見出し画像

危ない再現ドラマ(皐月物語 105)

 及川祐希おいかわゆうきは食事とお風呂を済ませるまでは二階へ上がって来ない。藤城皐月ふじしろさつきは群青の世界の Music Video を見るのをやめ、ベッドで横になった。
 さっきは『未来シルエット』を見ながら、空や雲の白さを考えていたが、何か感じるものがあったので、その続きをもう少し考えてみようと思い、色について色々調べてみた。

 光は色が混ざると明度が高くなる。光の三原色の赤、青、緑が混ざると白になる。光の色は光を重ねて足していくので、光の波長の種類と量が増え、最終的には白色光になる。これを加法混色という。
 光とは逆に、物の色は混ざると明度が低くなる。色の三原色の赤、青、黄が混ざると黒になる。物の色は色料が光の吸収体なので、色料を混ぜていくと吸収される光が増え、最終的には黒になる。これを減法混色という。
 何年生の時かは忘れたが、図工の時間に水彩絵具の使い方を教わった。その時、絵具を混ぜると色が濁るから混ぜ過ぎないようにと注意された。試しに色々な色を混ぜてみると、どんどん黒っぽくなっていった。皐月は実体験から減法混色のことを知っていた。
 じゃあ、色ってなんだろうと思って調べてみると、色の正体は反射光のことだという。人は物に当たった光のうち、吸収されずに反射したものを、波長の違いで物の色として受け取る。物の色は光がないと目視できない。
 皐月は直射光なら混ざると明るくなって白になり、反射光なら混ざると暗くなって黒になると理解した。このことにも皐月には何か感じるものがあった。
 じゃあ、光ってなんだろう……考えることに疲れた皐月は息抜きのため、まだ知らないアイドルの Music Video を物色し始めた。稲荷口の駅のベンチで入屋千智いりやちさとが言っていた、集中力がなくて何かに没頭した経験がないという言葉が、そっくり自分に当てはまっていると思った。
 皐月は自分の悪いところを自覚している。知的好奇心があっても、知的探究心に欠けている。だが訓練で知的体力を身につければ、知的探究心の欠如といった弱点を克服できるかもしれない。

 アイドルの動画を見る気がなくなり、皐月はベッドで横になって、川端康成の『雪国』を拾い読みし始めた。適当に開いたページを少し読んだら飽きてしまい、文庫本を枕元に投げ出した。
 皐月は三人の女性のことを考え始めた。千智や栗林真理くりばやしまり芸妓げいこ明日美あすみが反射光としての色だとしたら、彼女らと同時に付き合ったらみんな真っ黒に見えてしまうかもしれない。
 でも彼女らが直射光を放つ太陽だとしたらどうだろう。その光を一身に受ける自分は真っ白な明るい光に包まれることになる。
 皐月はモヤモヤしていたことが、なんとなく腑に落ちた。やっぱり三人の中から誰か一人を選ぶなんてできない。千智も真理も明日美も太陽の女神だと思うと、心の揺れが止まった。全ての光を受け止めるべきだ。
 千智のことを悲しませたくはない。真理に辛い思いをさせたくはない。明日美のことを不幸にしたくはない。皐月は自分が愛し、自分を愛する女性の気持ちにできる限り応えたいと思った。
(天使かよ、俺は……)
 皐月は悪友の花岡聡はなおかさとしに「お前にかかわった女、みんな不幸になるじゃないか」と言われたことを思い出した。この呪詛のような言葉は自分の心の底におりのように沈んでいる。その時の皐月の答は「みんな幸せになればいいんだろ」だった。やっぱり最後はここに行き着く。
 祐希が部屋に戻ってくるまでの間、皐月は『るるぶ 京都』を眺めていた。今さら情報の確認の必要はないし、本気で情報収集をするつもりならネットを使う。その時の皐月はただ修学旅行の雰囲気に浸りたいだけだった。
 夜10時を過ぎ、皐月は眠くなっていた。祐希には起きて待っていてくれと言われていたが、いつもならもう寝ている時間だ。祐希は寝ててもいいと言い、起こしてあげるとも言っていたので、皐月はもう寝ることにした。祐希には自分の部屋を通って祐希の部屋に戻ってもらいたいので、皐月は自分の部屋の照明をつけたままにして目を閉じた。
 眠かったのに、いざ寝ようと思うとなかなか眠れない。皐月は変に興奮していた。祐希がどんな風に自分のことを起こすのか、楽しみだった。皐月は自分の言った通り、祐希にキスで起こされることを期待していた。

