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漣(皐月物語 127)

 藤城皐月ふじしろさつきは二日続けて学校帰りに明日美あすみの家に通った。前の日はただ明日美に甘えるだけで家に帰ってしまったが、この日は二人でベッドで横になりながら小説を読んで過ごした。
 皐月は太宰治の『人間失格』を読んでいた。再読だった。後ろの席の文学少女、吉口千由紀よしぐちちゆきに「葉蔵ようぞうみたいだね」と言われたことがずっと気になっていた。皐月は自分のどこがの主人公の大庭葉蔵おおばようぞうと重なるのかを探ろうと、もう一度『人間失格』を読み返してみようと思った。
「高校では国語の授業で漱石を勉強するんだよね」
 明日美は夏目漱石の『こころ』を読んでいた。高校に進学しなかった明日美は高校生の標準的な教養を身につけたいらしく、今は高等学校卒業程度認定試験に向けて勉強中だ。皐月は明日美の聡明さを知っているので、物ごころのついた頃からずっと尊敬している。明日美のことは自分の知っている大人と比べても知的レベルに遜色がないどころか凌駕しているとさえ思っている。
 皐月の横で本を読んでいた明日美が、漱石の本を投げ出して口づけをした。
「飽きちゃった?」
「本なんか一人の時に読めばいいでしょ?」
「二人で読むからいいのに」
「でも皐月はすぐに帰っちゃうでしょ?」
 ベッドで布団にもぐって本を読んでいたので性的な誘惑は常にあった。二人の体が布団の中で温まっていたが、明日美の口づけで皐月の体は一瞬で熱くなった。激情が走った。昂る気持ちを抑えつつ、みちるに教わった通り、肩口から腕へと柔らかく手を這わせた。だが女が女を愛撫するような行為はもどかしく、皐月には焦れるだけだった。
 寝室の数少ないインテリアの掛け時計を見ると、帰らなければならない時刻までそれほど残されていないことがわかった。時が経つのを忘れられる機会がくるまでは、これ以上を望むことができない。今の皐月には丁寧に明日美の反応を確かめることしかできない。それは官能に耽溺たんできできない理性的な行為だった。
「皐月は優しく愛してくれるんだね」
 耳たぶから口を離した皐月はそのまま明日美を背中から抱きしめた。
「明日美はさ……壊れないように大切に扱わないと死んじゃうかもしれないだろ?」
「このまま死ねたらいいんだけどね」
「ばか……」
 明日美の望み通り殺してやろうかとも思い、深く口づけた。舌を吸いながら服の上から胸に手を這わせると、明日美が激しく反応した。満の「焦らないで」という言葉が去来した。女をまだよく知らない皐月は呪いがかかったように賢者に引き戻され、衝動に任せて明日美を貪ることができなかった。

 この日の夜も皐月は修学旅行の京都での班行動に備えて下調べをしていた。訪問先に関する情報を集め、話のネタになりそうなことをテキストファイルに列挙していた。神社仏閣の由緒や因縁は調べれば調べるほど奥が深い。情報を取捨選択してまとめることを考えると、もっと早くから準備をしておけばよかったと後悔した。旅行前日の明日中に集めた情報を覚えてしまおうと思っている。
「随分熱心に勉強しているのね」
「修学旅行の予習」
 風呂を上がった及川祐希おいかわゆうきが皐月の部屋に入ってきた。皐月の背後から肩に両手を乗せ、モニターの画面を覗きこんできた。皐月と祐希の対人距離が日ごとに近くなっている。だが、先にパーソナルスペースを侵犯するのはいつも祐希だ。そして入ってきた祐希を皐月がさらに奥まで引きずり込んでいる。
 ノートPCの画面には東寺とうじに関するウェブサイトと、情報を書き散らしたテキストファイルが開いていた。集中力がそがれるため、音楽は聴いていなかった。
「ふ~ん。皐月は真面目君なんだね」
