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消えそうな恋心(皐月物語 122)

 土曜日の朝、藤城皐月ふじしろさつきはいつもより少し遅い7時の起床だった。部屋着のまま洗面所に行くと、及川祐希おいかわゆうきが大きな鏡の前で髪を整えていた。
「おはよう、祐希。今日は学校休みなのに早いじゃん」
 祐希はすでに着替え終えていた。今日は制服ではなく、私服を着ていた。アイボリーのマウンテンパーカーを羽織り、デニムのスキニーを合わせていて、すっかり秋の装いだ。
「おはよう。お母さん、まだ寝てるよ。皐月は朝ご飯どうする?」
頼子よりこさんが寝てるなら、パピヨンでモーニングかな。祐希も一緒に行く?」
「ごめんね。私、すぐに出かけるから……」
 当たり前のように二人で喫茶店に行けると思っていたので、皐月は少し動揺した。
美紅みくにカフェに行こうって誘われたの。新城しんしろのレトロなカフェなんだけど、よかったら皐月も行く?」
「俺はいいよ。今日はいろいろ用事があるし。それに新城なんて遠いじゃん」
「皐月が来たら美紅、喜ぶのにな……」
 皐月には祐希の考えていることがよくわからなかった。祐希にはれんという恋人がいる。そして、友人の黒田美紅くろだみくは祐希と蓮の関係を知っている。美紅と自分を会わせようとしているが、昨夜のようなことがあったのに、よくこのタイミングで言ってくるなと思った。
 皐月は祐希が髪を整えている横で、顔を洗い、歯を磨いた。かつて旅館だったこの建物はレトロな洗面台が二つ並んでいる。皐月は鏡を見ながら、この髪型をどうしようかと考えていた。今日は美容院に予約を入れてあり、修学旅行へ行く前に髪を整えてカラーを入れ直したいと思っていた。
「ねえ。俺ってショート似合うと思う?」
 両手で髪をかき上げながら祐希に聞いてみた。今はミディアムが少し伸びた状態だ。
「皐月はどんな髪型にしても似合いそうだけど、ショートにしたいの?」
「いや……できればロングに戻したい」
「じゃあ切っちゃダメでしょ?」
「でも、どうせ中学に上がったら髪の毛切らなきゃいけなくなるし……」
 ロングだった髪を切った時は気分が変わって嬉しかったが、最近は髪が長かった頃を懐かしく感じていた。だが、クラスの女子からは今の髪型の方がウケがいい。
「祐希はミディアムとショート、どっちが好き?」
「そうだな……ミディアムかな?」
「あれっ? ロータスってショートじゃなかった?」
 前髪を触っていた祐希の手が止まった。
「どうして皐月がれん君の髪型を知ってるの?」
「駅で見た」
「嘘……」
 祐希は目を大きく見開き、鏡越しに皐月のことを見つめていた。皐月は左隣にいる祐希の方に少し顔を傾け、正視せずに横目で見た。
「仲良さそうだったじゃん」
 朝のルーティンを終えた皐月は祐希を残して自室へ戻った。これ以上祐希と二人でいると、言わなくてもいいことを言ってしまいそうだったからだ。

 部屋の戸を閉めた皐月はパジャマ代わりにしている部屋着を脱ぎ、外出着に着替えた。この服は昨日の夕方、栗林真理くりばやしまりの家に行く時に着た服だ。上着には仄かに真理の匂いが残っていた。
 部屋を出ると、祐希はまだ洗面所にいた。今朝の祐希はラフな格好がかえっていつもの制服姿よりも色っぽく感じた。
「パピヨンに行ってくる」
 小百合寮は階段の傾斜が急すぎるので、手摺を掴みながらバックで降りないと危ない。皐月が階段を下りようとして向きを変えると、下り始める前に祐希に腕を取られた。腕を引っ張られるとその力が思いのほか強く、引かれた体が祐希にぶつかった。
「ねえ皐月、もしかして怒ってる?」
「えっ? 別に怒ってないけど」
