情緒不安定な夜 (皐月物語 48)
今夜は涼風が気持ちがいい。マンションの渡り廊下から見える満月が妖しく美しい。藤城皐月が栗林真理の家に来るのは、夏休み最終日以来のことだ。
「今日、お母さん帰ってこないんだって」
玄関を入り、扉を閉め、鍵をかけると真理が言った。
「うちの親、そんなこと言ってなかったぞ」
真理は皐月のことを見つめたまま押し黙っている。真理の瞳は少し潤んで光っていた。
この日のお座敷は大きくて、皐月の母の百合や真理の母の凛だけでなく、豊川の芸妓衆の全員が呼ばれている。百合は皐月に、今日は遠方のお座敷なので帰りが遅くなると言っていたが、泊まりになるという話はなかった。
皐月は真理の言葉をずっと待っていた。だが、真理は何も話す気がなさそうだ。真理の表情が愁いに沈んだのを見て、皐月はようやく気がついた。
「……あぁ、そういうことか」
「……うん」
真理が動かずに皐月のことをじっと見ているので、皐月が先に部屋に上がり、リビングのソファーの、前に来た時と同じ場所に腰を下ろした。真理はリビングには来ないでキッチンに入った。
少し大きめの音量で音楽が流れ始めた。前来た時は静かなインストゥルメンタルだったが、今日は一変してサイケデリックトランスだ。今流れている情熱と哀愁に溢れた曲は MIGMA SHELTER の『Coro Da Noite』だ。この曲は真理の家で動画を見ながら二人で歌いまくった時、皐月が真理に今一番好きな曲だと教えたものだ。
珈琲の香りがキッチンから漂ってきた。ドリップしているようなので、真理が来るまでまだ時間がかかると思い、皐月はソファーで横になった。この部屋は白く無機質で、皐月の部屋の昭和レトロな感じとは別世界だ。真理の家の天井を眺めていると、天井板を羽重ね張りで張った皐月の部屋のイナゴ天井とはまるで違うので、余所の家にいる居心地の悪さを感じる。だが目を閉じるとラテン系のトランスのグルーヴと相まって、皐月は外国のホテルに来たような高揚を感じ始めていた。
真理が珈琲をトレーに乗せて運んで来た。コンビニで買ったスイーツの他にショートケーキもあった。
「ケーキもあるの? そんなに食べられるかな……」
「皐月が食べられないんだったら、私が2つ食べる」
「太るぞ、そんな無茶したら」
「いいよ。皐月に無理強いしたくないし」
「ケーキがあるんだったらスイーツなんて買わなきゃよかったな。これはさすがにちょっと多い」
「そんなこと言わないでよ。私も冷蔵庫開けるまでケーキがあるって気がつかなかったんだから。お母さんって後ろめたいことがある時、ケーキやお菓子を買う癖があるんだよね。忘れてた」
「もうちょっと賞味期限が長い食い物だったらよかったのにな。でもこのコンビニスイーツ、賞味期限が明日だから朝に回せばいいんじゃないか?」
「じゃあそうする」
真理の淹れてくれた珈琲を飲むと別腹スイッチが入ったのか、多いかもと思っていたケーキでも余裕で食べられた。レアチーズケーキはいつもなら自分では選ばないけれど、食べてみるとこれはこれで美味しい。
「MIGMA SHELTER 気に入ったんだ」
「うん。このグループの曲って、聴きながら勉強するとなんか調子いいんだよね」
「本当に? こんな BPM の高い音楽聴きながらなんて、よく勉強できるな。ちゃんと勉強したこと頭に入ってるの?」
「暗記系はしないよ。作業系だけね。普段は音楽聴きながら勉強なんてしないんだけど、たまたまダルい学校の宿題を音楽聴きながらやったら楽しくて、思ったより苦痛じゃなかったの。それで試しに聴きながら受験勉強もしてみたら想像以上にいい感じでね。でも国語の読解問題だけはさすがに無理だった」
「へ~そうなんだ。今度俺も試してみようかな」
「なんなら今試してみる? 一緒に勉強しようか」
「いや、今はいいよ。お腹一杯でそんな気分じゃないし。それよりいいのか? 俺がいたら勉強の邪魔じゃないのか?」
「今日はいいの。もう勉強したくないから、やらない」
皐月はパピヨンで勉強中だから邪魔するなと言われたことにショックを受けていた。だが今は嬉しそうに一緒に勉強しようと誘っている。美味しい物を食べて勉強のやる気が出てきたのかと思ったが、勉強はしたくないと言う。
「サボりかよ。真理でも俺みたいに怠惰に流されるんだな」
「まあね。言っとくけど私、もともと努力とか超苦手だし、嫌いだから。勉強なんて、そもそも私のキャラじゃないって」
