の豪華な料理が嬉しかった。
鍋物は魚の寄せ鍋と豚しゃぶの二本立て。おばんざいは湯葉煮、温物は茶碗蒸し。そしてサラダとデザートの抹茶ケーキまでついていた。よく見ればそれほど高価な材料を使っているわけではないが、品数の多さと食器や飾り付けの美しさで華やかに見えた。
「花岡は今日行った所だと、どこが一番良かった?」
皐月はまだ聡と京都の訪問先の話を何一つしていなかった。夕食の献立を前にして、ようやく人心地がつき、普通の話ができた。
「月並みだけど、清水寺かな……。京都に来たって感じがしたよ。清水寺がどんな寺なのかは知らないけど、清水の舞台って有名じゃん。藤城はどこが良かった?」
自分はどこが良かったんだろう……と返答に窮した。皐月は寺社巡りをしているうちに、自分の神仏への考え方がわからなくなり、どこが良かったと清々しく言える心境ではなくなっていた。
「う~ん。俺は東寺かな。五重塔が凄かったし、何より仏像が良かった」
「仏像? お前ってそんな趣味あったっけ?」
「なんで? 仏像、いいじゃん。二橋さんも仏像が好きなんだって」
皐月は聡が二橋絵梨花のことを好きなのを利用して、話をはぐらかそうとした。すると、反対側の隣に座っていた博紀が絵梨花という名前に反応した。
「二橋さんって仏像が好きなのか?」
博紀は皐月に小声で耳打ちした。周りは男子しかいないので遠慮する必要がないはずなのに、博紀は人に聞かれないように皐月に話しかけてきた。
「ああ。清水寺でも東寺でも熱心に仏像を見てたよ。特に東寺の立体曼荼羅には夢中になった。お前にこの話をしたことがあったと思うけど、彼女の言った通り、立体曼荼羅は凄かった。いつかまた見に来るってさ」
「へぇ……凄かったのか」
博紀は聞きたいことを聞くと、これ以上話すことはないと思ったのか、冷めた顔で隣に座っている村中茂之たちとの談笑に戻った。
「皐月って東寺が気に入ってたんだ。仏教よりも神道の方に興味があると思ってた」
秀真の言う通り、皐月はあまり仏教に関心がなく、神道の方に興味があった。だが、この修学旅行をきっかけに興味の対象が広がった。
「東寺の真言密教には興味がないけどね。清水寺の唯識論の方が俺は好きかな。唯識論ってシミュレーション仮説みたいじゃん」
「ちょっと先生……何言ってんだかわかんないんだけど……」
「あっ、ごめん。花岡。俺たちってこういうオタク話をしながら寺や神社を見ていたんだ」
「ふ~ん。じゃあ、京都は面白かったんだな」
聡に京都のどこが良かったのか聞かれた時は即答できなかったが、こうして思い返すと何もかもが良かったのかもしれないと、聡に気付かされた思いがした。
ホテルの係の人が固形燃料に火を付けてまわっていた。皐月たちのテーブルにも点火に来て、食事の準備が整った。修学旅行実行委員の副委員長、江嶋華鈴がみんなの前に移動し、食事の挨拶をした。
「手を合わせてください。いただきます」
京都観光での買い食い禁止の規則を真面目に守っていた児童たちはお腹を空かせていた。食事が始まるとしばらくの間、みんなはおしゃべりを忘れて黙々と料理を食べていた。鍋物が温まったので、児童たちは鍋にも手を付け始めた。皐月が熱々の豚しゃぶを食べながら幸せを感じていると、聡が話しかけてきた。
「なあ、先生。江嶋って可愛くなってね?」
児童会長でお堅いイメージの強い華鈴は男子からはノーマークだ。聡に見つかった、と皐月は警戒した。
「江嶋は昔から可愛いじゃん。花岡の班の浅見や烏丸や長谷村だって可愛かっただろ?」
「先生はよく女を見ているなぁ。確かに今日のあいつらはいつもより可愛かった。女子ってこれからどんどん可愛くなっていくんだろうな」
「中学に上がれば制服ブーストがかかるからな。俺たちだって学ラン着たら女子の見る目も変わってくるぞ」
