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夢のような話(皐月物語 87)

 明日美あすみが化粧を直している間、藤城皐月ふじしろさつき検番けんばんの二階の稽古場の開け放たれた窓を閉めていた。最後の窓を閉める前に明日美の真似をして、窓辺に座って欄干らんかんに手をかけて窓の下を見た。もう小学校の最終下校時間を過ぎている。こんな時間に眼下の小径を通る人は誰もいない。
「皐月、いい男だね。写真撮らせてもらってもいい?」
「いいけど……」
 皐月が小さかった頃はよく明日美に写真を撮られていたが、最近は全然そういうことをされていなかった。
「俺も撮らせて。今の明日美のラフな感じ、すごくいいから」
 皐月はまだ明日美の写真を一枚も撮ったことがない。
「え~っ、恥ずかしいな。どうせなら芸妓になった私の写真を撮ればいいのに」
「俺はお座敷の客じゃないから、そういうのはいらない。今の素の姿の写真が欲しい。それに今日は俺にとって大切な日になったから」
「そうだね……」
 ランドセルからスマホを取りだして、明日美の写真を撮った。これが皐月にとって初めての明日美の写真になった。
 帰る準備ができた明日美が着物を入れたキャリーケースと三味線しゃみせんケースを手に取った。明日美にならって皐月もランドセルを背負うと、明日美から悲鳴のような声が上がった。
「私、ランドセルを背負っている子とあんな事してたんだ……」
 明日美がバツの悪そうな顔をして照れ笑いをしている。ひとつ結びを下ろした明日美はすっかり大人の女性になっていた。
「それを言うなよ。このガキにしか見えないアイテム嫌いなんだ、俺」
 垢ぬけた明日美を目の前にして、小学生の皐月は猛烈なコンプレックスに襲われた。自分が明日美と不釣り合いな子供であることを思い知らされ、泣きたくなってきた。気が緩むと涙が出そうな気がするので表情筋に力を入れていると、明日美が近付いてきて軽くキスをした。親指でサッと唇についた口紅を拭った明日美は優しく微笑んでいた。
「もうすぐ私よりも背が高くなるね。早く大きくならないかな~」
「小さい子供の俺が好きだったくせに」
「ふふふ。気が変わったのよ。今は早く大きくなってほしい。でも今の成長過程の皐月も好きよ」
「なんだか中途半端じゃない? 今の俺って」
「そんなことないよ。皐月は今が一番輝いている。それに将来が楽しみでいいじゃない」
 穏やかに微笑んでいる明日美だが、皐月はそんな明日美に強さと妖艶さを感じた。明日美こそ今までと別人になったように見えた。
「そのランドセル姿の写真、撮っちゃおうかな」
「うわ~っ、意地悪なこと言うなぁ……」
「いいじゃない、可愛いんだから。私の宝物にするから撮らせてよ」
「んん……。じゃあいいよ」
「ありがとう」
 撮った写真を見せてもらうと、自分がすっかり大きくなっていることを知った。ランドセル姿は恥ずかしかったけれど、ランドセルが似合わなくなった自分は確かに少し格好良くなっているような気がした。

 急な階段を気をつけて下り、明日美は階下にいる老芸妓ろうげいこ京子きょうこに帰りの挨拶をした。
「お母さん、心配かけてごめんなさい。皐月が休ませてくれたから、すっかり元気になりました」
「そうかい。そりゃよかった」
「これからはもう少し自分の身体をいたわるようにします」
「そうだよ。命あっての物種って言うからね。具合が悪かったら隠さずに言うんだよ。知らずにあんたに無理をさせちゃうようなことはしたくないんだからさ」
「はい。私もこれからは無理するのはやめたいなって考えるようになりました」
 京子の目に安堵の色が見えた。親が子を心配しているような顔をしている。皐月は京子の心配がこれほど深いものだとは思っていなかった。
「これからは仕事を選んでいかないといけないねえ。少し仕事を減らすよ。いい?」
「はい。わかりました」
「おや? 私はてっきりあんたに怒られるかと思ったよ」
「そんな……怒るわけがないじゃないですか。お母さんが心配してくれてるのに」
「よく言うよ。いつもはもっと仕事を入れろって言ってるくせに」
 すっかりいつもの京子と明日美に戻っていた。皐月はずっとこの二人のことを親子みたいだと思ってきた。それは明日美の師匠が京子だからなのだろう。母と師匠の和泉いずみの関係もこんな感じだ。
「もうそういう生き方はやめようって思って……。なんだか急に長生きしたくなっちゃって」
「そりゃいいことだ。あんたもようやくそんな風に考えられるようになったんだね……。明日美、私みたいなババアより先に死んだら許さないからね。あんたみたいないい娘は幸せにならなきゃ駄目なんだから」
「はい。ありがとうございます」
 皐月は明日美と京子の会話に驚いた。明日美の病気がそこまで深刻なもので、今でも注意が必要なものだとは思っていなかったからだ。検番に来て京子から明日美の病気のことを聞くまでは、皐月は明日美がすっかり完治したものだと思っていた。