 皐月はベッドに転がりながら、初めて祐希と会った時のことを思い出していたいた。あれは夏休みも終わる頃、母の友人の及川頼子おいかわよりこと一緒に小百合寮に引っ越してきた時のことだった。
 皐月が始めて祐希と会った時、祐希は見慣れないセーラー服を着ていた。風になびいた黒髪が顔にかかり、髪を指でかきあげた仕草が逆光に輝いていた。その時、祐希から石鹸のような清潔感のある香りがした。皐月はすでに祐希の魅力に心を奪われていた。
 だが、皐月が祐希に恋をするには至らなかった。その理由はいくつかある。
 ひとつは祐希と会う直前に千智と出会っていたこと。そして、祐希と出会ったその直後に千智と再会したこと。さらに豊川稲荷とよかわいなりの薄暗い境内を千智と手を取り合って駆け抜けたことで、皐月の心は千智に大きく傾いた。あの時は茶吉尼天だきにてんに祟られてもいいと思えるほど、千智のことを好きになっていた。
 もうひとつは、祐希に恋人がいることがわかったことだ。皐月は豊川駅の改札口で祐希が恋人と一緒にいるところを見た。その時は頭に血が上り、不愉快になった。あんな奴よりも自分の方が絶対に格好いいと思った。
 皐月は今までここまで激しい嫉妬をした経験がなかった。そんな自分が嫌なので、皐月は祐希に横恋慕よこれんぼするのは徒労だと思い、祐希に感情をフォーカスしないように今日までずっと気をつけていた。
 そんな皐月でも、最近の祐希には軽く恋心を抱くことができるようになっていた。それは祐希に恋人がいるということを気にしないようにしていたからかもしれない。いるものをいないと思うことは馬鹿げたことだが、恋人がいることを忘れるほど気にしなければ精神的には楽になれる。
 皐月は祐希のことを純粋に魅力的だと思っている。同じ家に一緒に暮らしていると、祐希の放つ女の匂いに心を惑わされてしまう。そうなると身体の奥が疼き、真理や明日美との甘美な体験を思い出し、祐希とも同じことをしてみたいと思うようになった。皐月はこの気持ちを単に性欲とは思いたくないので、これを恋心と思うことにしている。
 皐月は祐希の恋人に対して嫉妬に駆られた過去を思い出し、再び心が苦しくなっていた。それは嫉妬のせいではなく、自分の行いが祐希や真理、明日美に嫉妬の責め苦を与えるのではないかという罪悪感だ。
 誰も不幸にはしたくない。さっきはみんな幸せになればいいなどと自分勝手な考えで納得していたが、聡の言った「自分にかかわった女がみんな不幸になる」という呪いの言葉を気にする自分に戻る。この堂々巡りの無間地獄からは抜け出せないのかもしれない。