初めて食べるおばんざいの湯葉が美味しくて、皐月は湯葉ばかり食べて王茸との割合がおかしくなってきた。
「ねえ、藤城氏。後で僕たちの部屋においでよ。出町柳駅で買った叡山電車のグッズを一緒に見よう」
「ホント? それは嬉しい! 未開封で家に持って帰られたら、岩原氏ん家に見に行くまでお預けになっちゃうからね。デナ21型の車両、俺にも触らせてよ。あれ、いいな~って思ってたんだ」
修学旅行の栞には、自由時間に他の部屋に行ってはいけないと書かれている。だが皐月はこの規則を無視するつもりでいた。フロアの間取りを見る限り、先生の監視の目が行き届くとは思えなかったし、監視すらしないだろうと予想した。女子のフロアへ行ったり、他のクラスの部屋に行って問題を起こさなければ大丈夫だろう、というのが皐月の判断だ。
「伏見神寶神社で買った十種神宝のペンダントも見に来いよ。ペンダントについていた冊子も一緒に読もうぜ」
「それ、俺も欲しかったやつだ。見せて見せて」
聡をないがしろにしているようで心が咎めるが、京都観光中は忙しくて二人の買い物の品を見る暇がなかった。聡は聡で隣に座っている同じ班の者たちと仲良くしているようなので、皐月は安心して比呂志や秀真との会話を楽しんだ。
夕食が終わると入浴の時間になる。大浴場とはいえ、全員で入るには狭すぎるので、2クラスずつ分かれて入ることになっていた。皐月たち4組は遅番で、3組と一緒に19時30分から20時までが入浴時間になる。20分で入浴し、10分で脱衣所を出なければならない。皐月たちの後に誰が入浴するのかわからないが、決められた時間を守らなければならないと言われている。
皐月たち4組は早番の1組と2組が入浴している間に持参の水筒を洗い、水筒のカバーを外してエレベーター前の水筒ボックスに入れておかなければならない。そうすると翌朝にお茶を補充しておいてもらえるようになっている。皐月は水筒ボックスに自分の水筒を置き、自分の部屋には帰らずに秀真や比呂志の部屋に寄った。
「来たよ~」
秀真と比呂志は入口の近くにいて、リュックの中から買ってきたグッズを広げていた。部屋の奥の方には月花博紀ら陽キャたちが陣取っていた。
「僕もこの車両を触るのはこれが初めてなんだよね~」
比呂志がご機嫌な顔をして叡山電車のNゲージ、デナ21型の車両を箱から取り出した。
「この模型、めっちゃリアルだね。鉄道模型ってこんななの?」
「そう。鉄道模型は精巧さが命なんだ。これに動力ユニットを組み込めば走らせることもできる」
「お~、すげ~」
秀真も男の子なので、こういった模型には目を輝かせた。皐月も細部まで再現されているデナ21型に目を見張った。ブラウンベージュと深緑のツートンがレトロな雰囲気を醸し出していて、大いに気に入った。車両のデザインもバランスが取れているいい形だと思った。
「秀真の御守も見せてよ」
「いいよ」
皐月は秀真が伏見神寶神社で買った十種神宝のペンダントをずっと見たいと思っていた。十種神宝とは神倭伊波礼毘古命が天照大御神から授けられた神璽で、皇位の象徴だという。
秀真は小さな木箱を皐月に差し出した。箱には「神寶御守」と達筆な字で書かれていた。蓋を開けると、中には八芒星を少し膨らませたような形のペンダントがあり、十種神宝がデザインされていた。
「これはいいな……。真理に借金してでも買えばよかった」
「そんなことしたら、栗林さんのお金がなくなっちゃうじゃないか」
3人で御守と鉄道模型を見ていると、同級生の栗田大翔がやって来た。
「なんで藤城がこの部屋にいるの? 他の部屋には入っちゃダメだって、栞に書いてあるじゃないか」
