光と熱のある世界(皐月物語 155)
部屋の中は人工の月明かりで照らされていた。長いキスを終えた後、藤城皐月は枕元にあるルームライトを明るめに切り替えた。栗林真理は皐月の肩に頬を寄せていた。
「ねえ、皐月。バスの中で絵梨花があんたに寄りかかってたよね。どんな気持ちだった?」
今聞いてくるのか、と思った。皐月と二橋絵梨花がバスの中で寄り添って寝ていたことはクラスの誰もが知っている。真理だって当然知っている。それどころか真理は皐月たちの前の席に座っていたので、絵梨花との会話も聞かれていた可能性がある。
「どんな気持ちって、そうだな……動けなくなって、しんどかった」
「嬉しくなかった?」
「嬉しい? なんで?」
「だって、絵梨花って可愛いじゃない。それに、クラスの男子ってみんな絵梨花のことが好きなんでしょ? 気分が良かったんじゃないの?」
「気分がいいわけないだろ。それに真理の言う通り、二橋さんは男子に人気があるから逆に怖かったわ。絶対にみんなから恨まれるって思ったし、聡だって俺に怒りをぶつけてきたんだぜ。『ムカつく』とか『クソがっ』って言われたんだ」
「そうだったの……」
花岡聡は絵梨花に惚れているので、皐月へダイレクトに憎悪を向けて来た。他の男子も内心では聡と同じ思いだっただろう。
「俺さ、気を使って二橋さんに窓際と席を代わろうか、って言ったんだよ。でも、動きたくないって言われたんだ。だから無理強いはできなかった。よっぽど疲れてたんだろうな。俺も疲れてたから、その後すぐに寝ちゃったし」
真理に嘘をついても仕方がないので、皐月はその時の状況をありのまま伝えた。だが、すぐに寝たというバレない嘘を混ぜておいた。
「ふ~ん。まあ、いいか」
「よくない。せっかく二人でいるんだから、他の女の話なんかするなよ」
真理の頭に手を回してキスをした。真理が口をきけないようにしようとしたつもりだったが、真理は皐月の狡猾なたくらみとは裏腹に背中に腕を回してきた。皐月は黙らせるためにこういうやり方があることをこの時知った。
皐月は目の前の相手と二人きりになることで心のバランスを取っている。過去もなく未来もない。今この世界には自分と目の前にいる相手しか存在しない。こう思うようにしないと、複数の女子と付き合うのに気持ちが対応できなくなる。
もしかしたら過去なんてものは無いも同然なのかもしれない……。皐月は修学旅行でその思いを強くした。それは過去を記した歴史というものの不確かさを知ったからだ。その考えを進めると、自分の過去でさえ不確かなことがわかる。
近い記憶が確かなのは自明の理だが、写真などの遠い記録はどうとでも解釈できるように変化する。それは自分にとって嫌な記憶は消去され、自分を守るために記憶は都合よく改竄されるようになるからだ。
そう考えると、過去なんてものはただの概念で、事実ではない。記録は過去の出来事の一部を切り取った断片にすぎないし、記憶は無意識のうちに書き換えられていることもあるので、妄想と言えなくもない。
皐月は今この瞬間を大切にしたいと思っている。その考え方は修学旅行で法隆寺の古い建造物を見た時に強固となった。歴史がいかに改竄されようとも、五重塔や仏像は確かに対峙したその時、自分の目の前にあったからだ。
しかし、いくら皐月がそう考えていても、現実は自分の思うようにはならない。
実際、真理は過去の出来事を取り上げて感情を乱している。モヤモヤした気持ちを引きずっているのだろうから仕方がないとは思うが、自分と二人でいる時くらいは他の女のことを持ちださないでもらいたい。
だが、それは無理な話だろう。自分だって真理と同じように心が乱れる時があるかもしれない。だから過去の恋愛話になりそうな時はお互いのダメージが最小になるよう、上手く立ち回らなければならない。
「皐月、野上さんとの話ってどうなってるの?」
「ああ……。なんか、みんな騒いでいるみたいだな」