「部屋に戻る時、目が笑っていなかった」
「そう?」
「うん」
 祐希は皐月の部屋の引き戸を押し開けて、皐月を部屋の中に引っ張り込んだ。戸を閉めた祐希は戸にもたれかかり、通せん坊をしているようなていになっていた。
「どうしたんだよ?」
「皐月、女の子の臭いがする」
「……相変わらず鼻がいいね。嗅覚、発達し過ぎなんじゃない?」
「その匂い、誰の?」
 祐希が真剣な顔で皐月を見ていた。皐月は祐希の表情から言動の意図を読み取ろうとしたが、複雑な顔をしていて、怒っているのか悲しんでいるのかよくわからなかった。
「真理の家の匂いじゃないかな。昨日、真理んで一緒に晩飯食ったから」
「家で一緒にご飯を食べるだけで、そんなに臭いがつくの?」
「さあ……そうなんじゃない? 俺にはどれくらい匂うのかわかんないけど」
 皐月は祐希に上着のシャツの匂いを嗅いで見せた。念入りに嗅いでも匂いがわからないというポーズをとった。祐希が疑いの目で見続けているので、皐月はイライラしてきた。
「祐希も昨日、男の臭いがしたよ。制服と髪の毛から」
 皐月は自分のことを棚に上げて、祐希にはったりをかましてみた。本当は男の臭いなんかわからなくて、汗と埃の匂いしかしなかった。
「皐月も鼻がいいんだね」
 祐希の言葉に皐月は頭がもやっとした。鎌を掛けるつもりではなかったのに、聞きたくないことを知ってしまった。
ロータスは祐希の恋人だから、別にいいんだけどね……」
 言葉とは裏腹で本当は何も良くはなく、皐月は嫉妬で頭がおかしくなりそうになっていた。昨夜も祐希とキスをしている時に、祐希がロータスとキスをしていることが頭にちらついた。そのせいで皐月は真理の時のように祐希を求めることができず、自分から祐希を遠ざけてしまった。
 皐月は恋愛するまで、嫉妬がこんなにも苦しいとは知らなかった。嫉妬の概念だけで知ったかぶり、真理まり明日美あすみに焼きもちを辛い思いをさせたくないと軽く考えていた。だが、自分が嫉妬で苦しんで初めて自分の犯している罪の重さがわかった。
「祐希って美紅さんと会うって言ってたけど、本当はロータスと会うんだろ?」
「違う! 蓮君とは会わない。本当に美紅に会いに行くんだから」
 祐希が必死になって弁解している。祐希の言うことはたぶん本当なんだろうな、と思った。だが皐月には祐希の言葉が本当だとしても、嬉しいとは全く思わなかった。
「いや、そんなに否定しなくてもいいよ。ロータスは祐希の恋人なんだから、会いたきゃ好きに会えばいいんだって」
「そんなこと言わないでよ……」
 祐希の目から涙が溢れそうになっていた。皐月はティッシュを一枚抜き、涙がこぼれる前に吸わせようと祐希に近づいて、軽く目に当てた。
「せっかく可愛くなったのに、メイクが落ちちゃうじゃん」
 作り笑顔でたかぶる祐希の感情を鎮めようとすると、祐希から皐月にキスをしてきた。
「リップが落ちちゃうぞ?」
「いい。塗り直すから」
 祐希の舌が入ってきたので、軽く、深く吸った。皐月の鼻の下が祐希の唾液で濡れた。
「頼子さんが起きちゃうとヤバいから、やめよう」
「えっ? やめちゃうの?」
 祐希の顔がトロンとしていた。
「俺だってやめたくないけどさ……祐希、デートに遅れちゃうだろ?」
「だから蓮君とは会わないって!」
「俺は今日、千智ちさとと会うから」
「えっ!?」
 祐希の顔が崩れた。泣きそうな顔に変わった。
「千智は祐希の文化祭に着ていく服を買いたいんだって」
「……」
「大丈夫。俺は千智とこんなことしないから」
 今度は皐月から祐希に口づけをした。優しく唇を重ねていると、皐月の濡れた人中じんちゅうが乾いてきた。唾液の官能的な匂いと、祐希の甘い吐息が入り混じり、皐月は理性を抑えられなくなった。いつしか皐月は真理にしているのと変わらないキスをしていた。

