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誰もいない境内 (皐月物語 65)

 駅前通りのスクランブル交差点を渡った藤城皐月ふじしろさつき筒井美耶つついみや豊川稲荷とよかわいなり塀伝へいづたいに歩いていた。道が狭くて並んで歩けないので、皐月の後を美耶がついて来ている。縦に並んで歩いていると話がしにくいので、つい無言になってしまう。皐月は去年の写生大会の時に、この道をありの行列のように一列になって歩いていたことを思い出した。
 皐月は通りの向こうの土産物みやげもの屋の前をよく通るが、塀沿いの道の方は滅多に通らない。車道越しに見る土産物店街は生まれた時からこの町で育ってきた皐月にとっても新鮮に映った。少し見方を変えるだけで見慣れた街並みなのに違う色に見える。
「こうやって見ると、ここも結構観光地なんだな」
「ちょっと旅行しているみたいだね。さっきまで修学旅行のことを考えてたからそんな風に感じるのかな」
 土産物屋の通りはアーケードになっていて、赤・緑・黄色の派手な水引幕みずひきまくが張られている。土産物屋には熊手くまで達磨だるま、招き猫などの縁起物えんぎものがずらりと並べられ、しかもそれぞれの店が陳列に趣向を凝らしているので、見ているだけでも楽しい。近道の塀沿いなんて歩かずに、大回りになっても店の前を歩けばよかったと皐月は後悔した。
 豊川稲荷の正面玄関になる総門そうもんにはすぐに着いた。この総門は高さ4.5mの大きな門で、その上には銅板鱗葺どうばんうろこぶきの立派な屋根が乗っていて、なかなか重厚な佇まいだ。けやきの一枚板で作られた門扉は厚さ15㎝もあり、頭上に祀られている十六羅漢じゅうろくらかんは名工の作といわれている。
「思ったよりも立派な門だったんだね」
 総門を見た美耶が妙な感心の仕方をした。
「あれ? 筒井って豊川稲荷に来たことなかったっけ?」
「学校の写生大会で一度だけしか来たことないよ」
「そうなのか。まるで初めてここに来たようなことを言うんだな」
「前に来たときは何も目に入っていなかったみたい」
「じゃあ何見てたんだよ。お前、適当過ぎるな。じゃあここに初詣に来たりしないんだ」
「私の家はいつも地元の十津川とつかわ村に帰るから、お正月は豊川にいないよ」
 美耶は夏休みに奈良県の十津川の祖父母の住む実家に帰っていたという話をしていた。皐月は美耶に十津川の話をいろいろ聞いてみたかったが、2学期が始まってすぐに席替えになり、隣同士だった席が離れ離れになり、聞けずじまいになっていた。
「せっかく家から近いんだから、普段からここに遊びに来たりすればいいのに」
「えっ? 遊びに来るってここで何して遊ぶの?」
「いや、普通に散策したりとかさ……デートなんかいいんじゃない?」
「デートなんて誰とするのよ。藤城君がしてくれるの?」
「今してんじゃん、デート。……まあ俺なんかさ、境内をうろうろしたり自転車を走らせたりとか、あと肝試しや探検なんかするんだけどな。なかなかいいもんだぜ、お稲荷さんは」
 皐月は言ってて恥ずかしくなったので、すぐに話題を切り替えた。
「ここって自転車で境内に入ってもいいんだ……」
「禁止はされていないっぽいけどな」
 皐月は総門の真ん中に行く手を阻むように立てられた標識を指差した。そこには自動車とオートバイは終日進入禁止と書かれている。
「豊川稲荷が好きな近所の奴らとか、川高に通っている一部の生徒は普通に自転車で乗り入れてるよ。でも大人がふざけて境内を自転車で走り回っていたらアウトだろうね。ここの若いお坊さんって怒ると怖いぞ」
