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凛姐さんには逆らえない (皐月物語 15)

 朝食を終えた後、小百合さゆりは洗濯をし、頼子よりこは台所の後片付けを始めた。皐月さつきは自分の部屋に戻り、明日からの新学期に向けて真理まりがやり残した宿題に取り掛かかった。自由研究にミスがないか確認し、プリントアウトをしなければならない。徒労に終わるかもしれないが、真理が描こうとしている交通安全のポスターも代わりにやってやろうと思っている。でもなかなかやる気にならない。
 祐希ゆうきは小百合や頼子が家事を終わらせた後、三人で喫茶パピヨンでモーニングに行く。その後、高校の友だちに会いに出かける。お昼は豊橋で食べてくるので夕方まで帰ってこない。祐希とは親しくなったとはいえ、皐月にとっては出会ったばかりの人なので彼女の行動原理がまだよくわからない。
 皐月は祐希たちと一緒にモーニングには行かず、午後から真理に会いに行く予定だ。自分は真理と会うくせに、祐希が友だちに会いに行くことで置いてきぼりを食らったような気になっていた。そんなのは被害妄想だということはわかっているが、それでも寂しさを抑えられない。子供の頃から一人ぼっちでいることには慣れていると思っていたが、こういう形で打ちのめされるとは思わなかった。
 皐月は気分の上がるお気に入りの曲を気が済むまで繰り返し聴き、気を取り直して自由研究のチェックを始めた。レポートの校正を終え、真理の使い勝手を考えて画像ファイルだけをまとめて別紙に印刷した。そうすれば真理が自由研究を書き写す時に画像を貼付する際に、皐月のレポートに鋏を入れずに済む。皐月のメンタルは真理のための作業に打ち込むことによって少しずつ回復してきた。
 交通安全のポスターは無難に大人しいものにしようと考えていたが、元気を取り戻したせいか、すぐにつまらなくなって自分の趣味を前面に出したくなった。
 ポスターは『自転車も止まれ』というタイトルにした。題字を静脈血を連想させる暗褐色を使って指で描くところが面白い。事故死なら動脈血の鮮紅色を使うべきだが、見慣れた静脈血の色の方が見る人に連想を死を働かせると考えた。
 「止まれ」の規制標識の根元に花が供えてあり、女の子が手を握りしめてうつむき加減に立ちすくんでいる。背景は限りなく白に近い紫の単色で塗りつぶした。あえて背景を消して対象を抽出する意図だ。本当は背景に色を塗りたくなかったが、学校の宿題では手抜きと思われそうなのでギリギリの妥協をした。隠喩の効いたいいポスターが描けた。
 昼食は小百合と頼子と三人で素麺を食べた。午後から頼子は小百合寮でまかないをするのに必要なものを買いに行くと言う。夕食の希望を聞かれた皐月は、頼子が忙しそうなのを慮って簡単にできるカレーをお願いした。
 百合は凛と同じお座敷に呼ばれているので、頼子と祐希と皐月の三人で夕食を食べることになる。百合は検番で凛と一緒に稽古した後、豊橋の宴席へ向かう。今日は近場だから皐月が寝る前に帰って来られそうだ。
 昼食後、皐月は真理にメッセージを送った。さすがにもう起きていたようで、すぐに返信が来た。真理が皐月の家まで自由研究を取りに来ると書いてあったが、真理の時間を無駄にさせたくなかったので、自分が真理の家に届けると返した。それに皐月は一人で真理を待ちたくない気分だった。
 真理の家に宿題をやりに行くと小百合に伝えると、頼子から真理の夕食をどうするか連絡を入れるよう頼まれた。頼子は真理のことを気にかけてくれている。

 明日から2学期だというのに昼日中の外はまだ暑い。少し歩いただけで汗が出てくるし、日差しを浴びていると頭がぼ~っとしてくる。皐月は豊川駅の東西自由通路のエスカレーターに乗っている途中で差し入れのことを思い出した。昨夜真理に「今度家に来る時はおやつを持ってきて」と言われたのをすっかり忘れていた。今からコンビニまで階段を下りて戻ろうかと思ったが、少し逡巡した後、買うのをやめた。とにかく暑くて面倒だった。