「明日美が前向きに生きようって思うようになったのは、皐月、あんたのお陰かもしれないね」
「えっ? 俺?」
 暗い気持ちになっているところに突然京子に褒められて、皐月は戸惑った。これは依頼を成し遂げた以上の高い評価だ。
「明日美はあんたに甘いからねえ。このは私の言うことなんて聞きやしないのに、皐月の言うことなら聞くみたいだから」
「え~っ、私、お母さんの言うことちゃんと聞いてるでしょ?」
「確かにあんたは私の言いつけをきちんと守るいい子だよ。でもね、絶対に私の言うことを聞かないこともあるだろ? こっちは心配してんのにさ」
「そんなことあったかな……」
「あったなんてもんじゃないよ。あんたは私が頑張り過ぎって言っても頑張るし、休めって言っても休まないじゃないか」
「ああ……ごめんなさい。私、それあまり本気にしてなかったわ。てっきりお母さんの口癖かと思ってたから」
「嫌だね、この子はもう……」
 京子に軽く頭をはたかれた明日美は笑っていた。皐月には京子の明日美を見る目がとても優しく見えた。明日美の京子に甘える感じも良かった。
「あんたの頑張り方は危なっかしくて見てられなかったんだよ」
「もう大丈夫だから心配しないでね、お母さん。これからはちゃんと休むから。でも休み過ぎると仕事したくなくなっちゃいそうで怖いな……」
「そうなったら芸妓をやめちゃえばいいんだよ。あんた、高卒認定試験を受けるんだろ? 合格したら大学受験だってできるじゃないか。まだ若いんだから何でもやりたいことをやればいいんだよ」
「芸妓はやめないよ、お母さん。それに大学だって行くかどうかわからないし……」
「大学生になったら、バイトで芸妓を続けてもいいんだよ」
 皐月は明日美のプライベートに踏み込んだ話を初めて聞いた。明日美が高卒認定試験を受けるとはどういった意味なのか。どうして明日美が大学受験をするのか。どうして明日美が芸妓をやめてもいいと京子が言うのか。
「ねえ……俺、二人が話していることの意味がわかんないんだけど……」
 不安げに聞く皐月の頭を明日美が優しく撫でた。
「私ね、中卒なんだ」
「えっ、それ本当?」
「うん。中学時代は不登校だったから、高校には行かなかったの。でも勉強は好きだから、いつかもう一度、勉強をやり直したいなって思うようになってね。それで高卒認定試験を受けることにしたの」
 明日美が中卒なのに皐月は驚いた。明日美が英語を勉強していて、仕事で役立っていることを知っていた。普段の会話でも他の芸妓と比べて知性を感じていたので、てっきりいい学校を出ているのかと思っていた。
「芸妓をしながら勉強するのって大変じゃない?」
「そうね。通信制高校に進学すれば私は高卒資格が得られるんだけど、最低3年間は在学しなきゃいけないのがね……今から3年は私には長すぎるかな」
 皐月は通信制高校のことや高卒認定試験については何も知らない。定時制高校というものがあることは知っていたけれど、それがどんな学校なのかも皐月にはわからない。
 明日美は高校生としての常識的な知識を身につけたいのではないか、と皐月は想像した。中卒の明日美は、今一緒に住んでいる及川祐希おいかわゆうきのような、普通の高校生程度のバランスのとれた学力に憧れているのかもしれない。
「高卒認定試験だと受かっても高校を卒業したことにはならないんだって。私は勉強をしたいだけだから、それでもいいと思ってたんだけど、りん姐さんは学歴にこだわった方がいいよって言うの」
「私が明日美に提案したんだよ。明日美が病気で倒れちゃったからね、芸妓以外の未来も考えてみたらどうかってね。凛は真理まりの教育に熱心だから、何かいいアドバイスがもらえるんじゃないかと思って相談したんだよ。そうしたらとりあえず高卒の資格を得たらどうかって言うんだ」
「お母さんからその話を聞いた時、私びっくりしちゃった」
「この娘はまだ若いし、賢いからね。本当に若かった頃から芸妓をやってきたから、明日美には見える世界を広げてもらいたいって思ったんだよ」
「凛姐さんはね、通信制高校が嫌なら高卒認定試験を受ければいいって言うの。それで高卒認定試験に受かったら大学に進学すればいいって勧めてくれたの。大学に行けば好きな勉強を専門的にできるし、最終学歴も大卒になるよって。私、自分が大卒になる未来なんて今まで考えたこともなかった」
 皐月にはまだ遠い将来の進路の話だが、明日美にとっては失われた過去を取り戻す話だ。よくわからないけどいい話だな、と思った。
「じゃあさ、もしかしたら俺と明日美が大学で同級生になるかもしれないね」
「皐月と同級生か……。そうなると7年後になっちゃうね。私が先に大学生になって、皐月を後輩として迎えてあげようかな。ふふっ」
 夢のような話だな、と思った。色々なことがあり過ぎて、今日あった出来事がすべて幻のような気がしてきた。このぼんやりした不安を解消するために皐月は京子に触れて、この世界の現実感を確かめたくなった。
「なんだい、急に。肩なんか凝ってないよ」
「そうみたいだね」
「今日はありがとうね」
 京子の身体は小さかった。皐月の祖母は太っていただけに、京子の華奢きゃしゃな体つきが際立っているように感じた。


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