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グラマラスでセクシーな車が似合う女(皐月物語 112)

 藤城皐月ふじしろさつき明日美あすみの住むマンションの前までやって来た。この時、皐月は初めて一人でここに訪れた時とは違う緊張を感じていた。プライベートの明日美と外出し、買い物をして外食をする。まるで大人の恋愛のようだと、期待と不安が高まっていた。
 オートロックに部屋番号を入力した後、明日美に教えてもらった暗証番号を打ち込み、エントランスのロックを開けた。エレベーターに乗り込み、10階で降りると、渡り廊下からは豊川稲荷とよかわいなり大本殿だいほんでんがよく見えた。この景色は栗林真理くりばやしまりのマンションから見える豊川とよかわ駅の構内と同じくらいのいい眺めだ。皐月は明日美の部屋の玄関のチャイムを鳴らした。
「皐月だよ」
「今、開けるね」
 明日美の声が返って来てからドアが開くまでのわずかな時間が一番ドキドキする。これは真理に会う時と同じ感覚だ。
「入って」
 明日美のあまりの美しさに皐月は息を飲んだ。芸妓げいこ姿の時や稽古の時とは違う、余所行きの大人の明日美だった。皐月は髪をまとめていない明日美を初めて見た。ラフで大きめのウェーブがかかったセミロングは上品で美しく、柔らかさや凛々しさを感じる。メイクはナチュラルだが、目と口に色気がある。香水もいつもと違い、子供の皐月には近寄りがたいものがあった。
「どうしたの?」
「あっ……うん。明日美って本当に世界一綺麗だなって思って……」
「ありがとう。久しぶりにその言葉を聞いたような気がする」
「そんなことないだろ……」
 昔のように明日美に抱き寄せられ、頬にキスをされた。以前ならこめかみあたりに口づけをされていたが、皐月の背は高くなっている。いつか背伸びをしてキスさせてやろうと思いながら、皐月は明日美の唇にキスをした。
「これから出かけるんだから……」
 もう一度だけ軽く唇を合わせ、リビングに入った。相変わらず何もない白い部屋だ。皐月はこの無機質な部屋に居心地の悪さを感じている。
 明日美のコーデはトップスにオフホワイトのニット、ティアードフリルのチェック柄のスカートもワントーンで、部屋に溶け込んでいる。今日もリップの赤さが艶めかしく浮き上がっている。
「皐月が着ている服、百合ゆり姐さんのコーデ? いつもと雰囲気が違う」
「ママの選ぶ服はまだ似合わないと思うんだよね。なんか若々しくない感じがしてさ」
「そんなことないよ。似合ってるし、落ち着いて見えるよ。高校生って言っても信じちゃうかもしれない」
「俺、そういうのって好みじゃないんだよな……。もっと格好いい服が着たい」
 小百合さゆりが選んだ服を明日美が似合っていると言ったことが皐月には意外だった。自分では似合っていないと思っていただけに、皐月は服のセンスに自信が持てなくなった。冬でも半袖半ズボンが格好いいと自慢気に言った時、入屋千智いりやちさとに微妙な反応をされた時のことを思い出し、恥ずかしくなった。
「とりあえず座って。皐月、何か飲む?」
「ううん。今はいい」
「じゃあ私もやめておこうかな」
 皐月と明日美は隣り合って座り、皐月は小百合から預かっていた封筒をテーブルの上に置いた。
「これ、ママから。衣装代と食事代だって」
「いいよ。これは受け取れない」
「そんな……困るよ。俺、ママに怒られちゃう」
「じゃあ、私に渡したことにして皐月の修学旅行のお小遣いにでもしちゃえばいいのよ」
「ええっ……」
「服は最初から私が買ってあげるつもりだったのよ。それに、この日をずっと楽しみにしていたんだから。ねっ?」
 楽しそうに話す明日美の真意が皐月にはよくわからなかった。二人の年齢差を考えると、どうも子供に服を買ってやるようにしか思えないからだ。自分に経済力がないので立場が対等ではないから、単純にプレゼントだと喜べない。
「いいのかな……」
「何? 急にいい子になっちゃって。私にこんなことする悪い子のくせに」
 明日美からキスをしてきた。明日美にキスをされるのは慣れていたが、明日美から唇にキスをしてくるのは皐月には初体験だった。
「あ~あ。口紅が着いちゃった。塗ってあげるね」
 明日美が笑いながら、リップのついた皐月の唇を指でゴシゴシと擦った。皐月はもっとキスをしたいと思ったが、明日美の無邪気な顔を見ていると、また後にしようと自制した。今ここで変な気になると、買い物どころではなくなってしまうからだ。
「ねえ、皐月。出かける前に行き先を確認しておきたいんだけど、どこか行きたい店はあるの? 私も一応調べてみたんだけど、まずは皐月の行きたいところを教えてもらいたいな」
 皐月はスマホを取り出して、明日美にマップを見せた。メンズ服で検索した時のリストの中に候補があるので、気になる店の検索結果をタップして、店舗情報を出した。
「俺はこの『コンパル』っていう服屋がいいなって思ったんだけど、ちょっと価格が高いんだよね。予算内で買えないから、ここはパス。あとは--」
「いいよ。ここにしよ」
「えっ! まだ他にも候補があるよ?」
「だって皐月は『コンパル』がいいんでしょ? お金のことで妥協したんでしょ? それならここでいいじゃない」
 明日美の決断の速さに皐月は驚いた。
「……ここって上下セットで買うと4万も5万もするよ? 服代、1万しかもらっていないから、いくらなんでも予算オーバーし過ぎだよ」
「皐月はお金の心配なんてしなくてもいいの。お金は私が出すんだから」
「でも、買った服見せたら、ママだっておかしいって気付くよ」
「大丈夫だって。もし百合姐さんに気付かれても、何か言われるのは私だから。それに百合姐さんはそんなことじゃ怒らないよ。心配しないで」
「……うん」
「じゃあ、この話はこれでおしまい! さあ、行きましょ。皐月と買い物なんて楽しみだな」
 明日美が席を立ったので、皐月も続いて立ち上がった。母から預かった封筒をチノパンのポケットに突っ込んで、明日美を追いかけた。