 真理の住むマンションの部屋の前まで来ると、昨夜の真理を抱き寄せた時の感触を思い出した。幼馴染というよりも好きな女の子の家を訪ねる感覚になり、インターホンを押す手が少し震えた。
「皐月ちゃん、久しぶりね。暑かったでしょ。さあ、入って」
 ドアを開けたのは真理の母の凛子りんこだった。玄関の扉を閉め、玄関ホールで靴を脱ぎ、中にあがらせてもらった。
「ちょっと日焼けし過ぎなんじゃない? せっかく色白なのにもったいないな~」
「凛姐さんも明日美あすみみたいなこと言うんだね」
「美容液塗ってあげようか。美白有効成分のトラネキサム酸が配合されてるのよ」
「凛姐さんの肌が白くて綺麗なのはトラなんとか酸のおかげ? 真理も肌が白いけど、その美容液使ってるの?」
「あの子ってそういうの面倒くさがるのよね。そのくせ美容液を使わなくても白いから羨ましい。引き籠りだから日焼けしないだけって……」
「私のいないところで何の話してんのよ」
 チュール袖の白Tシャツに黒のラインレギパンという部屋着で真理がやってきた。
「俺の顔が黒くて真理の顔が白いって話だよ」
「冬になったらいつも皐月の方が白くなるじゃん」
「真理も少しは外に出て日焼けしろよ。昭和のアイドルは小麦色の肌が健康的って言われてたんだぜ」
「ジジイか、あんたは」
 喫茶パピヨンでモーニングを食べていると昭和歌謡に詳しくなる。マスターの影響でネットで動画を見るようになった。
「皐月ちゃん、何か飲む?」
「コーヒー淹れてあげようか」
 真理は本当にコーヒーにハマっているようだ。
「暑いからお茶がいい。凛姐さん、冷たい緑茶ってある?」
「ペットボトルの伊右衛門特茶ならあるよ」
「あれ高いじゃん! 特保だよね」
「ケルセチン配糖体が脂肪分解酵素を活性化させるのよ。ダイエット効果があるかもね」
「じゃあ私も特茶でいい。私だけコーヒー飲んだら口臭が気になっちゃう」
 口臭なんて気にしないで、真理は自分の好きなものを飲めばいいのに、と皐月は思った。真理は周りに合わせてしまうところがある。
「凛姐さん、さっきから難しい専門用語ばかり言ってるけど、そういうの詳しかったっけ?」
「明日美の影響よ。あの子、健康オタクみたいなところあるから」
 皐月は小百合に聞けなかった明日美の病気のことを凛子に聞いてみたくなった。
「でも明日美って何かの病気してたんだよね、健康に気を使っているのに」
「……まあそういうこともあるわね」
 凛子の表情に陰りが見えた気がしたが、さっと立ちあがってキッチンに行ってしまったので確信が持てなかった。明日美の病気が何だったのかは気になるが、この様子じゃこれ以上凛子には聞けないだろう。いずれ明日美本人に直接聞くしかあるまい。
 リビングには昨日聴いたインストゥルメンタルが流れていた。曲名はわからなかったが、気持ちが落ち着く。今は流れている曲が何なのかということよりも宿題の方が気になる。
「宿題もう終わった?」
「勉強系はなんとか昨日中に終わらせたよ。わりとさっきまで寝てた」
「よく頑張ったね」
「でも交通安全のポスターはまだ描けてない。今日中に何とかしなきゃね」
「これやるよ」
 皐月が持って来たポスターの宿題を真理に見せた。
「これ、私の作品として出しちゃうの? こんなの、私に描けるわけないじゃん」
「宿題なんて出せば何でもいいんだよ。しれっとした顔して出しとけ」
「でも、これ余白が多くない? いいのかな……」
「いいんだよ、これで。でも、やっぱり気になるか……。まだ時間に余裕があるから何か描き足そうか」
「絵具用意するからここで描いてってよ。この後何か用事あるの?」
「全然。まあ少し昼寝でもしようかなって思ってたけど」
「眠くなったらうちで寝てけばいいよ」
 凛子がお茶とお茶菓子を持って来た。笹の葉に包まれた竹筒がガラスの長角皿に乗っていた」
「これ何?」
「京都の二條若狭屋の竹水羊羹よ。青竹に餡を流し込んで、笹で封をしてあるの。見た目が涼やかでいいでしょ」
「チクスイ羊羹って水羊羹?」