皐月は修学旅行実行委員の委員長だ。修学旅行の栞を作ったのも皐月たちだから、そんなことはわかっていた。だが、大翔みたいにうるさいことを言ってくる奴がいるとは思っていなかった。
「同じクラスだからいいんだよ。栞には書いていないけれど、先生に確認してあるから。でも、消灯時間までには自分の部屋に戻れって言われた」
皐月は嘘をついた。大翔が先生に皐月の言ったことの真偽の確認を取らないと踏んで、実行委員の権威を利用した。
「そうか……。ならいいけど、でもそういうことはちゃんと栞に書いておけよ」
「すまんかったな。俺たちの代ではもう手遅れだけど、来年の栞には反映させるよ」
皐月は大翔のことが少し苦手だった。性格的にねちっこいところがあるので、親しみを感じられないと感じていた。
「この鉄道模型って縮尺は?」
意外にも大翔が鉄道模型に食いついてきた。皐月たちは大翔と接点がなかったので驚いた。
「縮尺は1/150だよ。栗田氏は鉄道模型に興味があるの?」
比呂志はどことなく嬉しそうに見えた。
「いや……鉄道のことはよく知らないんだ。でもガンプラなら作ってる。ガンプラの縮尺が1/144だから、ほぼ同じだな。ジオラマに並べても不自然じゃない」
「栗田氏はジオラマを作ってるの?」
「ガンダム関係で少しね。岩原は鉄道模型でジオラマ作らないの?」
「お金がかかるし場所を取るから、さすがに無理。でも、いつか作ってみたい」
比呂志と大翔は波長が合うのか、二人とも楽しそうだ。大翔は比呂志に電車を走らせないで、情景を切り取ったジオラマを作ったらどうかと提案していた。二人が共通の趣味の友達になった瞬間だった。
入浴の時間になったので、タオルと着替えを持って1階の大浴場へ向かった。6階から1階まで階段を使って下りなければならないが、風呂上がりだけはエレベーターの使用を許可されている。ただし、他の宿泊客も利用する場合は譲らなければならない。
皐月と聡が階段を下りていると、4階で3組の女子と合流した。そのグループの最後尾に野上実果子がいた。
「よう」
「ああ……」
皐月の呼びかけに実果子は素っ気なく答えた。その様子を見て、何か面白くないことがあったのかと思い、匂い袋の話を切り出せなかった。皐月は実果子が匂い袋の交換の意味を知っていたのか知りたかった。
「野上ってさ、京都巡りでどこが一番良かった?」
黙っているのも変だと思い、当たり障りのない話題を振ってみた。ここはさっき皐月と江嶋華鈴がキスをした階段だ。
「清水寺かな……」
「そっか。三十三間堂よりも良かったんだ」
「まあな。清水の舞台とか土産物屋が並んでいる坂とか、やっぱり京都って感じがしていいよな」
「俺さ、旅行前に清水寺のことめっちゃ調べたから、詳しいんだぜ。いつか案内してやるよ」
「うん……ありがと」
階段を出ると左手にロビーがあり、右手に大浴場があった。手前が男湯で、奥が女湯になっていた。実果子と別れると、聡が皐月に話しかけてきた。
「お前らって、やっぱりカップルになりそうだな」
「そうか?」
「そうだよ。野上の奴、絶対に藤城のこと好きだぜ。どうすんだよ?」
「勝手に決め付けるなよ。どうもならねーし」
脱衣所は広かった。壁面に棚があり、一人づつ着替えやタオルを入れる脱衣籠が40個はあった。向かいの壁は大きな一枚鏡のドレッサーになっていて、同時に6人が備え付けのドライヤーを使えるようになっていた。
皐月と聡が脱衣所に入った時はすでに3組と4組の児童が服を脱ぎ始めていた。空いているところで服を脱ぎ始めると、聡が皐月の股間を見ていた。
「おい。こっち見んなよ」
「いいじゃねえか。ケチケチしないで見せろよ」
「誰が見せるか、バカ。あっち行け!」
聡は恥ずかしげもなく、前を全開にして浴室へ入って行った。皐月は少し遅れて前を隠しながら浴室へ入り、聡とは離れた洗い場についた。
