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一人で食べる夕食には戻れない (皐月物語 76)

 江嶋華鈴えじまかりんと別れた藤城皐月ふじしろさつきが家に帰り着いたのは、夕食の準備が出来上がる頃だった。母の小百合さゆりは今日も芸妓げいことしてお座敷に出ているので、住み込みの及川頼子おいかわよりこが夕食の用意をしている。頼子の娘の祐希ゆうきはまだ高校から帰っていない。
 玄関に置きっぱなしにしていたランドセルを二階の部屋へ持って行き、皐月は台所に戻って頼子の手伝いをしようと思った。頼子が家に来るまでは母の家事の手伝いをしたことがなかった皐月だが、他人の頼子に食事の世話をしてもらっているという負い目から家事の手伝いをせずにはいられなくなった。だが頼子が完璧に家事をこなしているので、皐月が手伝えることはいつだって何もない。
「さっき家に来た女の子、良さそうな子だったわね」
 祐希が帰宅するまで時間に余裕ができた頼子が皐月に雑談を持ちかけてきた。自分の話すことは全て母に筒抜けになることを前提に言葉を選んで話さなければならない。スパイに対するような警戒感を持つわけではないが、少し気をつけるという程度だ。
「江嶋はいい子だよ。あいつは優等生だ」
「そういえば児童会長をしてるって言ってたわね。生徒からも先生からも信頼されてるんでしょうね。私が小学生の時の児童会長は男の子だったけど、頭がよくてスポーツもできて人気者の子だったわ」
「江嶋はそんなスペックの高い奴じゃないけどね。でも優しくて強い子だよ。いじめとか許さないタイプ。もっともあいつの場合、よく気がつくからいじめになる前に芽を摘んじゃうけどね」
 華鈴のことを話している時、皐月は5年生の時の同級生の野上実果子のがみみかこのことを意識していた。昼休みに図書室で華鈴と実果子が仲良く話していたのを見て懐かしい気持ちになった。その後、放課後に修学旅行実行委員会でまた華鈴と会い、一緒に家に帰って華鈴の家にまで行ってしまった。

 皐月が5年生の時、華鈴と実果子と同じクラスだった。1学期の間は皐月と二人と席が近くにならなかったので、皐月は彼女らと話す機会がほとんどなかった。
 華鈴は優等生で、当時の担任の先生の北川から全幅の信頼を置かれていた。対照的なのは実果子で、宿題などの提出物をよく忘れ、テストの成績も悪く、髪を脱色していてたので北川からは目をつけられていた。
 実果子は一時期、荒れていたことがあって、一部の女子のグループとよく諍いを起こしていた。交流のない皐月にはその理由がわからなかった。その頃の実果子の印象は、怒ると怖い女でちょっと近寄り難いといった感じだった。
 ある時、実果子たちの喧嘩が口論から暴力沙汰に発展したことがあった。先に手を出したのは実果子で、やられた方は反撃せずに教室を逃げ出して、職員室から先生を連れてきた。
 北川は一方的に実果子を叱るようなことはしなかった。実果子が何も言い訳をしないで黙っていたので、北川は女子グループの話しか聞くことをできなかった。北川は実果子に対して手を出したことだけはきつく叱ったが、このトラブルが親には伝わらないようにその場で治めたので大事にはならなかった。
 この事件以降、実果子はクラスで孤立した。女子からは無視され、最初から距離を置かれていた男子からも相手にされないようになった。実果子は教室内では常に一人でいるようになり、給食の時も同じ班のメンバーはその場に実果子がいないかのように振舞った。
 クラスから存在が消されたかのような実果子だが、華鈴だけはよく実果子に声をかけていた。実果子の持ち物がよくなくなるようになったので、実果子が席を離れた時などに、華鈴が実果子に内緒で実果子の机やロッカーに目を光らせるようになった。そのせいで華鈴は自分の友人関係を犠牲することになったが、実果子へのいじめを未然に防ぐことができた。
 その間、皐月は実果子のことを注意深く観察していた。5年生になって女子同士の激しい喧嘩を初めて見た皐月はただ驚いていたが、クラスメートから手を出した実果子が一方的に悪者にされたことに納得がいかなかった。特に女子の実果子への対応を見ていると、皐月は実果子に肩入れしたくなっていた。
 華鈴が実果子のことを気にかけていることは皐月も気がついていた。皐月も華鈴にならって実果子に声をかけてみたが、実果子は皐月のことをまともに相手にしようとしなかった。懲りずに何度も実果子に話しかけていると実果子と対立していた女子から非難され、しまいには皐月はクラス中の女子から総スカンを食らうようになっていた。それまで女子と仲良くしていた皐月には悲しい展開になってしまった。