修学旅行一日目の夜の体験学習で児童たちは京都伝統の匂い香を作った。その自作の匂い香を男女で交換すると恋人同士になれるという話が稲荷小学校にはまことしやかに伝わっている。
真理の言い出したことは、皐月と3組の野上実果子が匂い香を交換したことだ。そのせいで、3組では実果子と皐月が付き合っているんじゃないかと詮索されるようになった。4組では皐月が筒井美耶から匂い香の交換を持ち掛けられたのを拒否したことで、3組の噂話がより真実味のあるものとなった。
「別に野上とはどうもなってないよ。まわりが勝手に騒いでいるだけだ」
真理がまた他の女の話を持ち出してきたことで、皐月はすっかり興冷めしてしまった。真理の方を向いて寝ていた体を上に向き直し、人工の月が照らす天井を見上げた。
皐月はバスを降りた時に村中茂之に言われたことを思い出した。やることがいちいち目立つから悪いという言葉は皐月の心に刺さった。人前で女子と絡んでいるのを見れば、真理が気にしてしまうのは仕方のないことだ。
「ねえ、皐月。怒ってるの?」
「いや……怒ってないよ」
「だって、ずっと黙ってるじゃない」
「うん……。俺って修学旅行の間、人から誤解を受けるようなことばかりしていたんだなって思って、反省してるんだ」
もう一度真理の方に体を向き直して、今度は皐月から深く唇を重ねた。
「本当に反省してるの?」
「してるよ。地球外殻より深く反省してる」
口づけしながら、肩を抱いていた手を腕の先まで滑らせると、真理に手を払われた。
「やっとわかった。もう、イヤラシイな……。これ以上はまだダメって言ったでしょ」
「なんだよ、ケチ。早く成績上げろよな」
中学受験が終わるまで、真理は皐月にキス以上のことを許さないと決めている。
皐月はベッドから起きて、真理の勉強机の椅子に座った。これ以上真理の横にいると理性を保つのが苦しくなる。
「どうしたの?」
「さっき買った肉を食べる。八ツ橋は?」
「リビングにある。持ってくるから、ちょっと待ってて。何か飲む?」
「すぐに飲めるものなら何でもいいよ」
真理が部屋から出て行くと、皐月はすぐに机の照明をつけてチキンを食べ始めた。机に備え付けの本棚を見ると、塾の教材や学習辞典が並んでいた。机の端にノートPCが置かれていて、その上にプリント類が無造作に積まれていた。
(勉強頑張ってんじゃん……)
皐月は早く成績を上げろだなんて言ったことを後悔した。真理は受験勉強を頑張っているし、成績も上がっている。欲情しないようにセーブしていたのに、うっかりエスカレートしたのがいけなかった。
真理の本棚に芥川龍之介の文庫本があった。タイトルは『河童・或阿呆の一生』だった。この中には皐月の好きな『歯車』が所収されている。皐月はその本を手にとって、『歯車』の中の適当なページを開いて読み始めた。
「部屋の電気くらいつけなさいよ」
真理が八ツ橋とお茶を持ってきた。グラスは一つだけだった。
「真理、芥川なんか読んでるんだ。こんなの入試に出ないだろ」
「気分転換だから、いいの。八ツ橋食べたら本当に帰るの?」
「まあ、9時までには家に帰ろうと思ってるんだけど」
「もう、あまり時間がないね」
真理はグラスにお茶を注ぎ、さっき買ったたまごサンドを食べ始めた。チキンを食べ終わった皐月は真理の買ってきたチョコレート味の生八ツ橋を食べた。
「京都を思い出すな……。清水寺、楽しかった。一番良かったのは法隆寺だけど、一番楽しかったのは清水寺だ」
「私も……。初めて友達と旅行したところだから、清水寺は特別だよ」
皐月は八ツ橋を食べ終わり、真理のたまごサンドに手を伸ばした。
「あっ……取らないでよ。私が食べるんだから」
「お前、ハラ減ってたの?」
「時間が経ったからお腹に隙間ができたの。でも、半分なら食べてもいいよ」
「じゃあ、半分だけもらうわ」
半分に裂こうとしたら、引っ張った方が小さく千切れてしまった。皐月は小さい方を取って食べた。
真理は窓の外を見ていた。皐月も席を立って、真理の隣に立った。窓から見える空からは月が見えなかった。