浴室の床には畳が敷かれていた。濡らせる畳だと思いながらも、皐月は感覚がバグって、パンツを穿きながら風呂に入っているような感覚になった。
浴槽には黒の御影石が張られていて、高級感があった。身体を洗うシャワーは20個以上あり、2クラス30人以上が同時に入浴しても滞ることはないだろう。
皐月は聡を避けて空いたカランに行くと、隣には3組クインテットの一人でドッジボールのエース、大嶽颯太が頭を洗っていた。
「よう」
シャンプーを流し終えたタイミングで皐月から声をかけた。
「ああ、藤城か。聞いたぞ」
「何を?」
「お前、野上と匂い袋の交換したんだってな。3組じゃちょっとした話題になってるぞ」
「なんでそんなのが話題になるんだよ?」
皐月は理由の予想がついていたが、あえて知らないふりをした。
「だって匂い袋を交換するとカップルになるんだろ? お前らってそういう関係だったんだ」
「いや、そんな話は知らんし。変なデマを流すと、野上が怒るぞ」
実果子が怒ると軽く脅迫を入れてみたが、颯太は全然怯まなかった。どうやら実果子は3組では大人しくしているようだ。
「なあ。どっちから交換しようって言ったんだよ?」
言い訳しても通じない相手だと思い、皐月は少しでも実果子のダメージを少なくすることを考えた。
「俺が交換してくれって言ったんだよ。体験学習の時、たまたま野上と隣同士になってさ。あいつの匂い袋がすごくいい匂いだったんだ。それで俺が野上に交換してくれって頼んだんだ」
「そっか! 藤城から野上に告白したんだ」
「だーかーらー。俺はそういうシステムなんて知らねえよ。なんだ、その変な都市伝説は。みんなそういうオカルト話が好きだよな」
単純な颯太は皐月の言葉を素直に受け取ってくれた。だが、3組の女子はそういうわけにはいかないだろう。実果子は大丈夫かな、と心配になった。
身体を洗い終えた皐月が湯船につかっていると、聡が隣にやって来た。
「先生~、俺のこと避けるなよ~」
良くないと思ったけれど、皐月は湯船の外に出していたタオルで股間を隠した。
「お前がイヤらしい目で俺のこと見るからだよ」
「ゴメンゴメン。ちょっと人のチ○ポってどんなだろう、って興味があっただけだ」
「おめぇ、まさかホモじゃねぇだろうな?」
「そんなわけあるか! 気色悪いこと言うなよ」
聡の反応は明らかに女好きだったので、皐月は安心した。
「ところでさ、さっき筒井に『ガチで好きな人だっている』って言ってたよな。あれってバスケやってた5年生のことか?」
聡は入屋千智の名前を忘れているようだ。せっかく紹介したのにと思ったが、皐月も人の彼女には興味が持てないので、聡が千智の名前を覚えていないのは仕方のないことだ。
「違う。花岡の知らない人」
「なんだ、誰だよ。教えろよ」
「芸妓だよ。今日着てた俺の服、その芸妓が買ってくれたんだ。俺が本当に好きなのはその人だ」
皐月は「その人だけだ」と言うところを「その人だ」と言い換えた。こういうところが自分の嫌な性格だと思った。明日美のことが一番好きなのは間違いないが、好きな女は明日美だけじゃない。
「小学生が芸妓を好きとか、お前、バカじゃねえの?」
聡にしては珍しく、真剣な顔でバカと言った。いつもヘラヘラした奴に真顔でバカ呼ばわりされるのは、なかなか堪える。
「まあ……バカだよな」
「じゃあ、5年生のあの子はどうなんだよ?」
「そりゃ、好きだよ。あんないい子、好きに決まってるじゃん」
「お前って結構、クソ野郎だな」
「ジゴロになりたいって奴に言われたかねぇな」
聡は案外一途な奴なのか、と思った。そうだとしたら、聡の絵梨花に対する気持ちは本物なのかもしれない。皐月は絵梨花の話題を避けなければと思った。
「先生は自分の班の女子だと、誰が一番いい?」