 剃髪して作務衣さむえを着た若い僧侶は皐月にはチンピラよりも強そうに見える。
「私の知っているお寺や神社は自転車乗入禁止の所ばかりだよ」
「そうなんだ……場所によっていろいろなんだな。そう考えると豊川稲荷は心が広い。ありがたや、ありがたや」
 皐月は自転車で入れないお寺や神社があることを知らなかった。皐月はお堂で手を合わせる真似をしながら、月花博紀げっかひろきたちとよく競輪とかいって境内で自転車レースをしていたことを反省した。大げさにおどけて、美耶の前でいい子ぶってたことを誤魔化したかった。
「藤城君ってお寺好きなんだね」
「おっ! 筒井ってここがお寺だってことわかるんだ。豊川閣妙厳寺とよかわかくみょうごんじって言うんだぜ」
「知ってるよ。それにここがお寺だってことくらい、見ればわかるじゃない。でもお稲荷さんっていえば普通は神社だよね。ここって神仏習合しんぶつしゅうごうが残っているよね」
 神仏習合という言葉は皐月が真理の夏休みの自由研究を手伝った時に見たような気がしたが、もう覚えていなかった。学校では勉強で負けたことがない美耶だが、お寺や神社の知識は皐月よりもずっと詳しそうだ。
 皐月は今すぐ神仏習合の意味を調べたかったが、ここでスマホを出してググるのはなんかダサくて嫌だ。美耶に尊敬の念を抱き始めた皐月だが、プライドが邪魔して美耶に神仏習合の意味を聞くことができない。

 総門をくぐると左手に土産物を売っている屋台が二つ出ている。初詣の時は境内にたくさんの屋台が出るが、通年で屋台を出しているのはここだけだ。子どもの頃から気になる店だが、皐月の欲しいものは何も売っていない。静謐な境内に屋台が点景としていい味を出している。
 ここで皐月は美耶に対して入屋千智や及川祐希にしたような案内をしようとは思わなかった。美耶の方が自分よりも寺院の造詣が深そうなので下手なことは言えないし、話したいことよりも聞きたいことの方がたくさんあるからだ。前に来た時は正面に見える山門をくぐって漱水舎そうすいしゃ手水舎ちょうずや)へ行ったが、今日は違う参道を通って大本殿だいほんでんへ行こうと思った。
 総門を抜けてすぐに左に曲がると右手に大きな石造の鳥居がある。狛犬こまいぬの代わりに狛狐こまぎつねが置かれている。ずんぐりとした狛犬と違って、しゅっとした狛狐は格好いい。だが狛犬よりも狛狐の方が怖く感じる。
「お寺なのに鳥居が残っているんだね。稲荷神社だと宇迦之御魂神うかのみたまのかみが祀られてるんだけど、ここってお寺だよね。本地垂迹ほんちすいじゃくだとどうなるんだろう?」
「豊川稲荷の本尊ほんぞん荼枳尼天だきにてんだけど、本地垂迹って何だ?」
「お寺の仏様は実は神社の神様の化身だっていう話なんだって」
「ヤベぇな……お前、詳し過ぎ。デートの相手はおれじゃなくて秀真ほつまの方が良かったんじゃね?」
「なんでそんなこと言うの!」
 学校で美耶にちょっかいを出して怒らせたことは何度もあったが、こんな風に怒った美耶を見るのは皐月には初めてだ。
「だって秀真の方がおれよりお寺や神社の知識があるし、話が合いそうじゃん」
「話なんか合わないよ。それに、私なんか全然詳しくないって」
「そんなことないよ。それに前に修験道の人たちが歩く山道を歩いたとか言ってたじゃん。筒井ってそういう宗教系のこと詳しいのかなって……」
「それはうちのお爺ちゃんが修験道の修業をしてるから、小さいころからいろいろな話を聞かされてただけだよ。実家に帰ったら私とお兄ちゃんはお爺ちゃんに連れられて山に入ったりしてたし」
「そうそう、そういう話。秀真の奴、筒井に修験道とか山の話を聞きたかったって言ってたよ。また話してあげたら?」