「ベランダに出ようよ」
「いいけど、寒くないか?」
「大丈夫よ。寒かったらすぐに中に入るから」
先に真理がベランダに出たが、皐月は出るのを躊躇した。面倒だったし、疲れて体が重くなっていた。
「俺のスリッパがないじゃん」
「私の部屋履きなら使ってもいいよ」
「汚れないか?」
「いいよ。少しくらい」
真理はフローリングの部屋でスリッパを履いて暮らしている。皐月は真理の部屋ではいつも靴下でいるので、真理のスリッパを借りてベランダに出た。
「あまりいい景色じゃないよ?」
「そうか? ちょっとだけど鉄道が見えるし、悪くないじゃん」
ベランダからは豊川駅の飯田線は見にくいけれど、豊川稲荷駅の名鉄電車はまだ見やすい。この時もホームに赤い車両が停まっていた。
「皐月ってさ、もし野上さんに告白されたらどうするの?」
「また女の話?」
「だって修学旅行の話は検番でお母さんとしたでしょ。それに真理ちゃん、やっぱり男の子の心理って気になっちゃうんだよね」
「なにが真理ちゃんだ。アホか」
風が強くなってきた。チルデンニットのベストを着ていても、シャツが半袖だと体が冷えてくる。
「高層階って風が強いな。寒いから俺、中に入る」
部屋に入ると、皐月は真理のベッドの布団の中に潜り込んだ。掛け布団の上に乗っていた真理の体温がまだ残っていて温かかった。
しばらくすると真理も部屋の中に入ってきた。そして、真理も布団の中に入ってきて、皐月に抱きついた。
「寒かった~。もうこんな季節なんだね」
「暖房つける?」
「いい。今は温かいから」
体を寄せ合っていると、すぐに体が温まった。真理が部屋の照明を消し、光は
枕元の月のルームライトだけになった。
「さっきの話の続きだけど、野上さんに告白されたらどうするの?」
しつこい真理にうんざりしてきたが、皐月はいつか誰かに告白されることを想定して、対応策をあらかじめ用意していた。
髪を切って背が伸び始めると、皐月はまわりの見る目が何となく変わってきたことに気が付いた。入屋千智と稲荷口駅で別れた時、電車の中で女子高生から写真を撮られたことがある。この時、皐月は自分の外見のレベルが上がり、案外女子からモテるようになっていたことがはっきりとわかった。
「告白されたら振るよ」
「振っちゃうの?」
「ああ。……仕方がない。俺は告白されたら、相手が誰であれ振るって決めているんだ」
「じゃあ、絵梨花に告白されても?」
「振る」
「なんで? 絵梨花だよ? あんないい子、いないでしょ」
皐月はまたキスで口をふさいだ。舌を絡めていると身体が熱くなってくる。
「誰に告白されても『俺には好きな人がいるから』ってこたえるよ。もう決めているから」
皐月は告白から始まる恋愛というものがどうも好きになれない。好意を寄せられるのは嬉しいけれど、交際を強要されるような気がして反射的に拒否反応が出る。自分は誰の物にもなりたくないという気持ちがあり、これだけは絶対に譲れない。
「あ~あ。野上さんも絵梨花も可哀想」
「なんで可哀想なんだよ」
「だって皐月に振られちゃうじゃない。絶対に二人とも皐月のこと好きだよ」
「別に振られていないだろ。まだ告白されていないんだから」
「でも告白したら振られちゃうじゃん」
「だから、そういうありもしないことを妄想して、可哀想とか言うなよ。それって二人に失礼だし、俺だって悪者にされているみたいで気分が悪い」
真理のことを突き飛ばしたくなったが、気持ちを抑えて密着したままの体勢をキープした。
「じゃあ『好きな人って誰?』って聞かれたら、どうするの?」
「それは『秘密』ってこたえる。だって、俺の好きな人なんて他人には関係ないじゃん」
「私って言わないの?」
「言わない。秘密なんだから、誰にも言わない」
真理は不満気な顔をしていた。真理とはただの幼馴染だったが、流れで今のような関係になっている。真理のことは好きだが、恋人にしたおぼえはない。皐月は少し真理のことが重くなってきた。
「皐月は誰のことが好きなの?」