皐月は聡が自分と絵梨花の距離感を測ろうとしてると感じた。それに、聡は女子のランク付けをしたがる。皐月にはそういう趣味が全くないので、この手の話題は苦手だ。「誰がいい?」の後に「次は?」と聞かれると順位が決まってしまう。
「え~っ、みんないいじゃん」
「あえて一番を選ぶだったら、誰?」
「そうだな……やっぱ、真理かな」
皐月にとって栗林真理は特別な存在だ。幼馴染でもあるし、ファーストキスの相手でもある。
「栗林か……。てっきり二橋さんだと思った」
「それはお前だろ?」
皐月はこの話題を切り上げたかったので、聡を残して、一人先に湯船から上がった。脱衣所に入る前にタオルを絞って、軽く体を拭いていると聡が隣に来た。
「見~ちゃった」
「チッ! クソがっ」
まだ身体を拭き残していたが、皐月は聡を置き去りにして脱衣所に入った。比呂志と秀真がすでに着替えを終えていた。
「二人とも早いね」
「藤城氏が遅いんだよ。あとで僕たちの部屋に来る?」
「いいよ。花札を持って行くよ。花合わせでもやろうぜ」
皐月は聡から逃げるべく、比呂志たちと遊ぶ約束をした。いつもの聡はもっといい奴だが、今日の聡はどこかおかしい。ダル絡みがあまりにもウザ過ぎる。さっさとパジャマ用のTシャツと短パンに着替え、ドレッサーにあるドライヤーで雑に髪を乾かし始めた。
皐月が髪を乾かしていると、鏡越しに聡の姿が見えた。着替えを終えた聡が皐月のもとへやって来た。
「藤城。次、ドライヤー貸して」
「おう。もうすぐ終わるから。俺、先に部屋に帰ってるからな。比呂志と秀真の部屋で花札やってるけど、お前も来る?」
「う~ん。花札か~。俺、ルール知らないからな……。部屋でトランプやってたら、そっちで遊ぶわ」
皐月は髪を乾かし終え、席を譲って脱衣所を後にした。
皐月が大浴場を出ると、ちょうど吉口千由紀と野上実果子に出会った。
「あっ!」
上気した顔で実果子が驚いた。実果子は上下とも黒のスウェットで、ゆったりとしたダンボールニットの上着と、ダブルラインのジャージを穿いていた。千由紀はグレーの長袖にベージュとモカのチェックのパンツというカジュアルスタイルだ。
「野上のジャージ、格好いいな。吉口さんのパジャマもよく似合ってる」
「いいよ、藤城。そういうの」
千由紀のすぐあとに栗林真理と二橋絵梨花がやって来た。真理は茶鼠色の半袖Tシャツとショートパンツで、絵梨花はピンクの前合わせのシンプルなパジャマだった。絵梨花のパジャマの生地が光っていて、やけに綺麗だ。
「皐月、一人なの?」
「ああ。花岡と一緒だったけど、先に上がって来た。真理たちってみんな同じ部屋だったっけ?」
皐月は女子の部屋割も把握していたが、知っていてあえて話題を振った。
「私は一人で、千由紀ちゃんと絵梨花ちゃんが同じ部屋」
真理が皐月の質問に答えた。風呂上がりの真理を見るのは久しぶりだ。去年の芸妓組合の旅行の時以来だ。
「じゃあ、真理が二人の部屋に遊びに行けばいいじゃん」
「あれっ? 栞に他の部屋に行っちゃダメって書いていなかった?」
「いいよ。そんなの無視しちゃえば」
絵梨花に見上げられながら言われるとドキッとする。今日はパジャマ姿なので特に可愛い。光る生地はシルクかもしれない、と皐月は母のパジャマを思い出した。小さな頃に母に抱かれていたことを思い出しながら、母と絵梨花を重ねた連想して変な気分になった。
「修学旅行実行委員がそんなこと言っていいの? しかも委員長が」
絵梨花は楽しそうに笑っていた。絵梨花は学級委員だけど、根は真面目ではない。絵梨花には秩序から外れることを楽しむところがある。
「先生に怒られたら実行委員がいいって言ったって言えばいいよ」
「藤城さんって、そういうところ適当だよね」