 皐月は一人でパピヨンでモーニングを食べた後、パピヨンの2階に住んでいる今泉俊介いまいずみしゅんすけの部屋で遊んでから家に戻った。その間に祐希は飯田線に乗って新城へ美紅に会いに行ったようだ。昼前に皐月は美容院でカラーをし直し、少し髪を切ってもらった。
 昼ご飯を食べた後、皐月は入屋千智いりやちさとに会いに出かけた。名鉄めいてつ豊川稲荷とよかわいなり駅から豊川線に乗り、八幡やわた駅で降りた。短い距離だけど、鉄道好きの皐月にはワクワクする時間だった。
 高架になっている八幡駅のホームからは豊川市民病院がよくみえる。市民病院は皐月の祖母が入院していて、よく通ったところだ。
 皐月が千智をデートに誘った時、待ち合わせ場所を八幡駅に指定されて驚いた。千智は祖母が入院していると言ったからだ。前に千智の家の近くで会った時は自宅療養していたのに、容態が悪化したらしい。
 駅のホームから階段を降りたところで千智は待っていた。千智の置かれた深刻な状況を思うと、皐月は素直に千智に会えたことを喜べなかった。千智は手を振っていたが、いつものように嬉しそうではないような気がした。だが、キャップをかぶっているから表情が読みにくい。
「こんな時に会おうなんて言っちゃって、ごめん」
「いいよ。だって皐月君は家の事情なんて知らなかったんだし。……それにおばあちゃんが皐月君に会っておいでって言ってくれたの」
「そうか……」
「皐月君が気を落とさなくてもいいんだよ。とりあえずイオンに行こっ」
 千智に手を引っ張られて皐月たちは駅を離れた。千智の手はしっとりとして、温かかった。
「皐月君、格好よくなったよ。新しい髪型、私好き」
「よかった。伸ばそうか切ろうか迷ってたんだけど、千智がいいって言ってくれたから、切って良かったよ」
「紫色も綺麗になったね」
 千智の顔にいつもの笑みが戻った。病院に沿って歩いていると、ずっと手を繋いだままでは不謹慎な気がしてきて、皐月は繋いでいた千智の手を離した。バイザーの奥で千智が少し不満気な顔をしていた。

 豊川市民病院に隣接したところにイオンモール豊川がある。皐月はイオンで修学旅行に履いていく靴を、千智は祐希の高校の文化祭に着ていく服を買う予定だ。
「皐月君、本当はイオンに来るつもりじゃなかったんでしょ?」
「そうだね。千智からおばあちゃんの話を聞くまでは豊橋に行くつもりだった。でもイオンでいいよ。俺、イオンって大きくて、いろいろな店が入っているから好きだ」
 皐月はイオンで学校の友達に会うことを気にしていた。イオンは豊川市民がよく買い物に行くところだ。皐月自身は一人でイオンに来ることは今までなかったが、クラスメイトの間ではイオンで買い物をしたという話をよく聞いていた。だから、イオンに行けば誰かしら知り合いに会う確率は高いだろうと思った。
 皐月が千智と二人でイオンにいるところを誰かに見られたら、千智と付き合っているという噂は事実となって学年中に知れ渡るだろう。皐月は噂が拡散することを覚悟した。
「皐月君、髪の毛切って格好良くなっちゃったね……」
「何? その言い方」
「絶対今より女の子からモテるようになっちゃう」
「ははは。そんな心配はいらないって。俺のクラスの女子はみんな博紀ひろきに夢中だから」
月花げっか先輩より皐月君の方がずっと格好いいのに……」
 千智は皐月よりも博紀の方がモテることが気に入らないようだ。千智の少しむくれたところが可愛い。皐月は自分のしていることを思うと、千智の純粋な思いを受ける資格がないんじゃないかと心苦しくなってきた。