 祐希からはトイレタリーの匂いだけでなく、体からもフェロモンが香り立っていた。背中に感じる祐希の体温が明日美の体を思い出させ、皐月が体が火照ってくるのを感じた。
「予備知識なしに旅行したってつまんないだろ?」
 皐月は知識が行動を楽しくするということを鉄道オタクの岩原比呂志いわはらひろしや、オカルト好きの神谷秀真かみやしゅうまとの付き合いの中で学んだ。皐月は修学旅行で訪れるところの知識を覚えておいて、同じ班のメンバーたちに現地で知識を披露しようと思っている。訪問先を深く知ることで少しでも深く記憶に刻み、修学旅行を楽しい思い出にしたい。
「皐月たちはこの東寺ひがしでらってとこに行くんだね」
「『ひがしでら』じゃなくて『とうじ』って読むんだ。清水寺きよみずでらは訓読みで読むのに、東寺は音読みなんだよね。寺の名前は音読みが基本なんだって」
 東寺は平安京の正門にあたる羅城門らじょうもんの東側にある古刹だ。皐月は東寺への参拝を熱望した二橋絵梨花にはしえりかと、芥川龍之介の『羅生門』を語り合った吉口千由紀よしぐちちゆきとの対話を楽しみにしながら、東寺のことを調べつつ、平安の都に思いを馳せていた。
 そこへ祐希が体を寄せてきた。明日美との逢瀬で燃え尽きることのできなかった皐月には祐希の風呂上がりの体は刺激が強過ぎた。
 皐月は猛りそうになる体を鎮めるため、いにしえの荒んだ平安京に意識を飛ばした。脳内のアバターは崩れかかった羅城門をくぐり、大内裏だいだいりに向かって広い朱雀大路すざくおおじの真ん中を歩いていた。周囲に人は誰もいなく、皐月はアバターが『羅生門』の下人のように行き場がなく途方にくれているのを俯瞰していた。
「どうして黙ってるの?」
 皐月は一瞬では空想の世界に入り込めなくて、しばらく祐希のことを放置していたようだ。
「ちょっと困っているんだ」
「何に困っているの?」
「俺は今、悪を実行したいと思っている。その勇気も生まれてきた」
「えっ? 私?」
 祐希は祐希と勇気を勘違いしていた。それは皐月にとって好都合だった。
「そう……俺は祐希に悪いことをしたくなっている。それを我慢しなければならないから困っているんだ」
「そんなの、私がいいって言えばいいんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど……」
「いいよ」
「えっ? いいの?」
「ふふっ。皐月って面白いね。格好つけて『悪を実行したい』とか言っちゃって。そういうところが好き」
 祐希は皐月のことを後ろから強く抱きしめて、何度も頬にキスをしてきた。自分のことを溺愛する祐希に、皐月は明日美から注がれた愛情に似ていると感じていた。安らぎと快感に身を任せていると、愛玩に飽きた祐希が動きを止めた。
「椅子邪魔」
 祐希は皐月の座っている椅子を回し、自分の方へ向きを変えて皐月の手を引いた。二人はベッドの上に倒れ込んだ。
「悪は実行しないの?」
「するよ」
 皐月は満の教えに背く野蛮なキスをした。唇を重ねるごとに祐希は積極的になっている。だが祐希にはまだ高校の同級生で、恋人の竹下蓮たけしたれんの癖が残っている。真理のように自分だけに最適化されていない祐希に、皐月にはまだ不快感が拭い切れなかった。
頼子よりこさんが二階に上がってきたら、すぐに部屋に戻れるようにした方がいいな」
 皐月はベッドの横の襖を開けて、隣の部屋へ移れるようにした。祐希の部屋は照明が落とされていて、布団もまだ敷いていなかった。この状態で祐希の母の頼子が来たら言い訳ができない。
「皐月は変なところで冷静だよね。嫌な奴」
 祐希が布団を敷いている間にPCの電源を落とした。明日の学校の準備をして身辺が整ってくると、皐月はその気がなくなっていた。
 スマホを見ると入屋千智いりやちさとからメッセージが来ていた。千智とは土曜日以来会っていないが、メッセージのやり取りは毎日している。皐月はさっきまでしていた修学旅行の下調べのことを書いて送った。