今度は不安気な顔をしていた。真理は自分のことを他の女と比べて、自分の価値を確かめようとしている。
「そんなの、真理ちゃんに決まってるじゃん」
容姿だけ見れば、真理が絵梨花や千智よりも今はやりのルックスではないのは確かだだが、それでも皐月は真理のことを美しいと思っている。
「嘘。秘密だから誰にも言わないって言ったじゃない」
「それは告白された子には言わないってこと。真理は俺と付き合っている当事者じゃないか。それに好きな子としかこんなことはできないよ」
皐月は優しくキスをした。嘘をつく時はキスが優しくなるんだな、と思った。真理を好きなことに嘘はないが、真理だけを愛しているわけではない。今皐月が言ったことは真理の望んでいる言葉ではないはずだ。
「私……絵梨花ちゃんには勝てない」
真理はバスの中でのことを想像以上に気にしているようだ。真理の心を乱さないためにも、皐月は絵梨花への接し方に気をつけなければいけなくなった。
「真理は勝っているよ。それに、二橋さんとはこんなことしてないじゃん」
皐月は再び真理と長いキスをした。人は顔から光を放っている。二つの光を一つにすることで、ゆらゆらとふるえる魂を鎮めることができるんじゃないかと思いながら、皐月は真理をそっと抱きしめた。
皐月が家に帰っても祐希はまだ帰宅していなかった。時刻は9時をまわっていた。今からだと早くて21時16分、最終だと22時35分に豊川駅に着く。これより遅くなると、今日は家に帰って来ないことになる。
祐希からは何もメッセージが来ていなかった。母の小百合からもお座敷が終わったというメッセージは来ていない。他の子からのメッセージはいくつか来ていたが、とりあえず既読にしておいて風呂に入ることにした。
湯船につかっていると眠気が襲ってきた。皐月は風呂で一日の出来事を振り返るのが好きだが、このままでは寝てしまいそうなので、慌てて体を洗って風呂から上がった。
Tシャツとジャージに着替え、髪を乾かしているところに及川祐希が帰って来た。最終列車ではなかったようだ。
「ただいま~」
「おかえり。遅かったね」
「皐月! 久しぶりだね。友達とピアゴのスガキヤで話し込んでたら、遅くなっちゃった。修学旅行、楽しかった?」
「楽しかったよ。お土産を買ってきたからね。祐希の机の上に置いてある」
「ホント? ありがと~」
祐希が抱きついてきた。髪をまだ乾かしていないので、滴りが祐希の頬にかかった。
「冷たっ!」
「髪の毛乾かすから、もう部屋に行ってろよ。濡れちゃったじゃないか」
「さっそくお土産見せてもらうね。早く上がって来てね」
祐希の体が離れ、皐月はホッとした。さっきまで真理と二人で身を寄せ合っていたのに、急に祐希がテリトリーに入ってきて真理の感触が消されるかと思った。
髪を乾かしながら皐月は考えた。今は自分の世界には自分一人しかいない。真理との逢瀬はもう過去の話だ。なんなら祐希に抱きつかれたことさえも過去のことになったといえる。
気持ちを切り替えなければならない。これからは祐希と二人の世界になる。祐希と触れた時、男の匂いはしなかった。恋人と会っていたわけではなさそうだ。この後、祐希とどうなるかはわからないが、気楽にしていれば良さそうな気がした。ただし、注意深くあらねばならない。
皐月が二階の自分の部屋に戻ると、祐希の部屋の明かりがついていた。二人の部屋を仕切る襖はまだ閉まっている。祐希がまだ着替えをしているかと思い、皐月はベッドで横になってスマホのメッセージをチェックすることにした。
「皐月」
襖の向こうから祐希の声がした。スマホをベッドに伏せて襖を開けると、祐希が勉強机の椅子に座って、皐月のお土産を手に取っていた。これから風呂に入らなければならないので、祐希は高校の体操服を着ていた。脱衣所で脱いで洗濯に出すつもりなのだろう。
「お土産ありがとう。この茶碗、可愛いね」
「気に入った?」
「うん。明日からこの茶碗でご飯を食べたい」