 階段を上る跫音きょうおんで皐月は転寝うたたねから目が覚めた。洗面所から祐希がドライヤーで髪を乾かす音が聞こえてきた。この後に祐希はいつもスキンケアをしているので、部屋に戻ってくるまではもう少し時間がかかりそうだ。皐月はまだ眠く、祐希との約束や、どのように起こされるかもどうでもよくなってきた。皐月はあっという間に再び眠りに落ちた。
 ふすまを閉める音で意識が戻った皐月は部屋の照明が落とされていることに気が付いた。掛け布団が掛けられていたので、祐希がこの部屋に来たことがわかる。皐月の部屋と祐希の部屋を隔てる襖の隙間から光が漏れている。祐希はまだ起きているようなので、皐月はその襖にノックをして、そっと開けた。
「ごめん。俺、寝ちゃってたみたい」
「あっ、皐月。起こしちゃった?」
 祐希は押入れから布団を出して、敷いているところだった。
「勝手に起きたんだよ。それより起こしてくれればよかったのに」
「皐月の寝顔が可愛かったからね、無理には起こせなかったの」
「キスで起こしてくれるのかと思った」
「起こしたよ」
「えっ!?」
 半分寝ていた皐月が本気で目覚めた。
「祐希、キスしてくれたの?」
「したよ」
「うわーっ! マジかっ!」
「寝たふりじゃなかったみたいだから、そのまま寝かせておいたの」
「そんな~。起きるまでキスしてくれればよかったのに……」
「そういうことは大きくなってから、千智ちゃんにしてもらいなさい」
 皐月の想像以上に喪失感が大きかった。これからは女の子との約束は死ぬ気で守らなければならないと痛切に思った。
「ところでさっき言ってた、話したいことって何だったの?」
「そうそう! 聞いたよ! 皐月、千智ちゃんに告白したんだって?」
(やっぱりその話か……)
 皐月は起き上がって、祐希の部屋の方を向いてベッドに腰掛けた。
「千智に聞いたの?」
「聞いたよっ! ねえ、どいういう感じで告白したの?」
「え~っ。別にいいじゃん、そんなの。どうせ千智から聞いたんでしょ?」
「聞いたけどさ~、皐月の口からも聞きたいなって」
「ヤダよ。恥ずかしい」
 布団を敷き終えた祐希が皐月の目の前に来て、ちょこんと座った。
「恥ずかしくないよ。お姉さんに話してごらん」
 祐希が今にも笑いだしそうな顔をしている。からかわれているようでちょっとムカついたが、目をキラキラさせていて可愛いのが悔しい。
「どうしよう……俺、話すの下手だからな……」
「そんな、上手く話そうとしなくても大丈夫だよ」
「んん……。じゃあさ、再現ドラマみたいにしたいから、祐希、千智の役をやってよ。それならちゃんと話せると思う。それでもいい?」
「演技か……。そんなこと、私にできるかな……」
「俺の言う通りにしてくれればいいよ」
「じゃあ、やってみようかな」
 祐希は素直で可愛い。皐月は面白い遊びを思いついたことで楽しくなってきた。