 布団を敷き終わった祐希が皐月のことを見つめていた。何か言いたそうな顔をしている祐希は体にまとわりつく湿気のようだった。
「千智からメッセージが来てた」
「そう……」
「うん……。俺、もう寝るわ」
「えっ? まだ早くない?」
「たくさん寝ないと背が伸びないらしいからな。早く背を伸ばしたいし」
「皐月は6年生にしては背が高いんじゃないの?」
「そうだけどさ……大人と比べるとやっぱり小さいじゃん。なんか悔しくて。そういうわけで、おやすみ」
 皐月は部屋の照明を落として襖を閉めた。また一方的に祐希を突き放してしまったと、皐月はスッキリしない気持ちで布団の中に入った。
 すると階段を上る足音が聞こえてきた。頼子が自分の部屋に戻って来るようだ。頼子が二階の部屋に戻ってくる以上、皐月と祐希は離れ離れになるしかなかった。まだ時間が早いので頼子が就寝することはないだろうが、この状況は皐月にとってはありがたかった。
 しばらくすると、祐希の部屋の廊下側の障子しょうじが開く音がして、祐希と頼子の話し声が聞こえてきた。及川親子の話しているのを聞くと皐月は安心し、急に眠気が襲ってきた。

 この日の教室はみんな落ち着きがなかった。明日から木・金曜日の二日間、京都・奈良への修学旅行が控えているからだ。授業の間の休み時間になると、みんなの声がいつもより大きく、話す声のトーンもいつもより高くなっていた。
 この日の皐月は斜め前の神谷秀真の席のところへ行き、岩原比呂志を交えて三人で京都旅行の話ばかりしていた。その際、皐月は秀真の隣の席の栗林真理に後ろの席に移動して受験勉強するようお願いした。いつもならこんな身勝手な頼みごとをすると怒る真理だが、この日は機嫌が良かったのか、文句ひとつ言わずに笑顔で皐月の席に移動した。
 給食の時間も修学旅行の話で盛り上がった。担任の前島先生が京都での行動班を教室での生活班に決めたことで、班員で集まらなくても休み時間や給食の時間にも旅行の話が気軽にできる。雑談を重ねているうちに旅行への期待が高まり、班員同士は今までの班の時よりも仲良くなっていた。当初は前島先生に班決めをされたことに不満を持つ児童も多かったが、今ではみんな先生の意図を理解して納得している。
 給食の後の掃除の時間に、皐月と真理が二人きりになる時間ができた。校舎の昇降口前は空気が澄んでいて、空が晴れ渡っていた。
「ねえ、皐月。今日、家に来られる?」
「いいよ。りん姐さんはお座敷?」
「うん」
 この日は皐月の母の小百合さゆりにもお座敷が入っていた。明日美も今週の残りは全て仕事の予定で埋まっていると言っていた。
「真理って明日の修学旅行に持っていく弁当ってどうするの?」
「う~ん。パンでも買っておこうかな。お母さんは仕事で帰りが遅くなるから、寝かせてあげたいし。集合時間が早すぎるから、自分で作るのは無理」
「豊川駅、6時半集合だもんな……。現地で買い食い禁止とか、クソみたいな規則だよな」
「あんた、修学旅行の実行委員なんでしょ? それも委員長だし。なんとかならなかったの?」
「なるわけねーだろ、学校が決めたことだ。それで弁当のことなんだけどさ、頼子さんに俺の弁当と一緒に作ってもらおうか」
「いいよ……そんな図々しいこと頼めるわけないでしょ」
「いや、これは俺の発案じゃないよ。真理が弁当どうするか聞いとけって、頼子さんに言われたことなんだ。親同士で何か話でもあったんじゃない?」
「そうなのかな……。お母さん、お弁当作ってあげられなくてごめんねって言ってたけど」
「頼子さんは真理の弁当を作るつもりでいるみたいだよ。せっかくだから甘えたら?」
「う~ん。そういうことならお願いしようかな。ありがとう。正直、嬉しい」