 週末のイオンはお客さんで賑わっていた。これだけ人が多ければ、千智と二人で歩いていても目立たないだろうな、と皐月は少し気が楽になった。千智はキャップをかぶっているし、家族連れの客が多くて小学生が二人並んで歩いていても群衆に溶け込んでしまう。皐月は先に買い物を済ませ、後でゆっくりとお茶でもしようと千智に提案した。
 皐月の靴はすぐに決まった。皐月は買うものを選ぶときにほとんど躊躇がないので、すぐに買い物が終わる。
 千智の服選びは少し時間がかかった。千智はストリート系の服を選ぼうとしていて、この日もバスケの似合うスポーティーなコーデで来ていた。皐月としては真理のようにファッション雑誌に出ているような可愛い服を着てもらいたいと思っていた。ニコプチに掲載されているブランドの店は豊川のイオンにはないけれど、可愛い服を売っている店はある。皐月は千智を連れて何軒か店を回った。
「千智、この服似合いそう。ちょっと当ててみてよ」
「イヤだ。皐月君の方が似合いそうだもん」
「何言ってんの?」
「いいから鏡見てみてよ」
 千智に勧めている服を持って、皐月は鏡の前で服を当ててみた。
「やっぱり似合ってる……。この服、皐月君が買ったら?」
 確かに我ながら似合ってるな、と思った。でも千智に服を当ててみると、やっぱり千智の方が自分よりも似合ってる。
 こんなやりとりをしながら買い物をしていると、なかなか買い物が終わらない。皐月は初めのうちは服一つ決めるのにも時間がかかって面倒だなと思っていたが、千智が楽しそうにしているのを見ると、千智が楽しいならいいかと思うようになった。買い物ではなく遊んでいるつもりでいると、皐月も買い物に付き合うのが楽しくなってきた。

 皐月と千智は買い物を終えるとモールの2階にあるスターバックスへ入った。店内の席に空きはあったが、レジには行列ができていた。知っている人がいないかと皐月は店内に視線を走らせたが、知った顔はいなかった。
 皐月たちの順番が回ってきた。皐月はダークモカチップフラペチーノを、千智はアーモンドミルクラテを頼んだ。皐月たちは可愛い女性の店員に話しかけられ、軽い雑談をした。皐月は紫のヘアカラーを格好いいと煽てられ、千智はストリート系のファッションを格好いいと褒められた。千智のことを可愛いと言った時の店員は営業トークではなく本気だったように見えた。
 皐月たちはモール内が良く見える窓際の二人席を避け、比較的空いているセントラルパーク内のテラス席へついた。小さめの円いテーブルに向かい合って座ると親密度が上がるような気がした。千智はここに来てようやくキャップを取った。
 皐月と千智は飲み物を飲みながら祐希の高校の文化祭の話をした。話題が途切れたところで、皐月はここまであえて聞かなかった千智の祖母のことを聞いてみた。
「おばあちゃんの容態はどうなの?」
「うん……癌なんだけど、急に進行しちゃって……」
「そうなんだ……」
 皐月はこの話題を持ち出したことを後悔した。想像していたよりも深刻な話だったので、千智が自分から話し出すのを待つべきだった。自分から言えなかったのは辛い話になるからに違いなかった。
「私……塾やめて皐月君といっぱい会えるようになるかと思ってたんだけど、あまり会えなくなるかもしれない」
「いいよ、そんなの。俺は千智の都合に合わせるから」
「ごめんね……」
 千智の目から涙が飛び出るように溢れた。びっくりした皐月はハンカチを出して千智の涙を拭いた。泣いているのに、千智がまったく表情を崩していなかったのが皐月には不思議だった。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう。恥ずかしいところ見られちゃった」
「何も恥ずかしくないよ」
「私の泣き方が変って、よくお兄ちゃんに笑われてたの」