「いいんだよ。別に悪いことじゃないだろ? 規則が細かすぎるんだよ」
エレベーターの前には3組の女子と4組の男子たちがいた。皐月たちは順番待ちを避け、エレベーターを使わずに階段を上り始めた。
「二橋さん、栗林さんの部屋に行っててよ。私、班長会議があるから。実果子も班長だから一緒に帰ってきて、実果子の部屋に遊びに行くかもしれない。先生にバレたらまずいけど」
「野上が班長? お前、班長ってより番長だな」
「うるせーよ! バーカ」
絵梨花は6年生になると同時に引っ越してきたので、実果子のことをよく知らない。真理は実果子と同じクラスになったことがないので、実果子のことは名前と噂話程度のことしか知らないだろう。
皐月は乱暴な口をきく実果子に対して、二人がどんな印象を受けるのか気になったが、思い過ごしだったようだ。千由紀の友達だからなのか、真理と絵梨花は好意的な目で実果子のことを見ていた。
「エレベーターの前の男子、みんな体操服だったね。あんたも体操服なのかと思った」
真理は皐月が体操服を普段着にしていることを知っている。今も昔の俺と変わっていないと思っているのか、と皐月は不思議に思った。
「女子のみんなみたいにお洒落なパジャマじゃないけれど、俺だって少しは見た目を気にするようになったんだぜ」
皐月は下こそ体操着を穿いていたが、上は大須で買った格好いいTシャツを着ていた。
「その方がいいよ。あんたは今まで、外見を気にしなさ過ぎだったから」
4階に着き、真理と絵梨花が先に階段から出ていった。千由紀と実果子は班長会議があるので、部屋に着換えを置いて、すぐに7階の会議室へ行かなければならない。
「じゃ、俺はここで。吉口さん、班長会議よろしく」
「うん。また明日」
千由紀と実果子に軽く手を振り、皐月は6階の男子フロアへ向かった。
皐月が自分たちの部屋の609号室に戻ると、部屋長の村中茂之が一人しかいなかった。すでに一部の布団が敷かれていた。
「あれっ? なんで茂之しかいないの?」
「みんなで一部屋に集まって遊ぼうって話になったんだ。部屋の移動は禁止されているけど、同じクラスだったらいいらしいな」
「ははっ、そうなんだ」
皐月は自分が発したデマが広がっていることに笑ってしまった。広めたのは大翔だ。皐月は大翔にそんな扇動力があるとは思っていなかったので、少し大翔を見直した。
「一応、俺がみんなを誘う役をやってるんだけど、藤城はどうする?」
「そんなの行くに決まってるじゃん。枕投げか?」
「いや、枕投げはヤバいだろ。トランプとかUNOとかじゃね? カード麻雀もあったかな?」
「麻雀! いいね。じゃあ、俺は花札を持って行こうかな。秀真たちと遊ぶつもりで持ってきたから」
「おう。種目は多い方が面白いからな。気の早い奴らはもう始めてるかもしれねえ。自分の布団を敷いたら、608号室な」
入浴の終了が20時なので、消灯の21時30分までは1時間以上もある。これだけ時間があれば結構遊べる。誰の布団かわからない横に自分の布団を敷き、枕元にリュックを持ってきて寝床の場所を確保した。部屋の浴室で濡れたタオルを干して、皐月は609号室を出た。
隣の608号室ではすでにゲームが始まっていた。みんなは敷かれた布団の上でトランプをしたり、UNOをしたりして盛り上がっていた。月花博紀が皐月を待ち構えていた。
「おい、皐月。麻雀やるぞ」
「なんだ、お前。俺のこと待ってたのか?」
「麻雀のできる奴が足りねーんだよ。さあ、やるぞ!」
いつも落ち着いている博紀のテンションがおかしい。何かいいことでもあったのだろうか、と皐月は妙な気持ち悪さを感じた。
「麻雀はいいけどさ。俺、花札やるつもりで持ってきたんだよね」
「花札入りましたー! 誰かできるやついる?」