「じゃあ、帰ったら頼子さんに伝えておくね。それから、たまには家にご飯を食べに来てってさ。凛姐さんからもお願いされているみたいだし」
「わかった。またお邪魔する。直接お弁当のお礼を言いたいから」

 5時間目は修学旅行前日集会だ。筆記用具と修学旅行のしおりを持って、6年生の全児童130人は体育館に集合した。体育館のステージ上に巨大なスクリーンが下ろされていて、プロジェクターから修学旅行の栞が映されていた。栞はすでにみんなに読まれていたが、修学旅行前日ということで、先生たちからの補足説明を受けることになった。
 各クラスの担任の先生たちから持ち物や注意事項などの最終確認がなされた。それぞれの先生に話す内容が割り振られていたようだ。皐月たち修学旅行実行委員は栞作りをする時に注意事項をもれなく盛り込んでいたつもりだったが、先生たちからは栞に載っていない細かな禁止事項やマナーが追加された。
 来年の栞作りに生かそうと、皐月は必死でメモを取った。修学旅行が終わったら栞のドキュメントファイルを更新をしておくつもりだ。栞の更新は修学旅行を終える皐月たちには何の意味もないが、後輩たちの役には立つ。皐月は来年6年生になる千智が修学旅行実行委員になりたいと言っていたのを気にしているので、この私的な作業は一人でやろうと思った。
 修学旅行の栞の説明が一通り終わると、プロジェクターにある動画のオープニング画面が映された。そこにはスマートフォンの使用の手引きと書かれていた。北川先生がマイクを持ってみんなの前に立った。
「え~、今から初日の京都での班行動で使うスマホの使い方のビデオを流します。スマホ本体は明日、京都駅で各班長に配ります。今日は本体が手元にないからこういう形で説明をしなければならなくなったけれど、普段からスマホを使っているみんななら全然難しくはないと思う。各班の班長はよく見ておくように。わからないことがあったら、後で担任に聞いてください」
 使用法を解説する動画は15分程の短いものだった。北川先生の言う通り、操作に難しいことは何もなかった。動画では修学旅行に特化したアプリの使用法の説明に多くの時間が割かれていた。
「各クラスの実行委員、前に出て来て下さい」
 動画が終わると、北川先生から修学旅行実行委員が児童の前に集まるように言われた。皐月はこのような展開を想定していなかったのでうんざりしたが、同じクラスの実行委員の筒井美耶つついみやはかなり緊張していた。
「筒井、行こうぜ。どうせたいしたことないから」
「うん……」
 各クラスの実行委員は重い足取りでみんなの前に並んだ。皐月は委員長なので、委員たちの真ん中に来るような位置取りをした。副委員長の江嶋華鈴えじまかりんが皐月の隣に来て耳打ちをした。
「藤城君。放課後、最後の打ち合わせをしたいから4組に行くね」
「わかった。待ってる」
 6年生の児童の前に晒された実行委員たちは誰もが憂鬱そうに見えた。感情を表に出さない書記の水野真帆みずのまほでさえ浮かない顔をしていた。みんな北川先生から何か挨拶をしろと言われるのではないかと警戒しているのだろう。
「え~、いよいよ明日から修学旅行です。大勢の児童を率いて修学旅行に行くということはとても大変なことです。我々教師だけでは抱えきれないほど多くのやるべきことがあります。しかし、ここにいる修学旅行実行委員が栞作りを意欲的に取り組んでくれたおかげで、こうして無事、明日の修学旅行を迎えることができました。どうか君たち児童も修学旅行実行委員のみんなに感謝して、温かい拍手を送ってください」
 実行委員たちは児童たちからおざなりではない、心からの拍手を受け取った。皐月の親友の花岡聡はなおかさとしは悪ノリして口笛を吹いてくれた。皐月は嬉し恥ずかしくなったが、実行委員になってよかったと思った。実行委員たちの表情も緩んでいた。
「それでは最後に実行委員から一言」
(うわーっ! ついに来たか!)