 2学期最初の席替えは5年3組に波乱を起こした。担任の北川はくじ引きによる席替えをやめ、先生が独断で席を決めて児童が従うように変わった。それ以降の席替えの全てで皐月は廊下側の最前列で実果子と隣の席になり、すぐ後ろの席に華鈴がきて、華鈴の隣と後ろ二人は外国人が座るようになった。この6人の班は5年生が終わるまで固定された。
 クラスの女子からは「あの班は隔離された」と陰口を言われていた。北川がクラスの異端分子を一カ所にまとめ、そのまとめ役を華鈴に押し付けたと皐月は思っていたが、華鈴まで女子から排除されていたことに皐月は3学期の終業式まで気が付かなかった。
 その頃、今度は華鈴がクラス内で孤立し始めていたようだ。華鈴の場合、実果子のように力を示さなかったので、影口や無視からいじめに発展しそうになったが、華鈴の代わりに実果子が力で威圧したので大事にはならなかったらしい。その流れで二人はクラスの女子の間で浮き上がるようになっていた。そんなことがあったなんて皐月は全然知らなかった。
 皐月は席の近くなった実果子や華鈴に能天気に話しかけていた。それまで皐月はは実果子のことを気難しく怖い奴だと思っていたが、話をしてみると口は悪いけど明るくて優しい子だということがわかった。
 華鈴は日本語が不自由な外国人三人をよく面倒を見ていた。北川の取った措置は厄介者の排除だったのかもしれないが、この6人の班は5年生が終わるまで穏やかに過ごすことができた。

「皐月ちゃんはその江嶋さんって子のこと好きなの?」
 頼子がいきなり踏み込んだことを聞いてきた。顔を見ると軽い気持ちで聞いてきただけのように見えるが、この後で母の小百合や娘の祐希まで話が伝わることを考えると滅多なことは言えない。
「えっ? そりゃまあ、好きだけど……。いい子のことを嫌いになる理由なんてないじゃん」
「そうか……そうだよね。いい子はいい子のことが好きだよね」
 頼子はにこにこしながら頬杖をついて皐月の顔を見ている。齢の割に子供っぽいな、と皐月は気持ちが楽になった。
「江嶋ってね、今日自分で晩御飯作るんだって。親子丼」
「へ~、まだ小学生なのに料理ができるのね。偉いわ。でもお母さんはご飯を作ってくれないのかしら?」
「うちと同じで、御両親が夜働いているんだって。6年生になって、江嶋がお母さんに一人で何でもできるからって言って、それでお母さんもお父さんの仕事を手伝うようになったって言ってた。中華料理の店をやってるらしいよ」
「そうなの……小学生が夜一人だなんてよくないわ。でも家庭の事情でどうにもならないこともあるから、辛いところね」
 夜の仕事がある以上、かつての皐月や現在の江嶋華鈴、栗林真理くりばやしまりのようない家はたくさんあるのだろうと思うと、皐月は同じ境遇の子にエンパシーを感じざるを得ない。
「うちは頼子さんのお陰で俺が一人にならないで済んでる。ありがとう」
「私の方こそ小百合に呼んでもらって、毎日楽しく過ごせるようになったわ」
 皐月は頼子の言う「辛い」が気になった。華鈴は本当に辛いのか? 皐月は祖母が死んだ後、頼子が来るまでは夜を独りで過ごすことが多かったが、決して辛くはなかった。今の真理もそうだ。辛いというよりはむしろ伸び伸びとしている。小学6年生は大人が考えるほど子供ではない。
「一度彼女のご両親の中華屋さんに食べに行ってみたいわね」
「俺もそう思ったけど、車じゃないと行けない所に店があるんだって。タクシー使って行くわけにもいかないし……」
 今日の晩ご飯は麻婆豆腐だ。目の前に頼子の作った中華料理があるのにお店の中華料理を食べたいだなんて言えないので、気のない素振りを見せた。
「皐月ちゃん、料理のできる女の子はいいわよ~。男の人は女の人に胃袋を掴まれたら離れられないって言うから」
「そうだろうね。頼子さんのご飯を毎日食べさせてもらっているから、ほんとそう思うよ。でも頼子さんは御主人と別れちゃったよね? どうして?」
「恥ずかしい話なんだけどね……他に好きな人ができて、私のもとから離れて行っちゃった」
 サバサバ話す頼子が皐月には不思議だった。母に離婚の原因を聞いた時も同じことを言われたが、その時はこれ以上何も聞くなと言わんばかりの態度を取られた。皐月は両親が上手くいっていなかった期間、母の芸妓の師匠の和泉いずみの家に預けられていたので、この家で母と父の間にどのような修羅場が展開されていたのかを知らないし、聞かされていない。
「その元旦那は頼子さんに胃袋を掴まれていなかったの? 頼子さんのご飯おいしいのに」
「私は旅館で働いていたから時間が不規則でね、あまり奥さんらしいことができなかったの。それに私の料理、そんなに絶賛されるほど美味しくないのよ。だから仕方ないわね」
 皐月は余計なことを聞いてしまったと後悔した。本当はただ頼子の食事に感謝していることだけを伝えたかったのに、離婚の原因を追及するようなことになってしまった。
「皐月ちゃんは女の子とこと泣かせちゃダメよ」
「うん……」