祐希に贈った飯碗は白とピンクのパステルカラーで色づけられていた。釉薬が掛けられていて触り心地がいい。桜の絵付が可愛らしく、祐希によく似合っていると思って買った。
「気に入ってもらえてみたいで、良かった」
「ありがとう」
祐希は席から立ち上がり、髪の毛の上から皐月のこめかみにキスをした。
「お風呂に入ってくるね。後で修学旅行の話を聞かせて」
「寝ちゃってたら、起こして。ちょっと疲れてるから、もしかしたら寝落ちしてるかもしれない」
祐希は皐月の部屋に入って来て、廊下を通らずに近道をして下の階へ下りて行った。
皐月は未読と既読のメッセージの返信に取りかかった。10時までには全て終わらせたい。
まずは入屋千智へ明日会えることを楽しみにしているとメッセージを送った。千智は勉強していると思っていたが、すぐに返信が来た。少しやり取りをして、おやすみをした。
芸妓の満からは、また一緒にドライブに行こうと誘われた。皐月はクラブで見た妖艶な満のことを思い出した。満は皐月にとって初めての女性だ。満には同性の恋人がいるけれど、皐月は満にも恋心を抱くようになってしまった。
立花玲央奈から送られてきた写真を見た。今日会ったばかりなのに、玲央奈との出会いは遠い昔の思い出のような気がしてきた。玲央奈も自分と同じように感じているかもしれないと思うと寂しくなった。玲央奈との縁を失いたくないと強く思った。
筒井美耶からもメッセージが来ていた。美耶にしては遠慮がちな文面だった。美耶と一緒に歩いた東大寺が楽しかったことを伝えると、秒で返信が来た。少し他愛もないやり取りをして、おやすみをした。
珍しく二橋絵梨花からもメッセージが来ていた。ただ一言「楽しかったね」と書かれていたので、皐月も「うん。楽しかった」と一言だけ送った。絵梨花との関係は修学旅行でより深まった。絵梨花が自分に好意を寄せていることがわかった。皐月も絵梨花のことが好きので、これからどう接したらいいのかよく考えなければならない。
清水寺で会った東京の二人のインスタを見てみた。キラキラとした都会の日常が田舎暮らしの皐月には眩しかった。彼女たちとの縁は自然消滅するだろうと思った。綺麗系の二人だったが、彼女たちとはさすがに関係性が薄すぎる。アイドルを見るようなつもりでいるのがいいのかもしれない。
一通りの作業を終えると急に疲れが出た。眠くなったので、スマホを机の引き出しに片付けて、ベッドの上で目を閉じた。
気が付くと目の前に祐希の顔があった。皐月は掛け布団の上で寝落ちしていた。
「そんなところで寝ていたら、風邪ひいちゃうよ」
二人の部屋を仕切る襖が開いていた。祐希から汗の匂いが消えていた。髪の毛からはシャンプーやコンディショナーの、吐息からは歯磨きの香りがした。
「眠いなら修学旅行の話はまたでいいよ」
皐月は何も言葉を返さず、布団の中に潜り込んだ。布団から顔だけを出して、ぼんやりした顔で祐希を見ていると口づけをされた。
「皐月、キスで起こしてって言ったでしょ?」
「それってだいぶ前の話じゃなかったっけ?」
「そうだよ。その時の皐月も今みたいに眠ってたけど、それが私と皐月のファーストキスだった」
「俺、全然憶えていないんだけど……」
「その後、私は皐月に騙されてキスされちゃったのよね。それは憶えてる?」
「忘れるわけないじゃん」
皐月は千智に告白まがいのことを言ったことがある。その時のことを聞かせろと祐希に言われたので、再現ドラマのようなかたちで祐希に千智の役をやってもらった。皐月はイタズラで千智にキスしたと嘘の演技をして、祐希にキスをした。
「皐月は悪い子だったよね」
「今だって悪い子だよ」
今度は皐月から祐希にキスをした。なんとなく祐希の体が強張っているような感じがした。
「湯冷めしちゃったみたい。祐希、温めて」
「布団に潜っていればすぐに温まるよ」
「あれっ? 冷たくない?」
「だって、明日は千智ちゃんと会うんだよ。そんなことできるわけないじゃない」