 こんな展開になるとは思っていなかった皐月は周章狼狽しゅうしょうろうばいした。何の用意もなかったので、何を言えばいいのか咄嗟には思い浮かばなかった。
「藤城君。私が先に鬱陶しい話をするから、後でみんなを盛り上げてね」
 華鈴が一人、スッとみんなの前に進み出た。
「修学旅行実行委員、副委員長の江嶋華鈴です。いよいよ修学旅行ですね。みなさんは今、どんな気持ちですか? 私は、半分楽しみ、半分緊張です。楽しみはみんなと同じです。緊張は無事に修学旅行から帰って来られるかということの心配です」
「旅行にはハプニングが付き物です。事件や事故に遭遇した時は別ですが、ちょっとしたトラブルの時は冷静に対応して、仲間を手助けしてほしいと願っています」
「修学旅行の児童たちは地元の人や一般の観光客からは必ずしも歓迎されているわけではありません。そのことを忘れずに、周りの人に迷惑をかけないよう心がけてください」
 話を終え、頭を下げると児童たちから拍手を送られた。児童会長として全校児童の前で話し慣れているせいか、華鈴は凛としていて格好良かった。
「じゃあ、後はよろしく」
 華鈴が下がり、皐月が一歩前に出た。
「修学旅行実行委員、委員長の藤城皐月です。明日から修学旅行ということで、みんな楽しみにしていると思いますが、興奮し過ぎて眠れないと当日疲れてしまうので、今日は美味しい晩御飯を食べて、早く寝ましょう」
「江嶋の言った『周りの人に迷惑をかけないよう』について僕からも言わせてもらいます。人に迷惑をかけないといっても、同じ班の子や先生には遠慮なく、早めに迷惑をかけてください。また、どうしても自分たちの手に負えない時には周囲の人に助けを求めてください」
「この修学旅行のスローガンは『学ぼう歴史、深めよう友情』です。昔の人が建てたお寺や神社に行くことは、それだけで歴史や文化、建築の勉強になります。いっぱい楽しんで、いっぱい勉強しましょう」
「学校の友達と泊りで出かけるのは5年生のキャンプの時以来のことになります。修学旅行は狭くて暑いテントではなく、ふかふかの布団で眠れてお風呂にも入れます。旅館の食事も楽しみですね。キャンプだっていい思い出になったんだから、修学旅行もいい思い出になること間違いなしです。というわけで、明日はみんな元気に出発して、明後日はみんな笑顔で帰ってきましょう。以上です」
 皐月が全てを言い終わり、頭を下げると華鈴の時よりも拍手が大きかった。これで修学旅行前日集会は終わった。

 この後、教室に戻って帰りの会をして、6年生はいつもより早く帰途に就いた。だが皐月は華鈴が来るのを一人教室に残って待っていた。自分の席に座っていても退屈なので、教室の最前列の窓際に移動して窓の外を眺めていた。
「お待たせ。遅くなってごめんね」
 華鈴が慌ただしく教室に入ってきた。
「いいよ。ところで最後の打ち合わせって何?」
「北川先生から修学旅行のタイムテーブルをもらったの。私たち児童用じゃなくて教師用のプリントね。私たち委員長と副委員長も目を通しておけって言われたから、一応目を通しておいた方がいいと思って」
「ふ~ん。そんなの、俺たちが見る意味ってあるの?」
「まあ、私たちがする挨拶のタイミングはわかるかな。漠然と生徒を代表して挨拶しろって言われていたけど、具体的にいつ挨拶をするかはわからなかったでしょ?」
「まあ、そうだな。やれって言われたらやるって感じだったし。そこはモヤモヤとしていたから、段取りがわかっていた方がいいかな」
 華鈴にしては言っていることが明晰ではないと思った。児童会長をしている時の華鈴とも雰囲気が違う。皐月には華鈴に筒井美耶の持つ色が視えた。