「そう。昨日のお座敷でお客様からお土産を頂いたの。京都で人気のスィーツなんだって。私も今日初めて食べるわ」
 凛子が食べ方の説明をしてくれた。まず青竹を包んでいる笹の葉を剥がし、その葉を長角皿に敷く。竹筒の底の節に付属の錐で空気穴を開け、竹筒を45度くらいに傾けて軽く振ると竹から羊羹が出てくる。全部出さないで半分くらい出し、一口サイズに切って食べる。なくなったらまた振って羊羹を出せばいい。実際に言われたとおりにやってみるとすごく楽しい。誰が考えたのか、センスのいい和菓子だ。
「この水羊羹おいしいね、お母さん。微かに竹の香りがする」
「こんなの食べたら京都に観光旅行に行きたくなっちゃうね。私もどうせ芸妓げいこやるんだったら京都でやってみたかったわ」
「もう京都で芸妓は無理なの、凛姐さん」
「こんなおばちゃんじゃダメよ。やるなら高校に行かないで舞妓さんにならなくちゃ。芸妓はその後ね」
「真理ならまだなれるじゃん」
「あのね……私、受験生なんだけど……」
 水羊羹を御馳走になっていて今日の夕食のことを思い出した。
「真理、今日うちで晩ご飯食べる?」
「今日は家で食べるからいいよ。ごめんね」
「じゃあ家に連絡入れておくね」
 スマホを取りだして家に電話しようとしたら凛子が肩に手を乗せて体を寄せてきた。
「今日は皐月ちゃんがうちで食べていきなさいよ。鰻でも取ってあげるわ。昨日の御礼よ」
 顔が近い。凛子は明日美とは違ういい香りがする。
「凛姐さんって今日お座敷?」
「そう。真理一人にさせちゃ可哀想でしょ。だから一緒に食べてってよ」
 凛子にこんなことを言われて断れる皐月ではない。凛子、いや芸妓の凛は子供にも容赦がない。必ず断れなくなるように誘導される。だから皐月は凛子に何かを頼まれて断ったことが一度もない。ただ、今晩はカレーを食べたいと頼子に言ってしまったから困ってしまった。
「真理は塾とか勉強大丈夫なの?」
「塾は基本、土日だけだから大丈夫。でも勉強は全然大丈夫じゃないけどね……」
「じゃあ邪魔しちゃ悪いから家で食べるよ」
「そういう意味で言ったわけじゃないから。今日はうちで食べてってよ」
 断る理由を探したが、真理にまでそう言われたらもうお手上げだ。
「じゃあ御馳走になってもいい? 凛姐さん」
「もちろんいいに決まってるじゃない。皐月ちゃんも遠慮するようになっちゃったんだね」
「何それ。人のこと何だと思ってたの?」
「子供」「ガキ?」
 凛子と真理が同時に言った。流石は母娘、息がぴったりだ。
「ガキって何だよ! それに俺はもう少年だ。これでも日々成長してるから」
「ごめんごめん。確かに皐月ちゃん、ちょっと男っぽくなってきたかな。真理もそうだけど、みんなどんどん大きくなっちゃうね。何だか嬉しいような寂しいような」
「娘の成長くらい素直に喜んでくれてもいいのに」
「そういう親の機微がわからないうちはまだ子供なのよ」
「キビ?」
「表に出ない微妙な変化のこと。中学受験の範囲外だから、真理には難しいか」
「なんで皐月がそんな言葉の意味を知ってるの?」
 真理が目を見開いて皐月を見る。
「漢字は結構わかるよ、俺。漢検2級持ってるから」
「2級って大学受験レベルじゃん。あんた、いつのまにそんな勉強してたの?」
「すげえだろ……ってまあ、漢字だけなんだけどね、俺のできる勉強は。それよりちょっと家に電話するね」
 皐月は昨日登録した頼子の番号に電話をかけ、真理の家で夕食を御馳走になると伝えた。頼子の言うには祐希も晩ご飯を外で食べてくるらしく、寂しそうだった。頼子の料理を食べられないことを謝ったが、まだ用意をする前だから大丈夫と逆に気を使われた。
 電話の相手が小百合じゃなく頼子だと分かると、電話を替わってくれと凛子に頼まれた。頼子と直接話して昨夜真理がお世話になったお礼をしたいと言う。凛子と電話を替わると今晩の夕食は昨日のお寿司の御礼だということと、また改めて小百合寮に挨拶に行くということを話していた。


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