 千智に兄がいることを皐月は聞いていた。千智の兄は高校1年生で、東京に残って私立の進学校に通っている。千智の父が週に3~4日、東京と豊川を行き来していて、父が東京にいない時は家政婦に身の回りの世話をしてもらっている。
「千智、来週の文化祭に行くつもりで服を選んでたんだよね。行ってもいいの?」
「それはね、おばあちゃんが行ってきなさいって言ってくれたの。私にあまり気を使わせたくないみたい」
「そうか……。おばあちゃんの話、祐希にしてもいいのかな?」
「うん、私からもしておく。祐希さんにあまり心配かけたくないから、程々に伝えるつもり」
「わかった。俺も気をつけて話すよ」
 祐希との関係を考えると、皐月は高校の文化祭に千智と行きたくないと思い始めていた。三角関係の中で平静を保てるのか自信がないし、祐希のことも信用できない。
 それに祐希の恋人の蓮を見たくない。高校に行けば、祐希か祐希の友人の美紅から蓮のことを紹介されることになるだろう。考えるだけで吐き気がする。
 それでも約束をした以上、千智を祐希の高校に連れていかなければならない。皐月は気持ちを逸らすために、祐希のことを考えないようにした。
「千智って俺にもおばあちゃんのことで心配させないようにしてるだろ?」
「それはそうだけど……。両親も私に気を使っているのか、深刻な話を避けているような気がするんだよね。おばあちゃんがどれくらい悪いのか、私はちゃんと知らされていないと思うの」
「そうなんだ……」
「うん。私はどんな辛いことでも受け止めるつもりでいるんだけどね」
 千智はまだ5年生なのに気丈なことを言う。皐月は祖母の死を意識した時、千智のように強くはいられなかった。学校では悲しみを隠すためにわざとはしゃいでいた。そのせいで皐月は5年の時の担任に目をつけられていた。
「千智が辛くなったら、少しくらい俺を頼ってくれていいからね。もう泣き顔見られたんだから、恥ずかしがらなくてもいいよ」
「ありがとう。一人で耐えられなくなったら、また皐月君の前で泣かせてもらうよ」
「その時は変な泣き方をしてもいいよ」
「もうっ! 絶対に泣かないから」
 皐月は辛かった時、芸妓げいこ明日美あすみすがるように甘えていた。

 皐月は千智に修学旅行の話をした。修学旅行実行委員会の話や、旅行1日目の京都での班行動の話を千智は興味深く聞いていた。千智は6年生になったら実行委員になるつもりでいるので、委員会でどんなことをしているのか興味があるようだ。班行動の話は観光地の選定までのエピソードが面白かったみたいだ。
 二人ともドリンクを飲み終えたので、店を出ようと思った。容器を片付けに店内に入ると、千智に手を引かれた。
「どうした?」
「あの人、この前一緒にドッジボールをした人だと思うんだけど」
 少し離れたところにいたのは皐月の同級生の松井晴香まついはるかだった。母親と一緒に買い物に来ていたみたいだ。晴香と目が合ってしまったので、無視してやり過ごすわけにはいかなくなった。晴香の傍を通って、晴香とお母さんに挨拶をした。
「こんにちは」
 皐月は第一声をなんて言おうか迷ったが、とりあえず母親向けに丁寧な挨拶をした。千智はキャップを取って頭を下げた。
「こんにちは。今日はデート?」
「買い物。修学旅行に履いていく靴を買いに来たんだ」
 皐月は晴香に「こんにちは」なんて言われたことがなかったのでおかしくなって、自然と笑みがこぼれた。
「お母さん、彼が藤城君」
「はじめまして。藤城皐月です。彼女は友達の入屋千智いりやちさとさん」
「はじめまして。晴香の母です。あなたが藤城君なのね。晴香からよく話を聞いてるわ」
「ちょっとお母さん、そんなによく話なんてしてないでしょ!」
 晴香が真っ赤な顔をして狼狽している。こんな姿の晴香を学校で見ることがないので、皐月はつい笑ってしまった。