「で、そのプリントには細かいスケジュールが書いてあるわけだ。見せてもらってもいいかな」
「藤城君の分もコピーしてあるから」
 華鈴に渡されたプリントは修学旅行の日程表の教師用のもので、そこには児童の知り得ない教師の行動が記されていた。初日の京都での班行動の時に教師の誰がどこにいるのかとか、旅館での教師の役割分担と細かいスケジュールなどが書かれていた。微に入り細を穿った段取りがびっしりと書かれていて、これは修学旅行の栞と違って完全に業務用の書類だ。
「私たちが挨拶をするところはマーカーで色をつけておいたから。一通り読んでみた限りでは、挨拶のところ以外、私たちには何も関係なかったよ」
「そりゃ教師用のタイムテーブルだから、俺たちは関係ないよな……。でも、挨拶のタイミングがあらかじめ分かっているのはありがたい。それに修学旅行の舞台裏を覗いているみたいで面白いな、これ」
「よかった……。余計な仕事を増やすなってウザがられるかと思ってた」
「そんなことないって。こうしてまた江嶋と一緒に仕事ができたんだから、嬉しいよ。修学旅行が終わったら、こうして江嶋と一緒に仕事をするってことはなくなるんだからさ。そう考えると、なんか名残惜しいよな」
 皐月の言葉に華鈴は何も返さなかった。華鈴がランドセルにプリントを入れて、帰ろうとした。
「なあ……俺、なんか変なこと言った?」
 ランドセルを背負った華鈴が皐月の言葉に立ち止まった。
「別に……。何も言ってないよ」
 華鈴は振り向きもせず、また帰ろうとした。
「待てよ」
 たまらず皐月は華鈴の手を取った。華鈴はまた立ち止まった。
「一緒に帰ろうぜ」
「いい。一人で帰る」
「帰りの方向、同じじゃん。途中まで一緒に帰ろう」
 華鈴はもう一人で帰ろうとはしなかった。ただその場にだまって俯いていた。
「明日、修学旅行じゃん。江嶋が何を怒っているのかわからないけど、旅行の前の日くらい喧嘩しないで仲良くしようぜ。なっ?」
 華鈴の顔を覗きこむと、赤い顔をしていた。
「名残惜しいとか言わないでよ……」
「えっ?」
「もう一緒に仕事をすることがなくなるとか言わないでよ」
 華鈴が顔を上げた。目から涙が溢れ出した。
「ああ……これで実行委員も終わりだと思うと、ちょっと寂しくなっちゃってさ。もしかして江嶋も寂しかった?」
「寂しいよ! 寂しいに決まってるでしょ」
 涙を流して訴える華鈴を見て、皐月も感極まって泣きそうになった。
「江嶋と一緒に実行委員をやれて良かった。委員会の仕事をしている時、俺ずっと楽しかった」
 華鈴が涙を拭き始めたので、皐月も目尻に溜まった涙を人差し指で拭った。すると堰を切ったように涙が流れ始めた。
「藤城君のさっきの挨拶。何、あれ? 盛り上げてって言ったのに、真面目なこと言っちゃって」
「俺、そういうの苦手なんだよ」
「スローガンのこととか言い出しちゃってびっくりした。私、スローガンなんて完全に忘れてた」
「お前、割とバカだよな。スローガンは大事だろ?」
「藤城君のことが大好きな筒井さんが考えたスローガンだから、そりゃ大事だよね」
 華鈴がやっと笑った。
「一緒に帰ろうぜ。なんなら家まで送ってやろうか?」
「家はいい。今日はお母さんがいるから」
「そうか。そりゃ良かったな。じゃあ俺ん家まで送ってくれ」
「しょうがないな~。じゃあ家まで送ってあげるよ」
 6時間目の授業が行われている中、静かな校庭を皐月と華鈴は二人並んで校門を出た。


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