「え~っ、神谷君とあまり話したくないな……」
 美耶が露骨に嫌な顔をした。美耶は教室ではいつも明るく、うるさいくらい賑やかだが、皐月は美耶が人を悪く言っているところを見たことがなかった。
「どうして?」
「だって私……神とか仏とかってあまり信じていないから。信仰心がある人と宗教の話はしたくない」
「そういうことなら大丈夫だと思うよ。秀真が特に宗教を信じてるっていう話は聞いていないから。たぶんあいつって不思議なことに興味があるだけだよ」
 友人が誤解されていると思った皐月は神谷秀真かみやしゅうまのことを弁護した。だが皐月には秀真が本当のところ何を考えているのかはよくわかっていない。仮に秀真が何らかの宗教を信じていても構わないと思っている。
「じゃあ藤城君は?」
「それは俺も同じ。神様とか仏様とかはよくわかんないし、不思議な話とかオカルト話が好きなだけだ。だから秀真と話しているとすごく楽しい」
「……ならいいんだけど」
「じゃあ機会があったら秀真に修験道とか大峰山おおみねさんの話でも聞かせてやってよ。なっ?」
「あまり気が進まないけど、藤城君が一緒にいてくれるんだったらいいよ。私が困ったら助けてね」
「いいよ、もちろん。おれだって筒井の話いろいろ聞きたいし」
「私の話なんか今聞けばいいじゃない」
 硬い表情をしていた美耶だったが、やっと柔らかい顔になった。こんな優しい顔をした美耶を皐月は教室で見たことがなかった。

 大本殿に行く前に漱水舎で手を洗うことにした。柄杓ひしゃくで水をすくって適当に手を洗っていると美耶に違うと注意された。皐月は正しい作法を教わって身を清め、濡れた口をTシャツの袖で拭い、手を裾で拭いた。
「ちょっと藤城君、服で拭いちゃダメ! みっともないでしょ」
「なんだよ、うるさいな~。俺のママかよ。いいじゃん、別に何で拭いたって」
「よくないっ! ハンカチ持ってないの?」
「持ってねーよ。そんなの使わんし」
「トイレに行った後どうするの?」
「チャーっと手を洗って、パッと服で拭いてるよ」
「一応手は洗うんだ……」
「まあウンコの時しか洗わないけどな」
「学校で大きい方するの?」
「そんなのするわけねーじゃん! 学校でクソしたら一生の恥だわ」
「じゃあ手洗いしないってことじゃない! 汚っ!」
 プリプリ怒っている美耶を見て楽しくなってきた。
「それっ! バイ菌だ~」
「うわっ!」
 ふざけて美耶を触ろうとしたら、びっくりして後ずさりした。反応が早い。
「あっ、お前今、本当に俺のこと汚いって思ったろ? ひどいな~」
「そんな急に襲いかかって来られたら逃げるに決まってるでしょ」
「襲うって人聞きが悪いな。けられたことと二重で傷つくわ」
 美耶は2mくらい離れたところまで逃げていた。やっと1学期の頃の美耶に戻ったような気がして嬉しくなってきた。
「もう汚くないからこっちに来いよ」
 不機嫌そうな顔をして美耶が戻って来たので、皐月はもう一度美耶の正面にわざとらしく両手を伸ばした。
「あれっ? 逃げないの?」
「だって汚くないもん。さっきお清めしたでしょ」
 思いがけず両肩に手を置くかたちになってしまった。美耶はもう不機嫌そうな顔をしていない。それどころか嬉しそうに笑みを浮かべている。
 平日の夕暮れ時、豊川稲荷の境内には皐月と美耶の他に誰もいなかった。傾き始めた陽の光が美耶をいつもより可愛く見せている。今ならこのまま肩を引き寄せてしまえばキスだってできそうな気がする……そんな不埒ふらちな考えが頭をよぎり、皐月の心拍数は急上昇した。


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