「まあそうだったよな、昔から。真理から塾に行くって聞かされた時、俺ビックリしたもん。気が狂ったのかと思った」
「ひどい!」
「でもそんな真理が受験勉強続けてるんだから、すごいよな。偉いなって思うよ、マジで」
「皐月が思ってるほど頑張ってないよ、私」
「でも俺は真理、頑張ってると思う」
「ほんと?」
「うん、本当」
真理が締りのない顔でデレデレしている。学校では絶対に見せない顔だ。真理は勉強ができて愛嬌があまりないので、小学校ではみんなからすっかりクールなキャラだと思われている。子供の頃から真理のことを知っている皐月にしてみれば、真理がクールだなんて笑ってしまう。我儘で甘えん坊ですぐに泣く。最近の真理にはもう、昔の面影を見出すことはもうなくなっていた。
「今の席になってから学校で明るくなったよな、真理って」
「そんな言い方されると、まるで今まで暗かったみたいじゃない」
「だってお前、勉強ばっかしててクラスの子と全然馴染んでなかったじゃん。陰キャ丸出しだったぞ」
「陰キャって言うな!」
真理の左フックが飛んできた。ソファーの向いに座っているので届くわけがないが、身体を傾け、右腕でガードする振りをした。次に右ストレートを打ってきたので、殴られる真似をして吹っ飛んだ。
「今の席は絵梨花ちゃんがいてくれるからかな。やっぱり受験仲間が近くにいると落ち着く」
「二橋さんって真理と同じ学校を目指してるの?」
「ううん、絵梨花ちゃんは私みたいに高望みしないで、比較的入りやすいお嬢様学校しか受けないんだって。バイオリンも習っているから、受験に全力を注いでいるわけじゃないの。まあそれでも私より勉強頑張ってると思うけど……。もし絵梨花ちゃんが本気で受験勉強したら、絶対にもっと上を目指せるよ」
真理は珈琲を飲みほし、サーバーに残った珈琲をカップに注いだ。
「真理もそのお嬢様学校受けるのか?」
「受けるよ。第一志望がダメでもどこかの女子校に行きたいから、受けられる女子校はできるだけたくさん受けようと思ってる。全部落ちたら私、死ぬかも」
6年になってから弱音を吐くことが多くなったが、真理からここまで重い言葉を聞いたのは初めてだった。
「死ぬとかそんなこと言うなよ。落ちたら俺と一緒に地元の中学に行けばいいじゃないか」
カップに口をつけようとした真理の手が止まった。
「一緒にって皐月、中学受験しないの?」
「……ああ……やっぱしない」
思わず「しない」言ってしまった。こんな形で自分の決めかねていた気持ちを言ってしまうことになるとは思っていなかったので、皐月は自分の言葉に狼狽した。本当はもう少し勉強をやってみて、それからしっかりと進路を考えるつもりでいた。それなのにまだイメージがはっきりしなかった自分の未来を、真理の悲痛な呟きによって表に引き出されてしまった。
「なんで? 皐月はてっきり受験する気になっていたのかと思ったのに……」
「そう考えていた時もあったよ。でも真理に借りた参考書で勉強してたら、ちょっと今の俺には難し過ぎて……。だからもっと簡単そうな本で勉強を始めてみたんだけど、やっぱり量が多くて。残された時間を考えると、もう間に合わないかなって……」
これは自分の気持ちのほんの一部だ。本当はもっと複雑な要素が絡み合っている。皐月はまだそれらを心の中で整理できていない。ぼんやりとした状況判断のまま、剥き出しの思いが言葉になって溢れ出てしまった。
「あのね、別にテストで満点取らなくたっていいんだよ? 合格最低点だけクリアすればいいの。それに偏差値が低い学校だったら、今からでも頑張って勉強すれば間に合うから。絶対に地元の公立よりもいいって」
「うん、わかってる。……でも、やっぱりおれには無理っぽい。……悔しいけど。だから真理が受験勉強を頑張ってること、凄ぇなって心から尊敬してる」
「もうっ、なんで簡単に諦めるかなっ!」
ソファーから身を乗り出すように腰を浮かせた真理は、乱暴に自分の身体を背もたれに投げ出した。
「尊敬なんてしてくれなくていいから、皐月も受験勉強頑張ろうよ」
「……悪いけど、俺には真理みたいに勉強頑張れないよ」
「頑張れるよっ! あと4カ月ちょっとじゃん。一緒に頑張ろうよ」
「だってどうせ勉強頑張っても真理の同じ中学に行けないんだろ、お前女子校行くんだし」
「同じ中学に行けなくても、一緒に名古屋に通えるでしょ」
「友達が一人もいない学校なんてつまんないじゃん。それにやっぱ俺、聡や秀真や比呂志と同じ学校に行きたいよ。例えクソみたいな学校でも、友達と同じところがいい」