「藤城さん、いつもこの子と仲良くしてくれてありがとう。この子って気が強すぎるでしょ? みんなに迷惑をかけていないかしら?」
「そんなことないですよ。晴香さんはみんなから慕われています。晴香さんのおかげでクラスの女子がまとまっているから、僕たちのクラスはすごく居心地がいいんです。僕は晴香さんと同じクラスで良かったなって思ってます」
「まあっ……そんな風に言ってもらえるなんて、嬉しいわ」
「じゃあ僕たちは行きます。松井、また月曜日学校で」
「うん……」
 皐月は松井母娘おやこに手を振って、千智とスターバックスを後にした。これからどうするか決めていなかったので、もう少し店内をぶらぶらと歩くことにした。
「松井は博紀のファンクラブの会長なんだ」
「そうなの? 松井さんって皐月君のことが好きなのかと思った」
「全然! あいつは博紀のことが好き過ぎて、博紀以外の男子なんてまるで眼中にないんだ。気が強いし、男子はみんな松井のことを怖がってる」
「だからお母さんはあんなこと言ったんだね」
 晴香のお母さんは明るくて優しそうで、全然気が強そうに見えなかった。皐月の知っている晴香の優しいところはお母さんから引き継いだんだと感じた。
「皐月君が同級生の女の子と丁寧な言葉で話してるの、初めて見た」
「俺も焦ったよ。よりによって松井と会うとは思わなかった。しかも親と一緒にいたし。同級生の親と話すのって緊張するよな」
「全然そんな風に見えなかったよ。私もお母さんに皐月君のこと、紹介したいな」
「いつでも紹介してよ」
「うん。家が落ち着いたら家族に紹介するね」
 皐月は晴香の母と会ったことがきっかけで、千智の祖母のことに意識が向かった。これ以上のデートは自粛して、千智に病院に戻るよう提案した。千智も同じことを感じたのか、素直に皐月の言うことを受け入れた。

 エスカレーターで1階に下り、店内を少し見てから帰ろうと思っていたら、抹茶専門店のイートインから千智に声がかかった。
「あっ、お兄ちゃん」
 白いシャツの似合う爽やかな少年が手を振っていた。彼は通路に面したカウンターで抹茶のケーキセットを食べていたようだ。皐月は晴香の母と会った時よりも緊張した。
「病院、出て来たんだ」
「ちょっと甘いものが食べたくなっちゃってね。友達と会うって言ってたけど、相手は男の子だったんだ」
「うん……。紹介するね。彼は藤城皐月くん。一つ上の先輩」
「初めまして。藤城皐月です」
 咄嗟のことで皐月はなんて言ったらいいのかわからなかった。せめて笑顔でこたえようと思ったが、自分の表情管理に自信が持てなかった。
「こちらこそ初めまして。入屋速日いりやはやひです。ヨロシク」
 立ち上がった速日は高校1年生にしては見上げるような背の高さだった。小学校で一番背の高い先生と同じくらいの背の高さだから、皐月には 180cm くらいの身長だと感じた。体つきは痩身で、顔は千智に似て美形で爽やかな雰囲気を醸し出している。普段からこんな兄と比べられているかと思うと、皐月は卑屈な気持ちになってきた。
「俺はケーキを食べたら病院に戻る。千智は夕方まで藤城君と遊んでたらいい」
「でも……」
「おばあちゃんのことならいいよ。俺が見ているから。もしかしたらもう会えなくなるかもしれないし、今日は俺に独占させてくれ」
「うん……わかった」
「じゃあそんなわけで藤城君、もうしばらく千智の面倒を見てもらえるかな?」
 速日は椅子に座り、千智が買った服を受け取るとケーキの残りを食べ始めた。皐月は千智に促され、イオンモールの外に出た。出たはいいが、二人に行くあてはなかった。
「さて、困った……。さすがに遊ぶ気分じゃないな」
「ごめんね、皐月君。お兄ちゃんから厄介者を押し付けられちゃったね」