井上昂が大声で部屋であぶれているメンバーに呼びかけた。昂はクラスで皐月と同じくらいうるさい男子だが、バイブスのベクトルが皐月とは違う。昂は仲間内で盛り上げるタイプだが、皐月は女子と騒いでうるさい。
神谷秀真と岩原比呂志が昂の呼びかけで集まって来た。
「藤城氏は僕たちと花札をするんじゃなかったの?」
「そのつもりだったんだけどさ……こいつが」
「ごめん、岩原。俺が皐月を麻雀に誘っちゃったんだ。麻雀できるやつが他にいなくてさ」
麻雀はできる奴を4人集めるのが難しい。ルールが複雑で、遊び方を覚えるのが大変だからだ。カード麻雀を持ってきたのは博紀に違いない、と皐月は推測した。なんでそんな面倒な物を持ってくるのか、と博紀の常識を疑った。
「まあ、いいか……。月花氏、後で藤城氏を返してよ。一緒に花札をしたいから」
「わかった。その時は俺も混ぜてくれ」
皐月は博紀が妙に絡んでくることに気がついた。博紀と比呂志の遊ぶところなんて見たことがなかったので、これはこれで面白そうだ。さっさと麻雀で博紀のことをボコって、比呂志や秀真たちと花札をやろうと闘志に火がついた。
「花札って何? 僕にも教えて」
縦にも横にも大きなカルロスが比呂志と秀真のところにやって来た。花札を見せると、美しいデザインに喜んでいた。秀真も比呂志もオタク特有の世話焼きなところがあるので、カルロスにレクチャーをして、三人で花札を始めた。三人が遊んでいるのを見て、皐月は後ろめたさが少し薄れた。
続々と608号室に4組の男子が集まって来た。後から来た者は自分の布団を敷いて、遊んでいる者たちの背後についたり、余っているトランプで遊び始めた。
村中茂之が609号室から残った男子を連れて来た。花岡聡も一緒だった。これで6年4組の男子が全員、608号室に集結した。
藤城皐月と月花博紀、井上昂、鈴木悠馬の4人でカード麻雀が始まった。
「おい、博紀。どういうつもりなんだよ? ちょっと強引じゃねーか?」
「ああ、そうかもな。岩原と神谷には悪いことをした」
博紀が自分のために人を引き抜くところを皐月は初めて見た。そして、引き抜かれたのが自分だったのに驚いた。
「あんな乱暴なやり方、お前らしくねーな」
「なんだよ、俺らしくねえって。勝手にイメージ決めてんじゃねーよ。それより始めようぜ。時間がないから東風戦な」
同じ町内に住む博紀とはよく町内の男子を集めて皐月の家で麻雀やトランプなどのアナログなゲームで遊んでいた。だが博紀がサッカークラブに入ると、みんなで遊ぶ機会がほとんどなくなった。
「この前はお前が家に女を連れ込んでいたからな。今日は男の勝負だ」
「なんだ。くだらねぇ……」
時間を惜しむように、そこら中でゲームが始まった。トランプやUNOや花札の数は足りているので、あぶれて見学に回る者は一人もいなかった。
「そういえば月花、藤城が女を連れ込んでいたってなんだよ? 例の5年生か?」
「ああ、そうだよ」
皐月はギョッとした。昂まで入屋千智のことを知っていた。男子の間で自分の女性関係の噂話がなされているとは思わなかった。だが、博紀がこのことを言いふらすとは思えない。
「藤城って村中の好きな女にモテるよな」
「茂之って筒井のことも好きだからな。筒井は藤城のこと、大好きだから」
「ポン」
昂と悠馬が軽口を叩いていると、博紀が東を鳴いた。昂と悠馬と違い、博紀は真剣勝負のモードに入っていた。
「でも、藤城は野上のことが好きなんだよな。匂い袋を交換していたからな」
「おい、藤城。お前、野上と付き合っちゃえよ」
「ロン。悠馬、上がりだよ。平和のみ、1000点だ」
「くそっ!」
運良く早い手で和了して、博紀に先制できた。東を早鳴きしたところを見ると、博紀も自分と同様に先行逃げ切りを狙っているのだろう。皐月は博紀の出鼻を挫くことができてホッとした。