 皐月は気まずくなって自分の部屋に戻ることにした。祐希が帰宅するまで食事を待たなければならない。祐希が遅くなるようなら頼子と二人で夕食になるが、特に何も言われなかったのでもうすぐ祐希は帰ってくるのだろう。
 ランドセルの中のものを机の上に出すと図書室で借りた『るるぶ』が出てきた。これは同じ本を自分で買って、借りている本を明日返却するつもりだった。夕食までの時間に本屋まで行って買ってこなければならない。スマホと財布を手提げ袋に入れ、慌てて階段を下りた。
「頼子さん、ちょっと本買いに行ってくる。すぐ戻るから」
「もう暗いから気をつけてね」
 玄関を出るとすでに陽が落ち、夜の帳が下りていた。小百合寮の行燈あんどん看板には明かりが灯っている。家の前の路地にあるスナックの電飾スタンドや焼肉屋『五十鈴川』の照明が細く暗い路地を優しく照らしていた。
 皐月は駅前大通りのスクランブル交差点を渡って書店まで急いだ。もしかしたら自分の同じことを考えている奴がいるかもしれない。皐月は自分の思いついたことは他の誰かも気がつくはずだといつも不安になる。
 書店に入り、旅行ガイドのコーナーを見ていると誰にも買われていない『るるぶ』が皐月を待っていた。書店の『るるぶ』は学校の古いものと違い、誌面がより華やかだった。
 文庫本のコーナーに行くと華鈴の部屋で見た太宰治の『人間失格』があった。図書室で探していた川端康成の『雪国』もあった。古本屋の竹井書店には『雪国』は置いてなかったが『人間失格』ならあるかもしれない。今ここで新刊を買うか、古本屋で安く買うかは悩みどころだ。少ない小遣いで新刊を買うのは『るるぶ』を買う今の経済状況ではきつい。それに修学旅行が終わるまでは本を読む暇がなさそうなので、今日は本を買うのをやめることにした。
 家に帰り玄関に入ると祐希の靴があった。皐月のいない間に帰宅していたようだ。台所を覗いてみると頼子が餃子を焼いていた。
「ただいま」
「お腹すいちゃったね。もうすぐ御飯ができるからね」
「配膳手伝うよ」
「ありがとう。じゃあできたものから持ってって」
 皐月はトレーにグラスと烏龍茶、各種調味料を載せて居間へ運んだ。台所に戻る時に階段から祐希が降りてきた。
「あれ? 皐月、お手伝いしてるんだ。私も手伝うよ」
「じゃあご飯装ってよ。俺は麻婆豆腐まーぼーどうふをよそうから」
「はいはい。皐月は大盛りね」
「普通でいいよ、普通で」
 一人で食事をしていた頃はこんな何気ない会話もなかった。まだ頼子や祐希に気を使いながら暮らしている皐月だが、家族以外の人とでも一緒に食事をする生活は悪くない。
「ちょっと祐希、それ盛り過ぎ!」
「男の子ならこれくらい食べられるでしょ。どうせお代わりするんだからいいじゃない」
 華鈴は今頃一人で親子丼を食べているのだろうか……そんなことを思うと、皐月は初めて今の生活に馴染む前の自分が本当は寂しかったことに気が付いた。華鈴だって絶対に寂しいはずだし、勉強しながら一人でご飯を食べている真理も同じだと思う。もしかしたらこの家に来る前の祐希も同じ思いだったのかもしれない。
 今の暮らしが始まってまだ一月ほどしか過ぎていないが、皐月は今さら元の生活に戻れる気がしなくなっていた。お互いに赤の他人だからまだぎこちないところがあるが、この奇妙な関係がいつまでも続くことを皐月は望むようになっていた。


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