祐希が千智のことを大切に思っていることを皐月は知っている。それに祐希が自分に寄せている好意が恋心なのかわからない。年齢差を考えると、祐希が自分のことを本気で好きになるはずがないと考える方が自然だ。皐月は自分がまだ小学生なので、高校生男子にコンプレックスを抱いている。
「それもそうだね」
皐月はあっさり引き下がることにした。祐希には竹下蓮という同級生の恋人がいる。高校生だから恋人がいてもおかしくはない。祐希はまっとうな高校生活を送っている。
それに引き替え、今の自分は何人もの女性を好きになり、性的な関係を持つような爛れた生き方をしている。友人の花岡聡に言わせると発情期だ。
急にモテ始めた時期と、異性に目覚めた時期が重なったせいで、皐月は感情と情欲に抑制が利かなくなってしまった。その自覚があるせいで自己嫌悪に苛まれ、自分のことを穢れていると責め立てることもある。
「修学旅行の話をしようか。そっちの部屋に行くね」
皐月はベッドから出て、祐希の部屋の畳に胡坐をかいた。敷かれた布団が艶めかしいが、意識を性的なことから逸らすように努めた。
「まず最初に清水寺に行ったんだ。俺さ、修学旅行に行く前にお寺や神社のことをいっぱい勉強したんだよ。清水寺は最初は小さなお寺でね、778年、平安京に遷都される6年前にできたんだ」
皐月は祐希に変な気を起こさないためにも、わざと訪問した神社仏閣について話した。歴史的なことは手短にわかりやすく話し、印象的な出来事を多く話すよう心がけた。祐希は熱心に聞いてくれた。
祐希とはこんな関係の方がいいのかな、と思った。姉と弟のような関係。ひとりっ子の皐月はずっと兄弟姉妹が欲しいと思っていた。今はそれが実現している。この状況を大切にしなければならないのかもしれない。
話し込んでいると11時を過ぎていた。祐希は明日の朝早く家を出なければならない。
「まだ全部話していないけど、もう寝ない? 祐希、明日文化祭じゃん。寝不足で行くわけにもいかないでしょ?」
「そうだね……。まだ眠くないけど、寝た方がいいよね」
その時、家の前に車が停まる音がした。母の小百合と、祐希の母の頼子が帰って来たようだ。
「出迎えに行こうか」
「うん」
皐月と祐希は寝る格好のまま階段を下りると、小百合と頼子はすでに玄関から家に入っていた。
「おかえり」「おかえりなさい」
「ただいま。皐月、あんたまだ起きてたの?」
「祐希と修学旅行の話をしてた」
この日の母は芸妓らしく、黒扇の着物を着ていた。頼子はもう少し落ち着いた黒青の着物だった。こんな時期に珍しいな、と思った。
「皐月ちゃん、修学旅行は楽しかった?」
「楽しかったよ。頼子さんにもお土産買ってきた」
「まあっ! 嬉しいわ。ありがとう」
小百合と頼子が楽器置場に三味線と鼓を置くと、着替える前にお土産を見せろと言ってきた。皐月は居間のテーブルの上に買ってきた物を袋から出して置いた。
「酒器だよ。清水寺の前の店で買ってきた。徳利と碗セットなんだけど、気に入ってもらえるかな?」
皐月が買ってきた物は清水焼の酒器で、白い肌に藍色の単色で葡萄が絵付けされたものだ。小百合と頼子は着物のままスッと座った。
「葡萄は豊穣の象徴だから、商売繁盛に繋がるかなって思って。それに白と藍色の組み合わせって美しいじゃん」
「葡萄か……秋だね~。皐月にしてはいい趣味だ」
「そう? やったー!」
皐月が母に褒められることは滅多にない。お礼を言われるだけかと思っていたので、いい趣味だと褒められたのは嬉しかった。
「皐月ちゃん、ありがとう。早速、晩酌に使わせてもらうね」
「頼子、今から飲むの?」
「いいじゃない。せっかく皐月ちゃんがいい物を買って来てくれたんだから」
小百合はそんなにお酒が強くはないが、頼子はお酒が好きで、しかも強い。今夜は二人で遅くまで飲むことになりそうだ。
「じゃあ明日の朝ご飯、パピヨンのモーニングでもいい?」
「俺はもちろんいいよ。祐希は?」
「私は朝早いから、コンビニで何か買って、電車の中で食べちゃおうかな」
「まあっ! なんて下品な」