「バカ……自分のことをそんな風に言うなよ」
 そうは言っても、さすがに皐月も途方に暮れた。今から何をしようか、いつまで二人でいればいいのか。時刻は午後3時半という微妙なタイミングだ。遅くても5時までには千智を病院に帰したいので、どこかへ連れて行くこともできない。
 だが、皐月は前向きに考えることにした。せっかく二人で静かな外に出たんだから、この時間を大切にしたいと思った。
「いい機会だから、まだ話していない俺のことでも聞いてもらおうかな。どこかゆっくりできる所があればいいんだけど」
 皐月はスマホを取り出し、マップで近隣の地図を開いた。歩いてすぐのところに弥五郎第1公園があった。そこにはトイレもあるし、写真を見る限り雰囲気は悪くなさそうだ。
「とりあえず公園に行こうか」
 皐月は千智を連れて公園へと歩き出した。千智は明らかに元気をなくしていた。だが、ここで元気づけるようなことを皐月は言えなかった。あからさまな言葉はかえって白々しいと思い、今の皐月には隣を歩くことしかできなかった。手を繋ごうとも思ったが、千智の置かれた状況を考えるとためらってしまい、繋げなかった。
 俺を頼れと言っておきながらこの体たらくだ。このままでは過去最高に自分のことが嫌いになりそうだ。病院の横を通り過ぎ、鉄道の下をくぐると、皐月は思い切って千智の手を取った。しっとりとしているのは変わらなかったが、手は冷たくなっていた。
「手が冷えてるじゃん。寒い?」
「ううん。寒くないよ。皐月君の手は温かいね」
「まあね。だから冬でも半袖半ズボンでいられるんだ」
「それはダメっ! 私と一緒に冬服を買いに行くんだからね」
「わかったわかった。でも、ちゃんと今日は長袖長ズボンで来てるだろ? それに修学旅行も長袖長ズボンで行くし。俺、ちゃんと千智の言うことを聞いているから。偉いだろ?」
「ドヤ顔で言うことじゃないんだけどな……でも偉いよ、皐月君」
「えへへ」
 千智の顔に生気が戻ったように見えたが、相変わらずバイザーに隠れて表情が読み取りにくかった。

 弥五郎第1公園はシンプルだが、美しい公園だ。住宅地の中にある小さな公園で、遊具は2連ブランコ・滑り台・平均台・シーソーがある。地面は全て芝が葺かれており、裸足で遊ぶと気持ちが良さそうだ。小さな藤棚の下にベンチがあったので、皐月と千智はそこに座った。
「デハ話ソウ」
「何? その変な言い方」
「今から俺の恥ずかしい過去を暴露するから、質問があったらなんでも聞いてくれ」
 皐月は訥々と生い立ちを話し始めた。幼少期のこと、離婚した父親のこと、和泉いずみ姐さんの家に預けられていたこと。母の仕事のこと、今まで住み込みで働いていた芸妓げいこのこと、皐月を可愛がってくれた芸妓のこと。
 真理のことも話した。幼馴染で、従妹いとこのような関係だと嘘を織り交ぜた。明日美のことは憧れの芸妓だと、かつての想いを話した。二人のことに関しては千智からの質問が多かったが、皐月は千智の様子を観察しながら、不安にさせないように配慮した。
 学校生活のことも話した。今のクラスでの交友関係だけでなく、5年生の時のことも話した。それ以前のことはあまりよく覚えていないので、適当に端折った。千智は江嶋華鈴えじまかりん野上実果子のがみみかこと既に会っているので、5年生の時の話はしやすかった。
 家での祐希との生活のことも話した。突然祐希が引っ越して来て、生活が大きく変わったこと。その時から今までの間に自分の中で起こった変化のこと。祐希との関係は綺麗事で塗り固めたが、特に穿うがったことは聞かれなかった。千智と祐希の間では自分の知らないことを色々と話しているのだろうと思った。