「舞台は稲荷口の駅のベンチなんだ。千智と二人で並んで座っていたから、祐希は俺の隣に座って」
「オッケー」
 1基ずつ独立している駅のベンチと違って、ベッドだと二人の体重でマットが沈むので、接近度が高くなる。千智と並んで座っている時よりも距離が近い。
「千智がね、塾をやめるっていう話をしたんだ。やめちゃって大丈夫? って俺は心配してたんだけど、千智はもう合格できるくらい勉強できるからいいって言ったんだ」
「へ~。千智ちゃんって賢いんだね」
「そう。で、俺はこう言ったんだ。じゃあ、今から演技するね」
「うん」
 祐希が身構えた。少しワクワクしているようにも見えた。
「塾をやめたら、俺と遊ぶ時間も増やせるかな?」
 皐月は祐希の目を見て、千智に言った時よりも気持ちを乗せてみた。
「それで千智ちゃんは、なんて言ったの?」
「『それは……もちろん増やせるよっ!』って言った。祐希も千智になり切って言ってみて」
「それは……もちろん増やせるよっ!」
「本当? じゃあこれからは今まで以上にたくさん会えるね」
 皐月は実際には言っていない台詞を言ってみた。どうせ細かいことは祐希にはわからないので、盛りあがるように演出してやろうと思った。
「それで、その後はどうなるの?」
「その後、千智は塾をやめても力を落とさないように受験勉強は続けるんだっていう話をしたんだ。体調が悪くても合格できるくらいまで学力を上げるって」
「凄いね……。千智ちゃんって真面目なんだね」
「そう。千智ってスッゲー真面目なんだよ。それで千智はこう言ったんだ。『真面目な子なんて嫌じゃない?』って。祐希、言ってみて」
「真面目な子なんて嫌じゃない?」
 祐希も気持ちが乗ってきたのか、真剣に演技をし始めている。
「何言ってんの? 俺、真面目な子って好きだよ」
 声のトーンを落として、祐希の目を見て、口説き落とすつもりで格好つけて言った。皐月は祐希の左手の上に自分の右手を重ねた。実際はこんなことはしていない。
 祐希がビクッとした。本気でドキドキしているようだ。
「それに千智がどんな悪い女だったとしても、俺は千智のことが好きだよ」
 言いながら顔を近づけて、最後の方は祐希の耳元で囁くように言い、頬に軽くキスをした。
「ちょっと……。本当にそんなことしたの?」
 祐希の声は小さく、少し震えていた。
「千智はここで目を閉じたんだ」
 皐月は祐希を試してみた。ここで祐希が自分のことを疑って、我に返るようならこの遊びをやめにしようと思った。だが、祐希は目を閉じた。
 祐希の右の頬に左手を添えてみると、なすがままにされていた。皐月は祐希の顔を引き寄せ、キスをしようとしてみた。少しでも抵抗されたらラブシーンをやめて笑い話にしようと思ったが、祐希は皐月に応えようとしているのか、自分からも顔を寄せてきた。
 二人の唇が重なった。体中に電撃が走った。皐月は軽く唇を触れるだけのつもりだったが、祐希は弱く顔を押し付けてきた。これが普段、祐希が恋人としているキスの仕方なのだろう。皐月も引かないで、祐希の口づけに応えた。
 口をふさがれている祐希の呼吸が荒くなってきた。鼻だけで細い呼吸をしていた皐月も苦しくなってきたので、唇を完全に離さずに口を開いた。祐希も皐月に倣って口で呼吸をし始めた。
 二人の吐息が混ざり合うと皐月も祐希も興奮し、二人とも何も考えられなくなっていた。皐月がいつも真理としているようにキスをすると、舌と舌が触れあった。祐希の身体がピクッと震え、祐希が慌てて唇を離した。
「ちょっと待って……皐月……千智ちゃんとこんなことしたの?」
「そんなの、するわけないじゃん」
 もう一度、皐月からキスをした。口づけを受け入れた祐希だが、すぐに皐月の身体を押し避けた。
「ダメだって。こんなことしちゃ……」
 祐希は強い力で押してはいなかったが、皐月は祐希の望む距離まで身体を離した。ひっぱたくわけでもなく、席を立つでもない祐希を、皐月はただ見ているだけしかできなかった。
「どうしよう……私、こんなつもりじゃなかった」
 祐希が哀しそうに困惑していた。皐月はさっきまでは誰も不幸にしたくないと思っていたのに、祐希を不幸にしてしまうかもしれない。聡の呪いの言葉を跳ね返したいと思った。
「俺……祐希とキスすることができて嬉しかったよ」
 この気持ちに偽りはない。皐月は祐希も幸せにしたいと思った。
「私……千智ちゃんに皐月に告白されたことでおめでとうって言ったんだよ。それなのに、こんなことしちゃって……」
「演技のつもりだったんだけど、祐希があまりにも魅力的だったから、つい……。ごめんね」
 皐月は祐希に責めてもらいたかった。どんな辛辣な言葉を投げかけられても、全部受け止めるつもりでいた。
「皐月は千智ちゃんのこと、幸せにしなくちゃダメなんだからね……」
「うん……わかってる」
 祐希がベッドから立ち上がった。皐月も立ち上がり、祐希と顔を合わせた。皐月は祐希よりも背が高くなっていた。
「じゃあ、おやすみ」
「うん……おやすみ」
 皐月はベッドに戻って、自分で襖を閉めた。しばらくすると、祐希の部屋の明かりが消えた。


最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。