次の局が始まっても、昂と悠馬は執拗に皐月のことを口撃してきた。
「藤城、野上と付き合うのか?」
「井上には関係ねーだろ」
「俺は結構、お似合いの二人だと思うんだけどな~」
皐月には悠馬の言葉の意味がよくわからなかった。本気で言っているのか、あるいは嫌われ者の実果子が自分には相応しいとでも言いたいのか。モヤモヤした気持ちでいると、博紀から立直がかかった。
「マジかよ! はえーな、月花」
「安牌ねーし」
昂と悠馬の台詞を聞く限りでは通している感じではなかった。イカサマはなさそうだと皐月は判断した。博紀は前の麻雀の時に、弟の直紀とコンビプレーでイカサマを仕掛けてきたので油断がならない。
何順か回ったが、昂も悠馬も差し込む(わざと振り込む)ような真似はしなかった。博紀もさすがにクラス内ではクリーンなイメージを保とうと思っているのだろう。正々堂々と戦っているようだ。
「なあ、藤城。お前、野上のことが好きなのか?」
しつこいな、と思った。こういう場合、昂が実果子のことを好きだという可能性がある。皐月は男の嫉妬の怖さを知っている。
「ああ。好きだよ」
昂の手が止まった。動揺しているようだ。
「じゃあさ、藤城は筒井のこと、どう思ってるの?」
悠馬が無粋なことをぬけぬけと聞いてきた。
「筒井か……。筒井のことも好きだよ」
「うわっ! お前、二股かよ」
「二股じゃねーよ。筒井や野上に限らず、女子なら大抵の子は好きだ。俺はただの女好きのゲス野郎だから、覚えておけ!」
面倒臭いな、と思いながら安全牌とおぼしき北を切った。
「ロン」
博紀の立直にぶち込んだ。七対子にドラが2つ乗って親満だ。
「12000点だ。東風でこの差はでかいな。お前、もっと麻雀に集中しろよ」
「こいつらが女の話ばっかしてくるから集中できねーじゃねーか」
頭に来た皐月は手札を布団に叩きつけた。
「お前はやることが派手なんだよ。人からあれこれ言われても仕方がないだろ」
博紀は嬉しそうな顔で皐月から点棒の描かれたカードを受け取った。結局この局では逆転できず、皐月は最下位になってしまった。この後も続けて同じメンバーで麻雀をしたが、皐月はまた負けてしまった。
「皐月、今度は岩原や神谷と花札をしようぜ」
博紀は比呂志のことを忘れていなかった。こういう義理堅いところがあるので、皐月は憎まれ口をきかれても博紀のことが憎めない。皐月たちはカルロスを含めた5人で消灯時間まで花札の花合わせをして遊んですごした。
消灯時間の少し前に609号室の部屋長の茂之に促され、静かに部屋に戻って寝る体勢に入った。
「栗田から聞いたけど、同じクラス同士だったら部屋の移動をしてもいいって話、本当だったんだな」
隣の布団で横になっていた茂之が皐月に話しかけてきた。
「ああ……。あれは嘘」
「嘘! 俺はてっきり本当の話だと思ってた。バレたら怒られてたじゃんか」
「その時は俺が責任取るつもりでいたよ。栗田は俺が先生の許可をもらったって言ってたんだろ?」
「まあな。……しかし、危なかったな。見回りに来られたら終わりだったぜ」
「まあ、一応そのへんは計算していたんだけどな。でも何事もなかったし、楽しかったからいいじゃん。それより寝ようぜ。俺、もう眠いんだよ」
「俺も。じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
皐月は昂と悠馬の言ったことを思い出していた。茂之はよく自分みたいな奴と普通に話ができるな、と感心した。自分なら嫉妬でキツく当たってしまうだろう。茂之はいい奴だな、と思いながら皐月は眠りに落ちた。
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