頼子は思わず顔をしかめた。皐月は祐希とモーニングに行けないことにガッカリした。
「大丈夫だって。豊橋行きじゃないんだし、土曜日の早朝なんか誰も山の方に行かないから」
「祐希ちゃん。明日は高校の文化祭だってね。楽しみね」
「皐月が見に来てくれるの。彼女を連れて」
祐希とはこういう関係でいいんだよな、と皐月は穏やかな気持ちになった。
「ああ、千智ちゃんね。あんた、ちゃんとした服を着て行きなさいよ」
「大丈夫。満姉ちゃんと一緒に買った格好いい服がまだあるから」
「ああ、あの私がウエストを直した短パンね」
皐月は満と名古屋の大須に行った時、千智に合わせてストリート系の服も買っておいた。レディースでいいものがなかったので、メンズのMサイズのハーフパンツを買ったが、大きかったので頼子にウエストを詰めてもらった。
「さあ、子供たちはもう寝なさい。祐希ちゃん、明日は朝早いみたいだけど、大丈夫?」
「いつもより少し早いだけだから、大丈夫です。みんなが寝ている時に出て行っちゃうつもりです。それに、もう眠いからすぐに寝ちゃいます」
「皐月、あんたもすぐ寝なさいよ。もう遅いんだから」
「は~い。祐希、行こうぜ」
小百合に促され、皐月と祐希は二階へ上がって行った。頼子と小百合は朝方までお酒を飲みながらお喋りをしているのだろう。皐月は友達同士で一緒に暮らすという、ちょっと変わったこの家の在り方が気に入っている。
祐希は廊下を通らずに、皐月の部屋を抜けて自分の部屋に戻ろうとしていた。皐月のベッドの足もとを抜けると、隣の祐希の部屋に行ける。
「ベッドの上からごめんね」
祐希はさっき開けたままにしていたベッドの横の襖から自分の部屋に戻ろうとしたが、自分の部屋には入らず、ベッドの上に座りこんだ。
「部屋に戻らないの?」
皐月は立ったまま、祐希を見下ろすように言った。
「まだ眠くない。それに、まだ話し足りない」
「明日、文化祭だろ? 早く寝ろよ」
「なんで急にいい子になるの? さっきは悪い子だったくせに」
「心を入れ替えたんだよ」
「ダッさ……」
祐希はベッドから下りて、自分の部屋の布団に入った。襖を閉めずに電気を常夜灯して、スマホを見始めた。
「祐希。そんなことしてると目が悪くなっちゃうぞ」
「まだ眠くないし、暇だからしょうがないじゃない。皐月は相手をしてくれないし」
皐月も部屋の電気を消して、スマホのメッセージをチェックした。時間が遅いので、誰からもメッセージは来ていなかった。
「ねえ、皐月。布団が冷たいんだけど……。温めに来てよ」
「はぁ? 俺、明日千智と会うんだよ。そんなことできるわけないじゃん」
「それ仕返しのつもり?」
スマホの光に照らされた祐希は少し怖い顔をしていた。だが、悲しそうにも見えた。
「祐希はさっき俺のこと温めてくれなかったじゃん。冷たくされて、ショックだった。それなのに自分ばっか、わがままだ」
「わがままで悪い?」
祐希はスマホを消して、床に伏せた。常夜灯の明かりの中で祐希は皐月を見据えていた。皐月もスマホを消すと、二つの部屋は仄かなオレンジ色に染まった。
「そっちに行くよ」
皐月はベッドから下りて、祐希の布団の中に入った。祐希の表情が柔らかくなった。
「布団、温かいじゃん」
「まだ手足が冷えてるの」
皐月は足で祐希の足に触れると、確かに冷たかった。手を握ると、やっぱり手も冷たかった。
「冷え性?」
「そうだよ」
「これから冬になるけど、どうするの?」
「皐月に温めてもらおうかな」
「何か暖房でも使えよ」
祐希と顔が近いので、吐息がもろにかかる。祐希の吐く息の匂いで、皐月は目眩がしそうになった。祐希とくっついていると、布団の中が徐々に二人だけの世界に変わり始めてきた。
「あれっ? 急に手と足が温かくなった」
「皐月のお陰で温まったみたい。ありがとう」
「じゃあ俺、自分の布団に戻るわ」
「ここにいてよ」
皐月はすでに祐希に取り込まれていた。もう抗うことはできない。どうにでもなれという気持ちになっていた。