 皐月が気をつけたのは千智が抱いている幻想を壊さないようにすることだった。嫉妬や嫌悪に繋がりそうなことには特に気を使い、言葉を選んだ。同情を誘ったり、好感度を上げたりするような話に持っていくことを心掛けたが、露骨に誘導するとよこしまな気持ちを見透かされるので、話の構成には気をつけた。綱渡りのような時間だった。
「いろいろなお話を聞かせてもらえて嬉しかった。ありがとう」
「へへっ、ちょっと恥ずかしいね。俺も千智の話も聞きたいな。差し支えない範囲でいいから、千智の家族のことや東京時代のことを話してよ」
「え~っ、皐月君みたいに話せるかな……」
「そんな風に考えなくてもいいんだけどね。気楽に、話せることだけ聞かせてもらえると嬉しいかな。さっきスタバであまり聞けなかった、おばあちゃんの病気のことをもうちょっと聞きたいな」
 皐月は当り障りのないレベルの質問から徐々に深度を上げていった。千智の感情の揺れに気をつけながら、話しにくそうな印象を受けたら話題を変えるようにした。根掘り葉掘り聞きたい気持ちもあったが、あえて聞かないことも大切なんだなと、皐月は千智との対話の中で知ることができた。
 皐月には東京時代の話が興味深かった。特に中学受験や塾の話は身近に受験勉強をしている子がいるので、皐月から質問することが多くなった。千智の話を聞いているうちに、過去に戻れたら自分も中学受験を頑張ってみたいと思った。真理に受験を散々勧められたのに、本気で考えなかったことを後悔した。
 千智の話を聞いていると、千智は東京に戻った方が幸せなんじゃないかと思うことが多かった。さっき会った兄の速日の通っている高校の話を聞いていると、千智も東京の私立の上位校を目指した方がいいんじゃないかと思えてきた。
 千智の両親のことは皐月の方から遠慮して、なるべく多くは聞かないようにした。今の千智の置かれている状況から判断すると、そう遠くない未来に千智は東京へ戻るだろうと思った。絶対に口にできないことだが、そのタイミングは祖父母の死だと皐月は確信していた。
「だいぶ日が傾いてきたね。そろそろ病院に戻っても大丈夫じゃないかな?」
 スマホを見た千智は時刻が5時を過ぎていることに驚いていた。
「もうこんな時間……。あまり遅くなるとおばあちゃんやお兄ちゃんを心配させちゃうかな。お母さんもそろそろ来る頃だし」
「病院まで送っていくよ。行こう」
 皐月が先に立ち上がり、千智に手を差し伸ばした。皐月の手を取った千智は自分で立ち上がり、皐月から手を離して先に歩き出した。
 病院までは無難に速日の話題で会話をしながら並んで歩いた。皐月は速日の名前が日本神話の邇芸速日命にぎはやひのみことと関係があるんじゃないかと聞いてみたが、千智は日本神話の神様の名前を知らなかったようだ。邇芸速日命について説明しているうちに病院に着いた。
「今度会えるのは来週の文化祭になりそうだね」
「うん。声が聞きたくなったら電話してもいい?」
「もちろん」
「いよいよ修学旅行だね」
「お土産買ってくるよ」
 千智と別れて、皐月は八幡やわた駅へと向かった。駅を見ると、ちょうど豊川稲荷方面へ行く電車が出ていくところだった。15分も待たなければいけないのかと思ったが、ホームに上がると誰もいないのでかえって落ち着くことができた。
 皐月は千智に対する恋愛感情が薄くなっていることに気が付いた。立ち入った話をし過ぎたからなのか、情報過多になったからなのか、恋心が冷めたような気がした。恋人というよりも友達のような感覚に近いのかもしれない。
 人のいない高架駅はどこか物寂しい。吹きつける夕風が寒くなってきた。赤らむ空を眺めながら、皐月は早く家に帰りたくなっていた。


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