「友達だったら新しい中学でまたできるよ」
「そういう問題じゃない。あいつらは特別なんだよ」
「特別な友達なら、別々の中学に行っても今まで通りずっと友達だよ」
「だったら真理と違う学校に行っても、俺たちは今まで通りずっと友達だよな?」
「そんな論破するようなこと言わないでよ……」
「ごめん……」
不機嫌そうに立ち上がった真理はリビングを出ていった。皐月の思っていた以上に真理は皐月に中学受験をさせたがっていた。そしてその理由が公立回避だけではないということもわかった。だが、真理の気持ちの本当のところはまだ確信が持てない。
真理がペットボトルに入ったジャスミンティーとグラスを二つ持って来た。皐月の正面ではなく隣に座り、ペットボトルを皐月の目の前に置いた。皐月が真理のグラスにお茶を注ぐと、真理は一気にお茶をあおった。
「バカな飲み方するなよ。それじゃまるでヤケ酒みたいじゃんか」
「稲荷中に行ったら美耶ちゃんとまた一緒になれるね。良かったじゃん」
「はぁ?」
「本当は美耶ちゃんと同じ中学に行きたいんでしょ?」
「何言ってんの? 筒井なんて関係ないだろ?」
「皐月って最近モテてるみたいだよね。月花君のファンクラブの子、少し皐月に流れているみたいだよ」
「そんなの知らんわ。お前の妄想じゃね?」
「そんなことない。だって私、聞いたもん、トイレで話してるの。皐月が髪型を変えてから好感度が上がったんだってさ」
「ふ~ん。でもそれって別にモテてるわけじゃない。……で、誰が言ってたんだ?」
「そんなの言えるわけないでしょ」
「なんだ、ケチ! 教えてくれたっていいだろ?」
「あんた自惚れたいの? その子たちのこと知ってどうしようっていうの?」
「そんなの、どうもしないけどさ……まあ、ちょっとくらいはそいつに優しくしてやろうかなって……」
「バカじゃないの?」
「なんだよ、バカって。だったらそんな話するなよ」
「あんたが調子に乗ったこと言ってるからバカって言ったのよ!」
脇腹を軽く殴られた。二人が子供の頃、皐月が真理によくやったことを今やり返された。二人がお互いの家を行き来しなくなってからはこんな風にじゃれ合うこともなくなっていた。
「5年生の千智ちゃんって子、皐月あの子と付き合ってるの?」
懐かしさを感じていた皐月とは違い、真理は執拗に絡んでくる。
「付き合ってねえよ。ただの友達だよ」
「この前、昼休みに5年生の教室まで会いに行ったでしょ。結構話題になってたよ」
「なんでそんなしょーもないことが話題になるんだよ」
「あの子可愛いから有名なのよ。それに最近、皐月とあの子が二人でいるところを見たっていう子もちらほらいるみたいだし」
「別に見られたって構わないけどさ。コソコソするつもりもないし」
「なに交際宣言みたいに格好いいこと言ってんのよ。じゃあ美耶ちゃんはどうするの?」
「どうするのって、どうもしねーよ。なんで筒井の話になるんだ?」
「だって美耶ちゃんって皐月のこと好きじゃない。皐月がモテたら可哀想だなって……」
真理がひきつった顔で泣きそうな顔をして目を潤ませている。
「どうしたんだよ、真理。今日のお前、ちょっとおかしいぞ」
本当に今日の真理はおかしい。今まで他の女子を引き合いに出して、ここまで感情的になったことはなかった。どちらかといえば真理は皐月が他の女子と仲良くしていることには無関心だと思っていた。
「……今日だけじゃないよ。お母さんが泊りの時は大抵おかしくなってるよ、私。自分でも嫌になるくらいメンタルがおかしくなる」
真理は皐月から顔を背けるようにうなだれている。
「そんな時は俺に声を掛けてくれたら良かったのに」
「皐月に何ができるって言うの?」
「何がって……わかんないけど、真理のそばにいることくらいならできるよ」
「じゃあ、泊ってってよ」
「えっ?」
真理が皐月の方に顔を向け、身体を寄せてきた。
「泊ってってって言ってんの。昔よくお互いの家にお泊りしてたよね」
「……ああ」
「だからさ、今日は家に泊まってよ。ねっ」
穏やかな目をしていた。もう感情の揺れは消えている。こんな美しい真理の顔を見たのは初めてだった。このままずっと見つめていたくなり、皐月は真理の言葉に何も返す気が起こらなかった。もう一度真理に返事を促されたら何か答えようと思ったが、真理も何も言おうとしなかった。
最後まで読んでくれてありがとう。この記事を気に入ってもらえたら嬉しい。