「俺……祐希のこと、よくわからない」
「私も……」
どちらからともなく二人は唇を重ね、長く深いキスをした。満により体験を済ませた皐月はその先へ進むことに躊躇がなかった。体に手を這わせても、祐希は真理のような抵抗をしなかった。
階段を上る音がした。頼子は皐月を起こさないようにそっと上っていたが、階段のきしむ音はいつもと変わらなかった。
「やば……。戻らなきゃ」
「うん」
音をたてないようにそっと布団から抜け出し、滑るように自分のベッドの中に入った。祐希の隣の部屋の襖の開く音が聞こえた。頼子が自分の部屋に入ったようだ。襖でしか部屋が隔たれていないので、これ以上祐希と話をすることができない。
暗さに目が慣れているので部屋の中がよく見えるようになっていた。祐希の方を見ると、布団から顔だけを出していた。皐月が軽く手を振ると、祐希もそれに応えた。頼子の部屋からゴソゴソと音が聞こえてきたので、その音に紛れるようにそっとベッドの横の襖を閉めた。
皐月はときどき思うことがあった。目を開いている時と、目を閉じている時、どちらの世界が自分にとって本物なのかと。心の変化は目を閉じている時に起きている……ずっとそんなことを考えていた。
目を開いている時は光が体に入り過ぎる。これでは意識にとって情報過多だ。考え込む時は視線を動かさずにじっとしているが、これは情報の流入を減らそうとしているからだ。目を閉じた時の方が深く考えを巡らすことができる。これは皐月の経験則だ。
目を開けている時もまばたきをして、刹那だが目を閉じる。まばたきは目を保護するための無意識の動作だが、まばたきをすることで取り込んだ光の情報を記憶に保存しているような気がしている。つまり、目を開いている世界にいても、まばたきによって自分の世界を更新しているのだ。
さっきまで目を開いていた時は真理と自分、祐希と自分しかこの世界にいなかった。だが、今は目を閉じて一人きりの世界にいる。すると真理や祐希だけでなく、千智や絵梨花、明日美も現れる。取り込まれた光の記憶は自分の好きなものだけを自由自在に呼び起こすことができる。
皐月は目を閉じている時こそが自分にとっての本物の世界なんじゃないかと思う時があった。だが、目を閉じた世界には人のぬくもりがない。光はあるが、熱はない。見ることはできても触れられない寂しい世界だ。
(俺はごちゃごちゃと考え過ぎだな……)
頼子が下の階へ下りていく音が聞こえた。これから小百合と遅くまで語らうのだろう。場所はきっと居間だ。皐月の部屋の下にあるキッチンではないし、祐希の部屋の下にある母の衣裳部屋でもない。居間とは少し離れている。
皐月のベッドのすぐ横にある襖が少し開いた。
「皐月。まだ起きてる?」
祐希が声をひそめて話しかけてきた。皐月はそっと襖を開けた。
「起きてるけど、どうしたの?」
「お母さん、行っちゃった。こっちに来る?」
「いいよ」
音をたてないようにベッドから下りて、祐希の布団の中に入った。祐希はすぐに抱きついてキスをしてきた。
「さっきの続き、しない?」
「いいけど、声を出すと下に聞こえるかもしれない」
「そうかもね。……皐月もあまり動いちゃダメだからね。家がきしんで、音が出ちゃうから」
「わかってる」
祐希はいきなり激しいキスをしてきた。体は興奮しているはずなのに、皐月の心は乱れていなかった。祐希を道連れに地獄に落ちてもいいと、狂ったことを考えた。
「祐希。俺たちのこと、連に言うなよ」
「わかってる。皐月も千智ちゃんにバレないようにしてね」
「バレないようにか……。祐希は悪い女だな」
「皐月だって悪い子じゃない」
「そうだね」
二人の間にもう長いキスは必要なかった。音を立てないよう細心の注意を払いながらも、皐月と祐希は深く絡まり合った。
外面如菩薩内心如夜叉。京都の東寺で吉口千由紀に言われた言葉だ。皐月は自分の心が夜叉の如く残忍邪悪であったとしても、せめて人と接する時だけでも菩薩の如く柔和でありたいと思った。