ホンダ レジェンド・クーペ

 明日美の車はホンダのレジェンド・クーペという車で、1991年モデルだという。全塗装がなされているので、赤のボディーはまるで色褪せていない。この大きな車は流麗で伸びやかなスタイルだが、グラマラスでセクシーなデザインで、時代を超えた美しさがある。
「この車、明日美によく似合っているね」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいな」
「もうちょっと車、見せて」
「どうぞ」
 この時間帯は車が出払っているので、明日美の車の前後左右に車が止まっていない。幸運にも車を観察しやすい状況だった。皐月は車から少し離れ、ゆっくりと車の周りを回りながら見た。皐月がレジェンド・クーペに興味を示したことに明日美は満更ではない顔をしていた。
「大きいのに背が低いんだね。前から見た顔は知的な男性みたいで格好いいし、真横から見たデザインもいい。斜め後ろから見た感じが女性的で、特にいいね。こんな車、街中で見たことないや。俺もこの車、好きになっちゃった」
「乗ってみる?」
「うんっ!」
 2ドアクーペらしい大きなドアを開け、皐月は背をかがめて乗りこんだ。ブラウンのふかふかなカーペットに土足で上がり込むのに抵抗を覚えつつ、シートに腰を沈めた。本革のシートは江嶋華鈴えじまかりんの家で座らせてもらったゲーミングチェアーよりも気持ち良かった。明日美が運転席に乗り込んできたので、皐月は助手席のドアを引いた。ボンッと重厚な音がして閉まった。
「ねえ、この車って高そう……」
「昔は高級車だったみたいね。でも、これは中古だし相当古いから、そんなに高くなかったよ。モータースの社長さんが玲子れいこ姐さんのお店の常連さんでね、お店の女の子はみんなそのお店で車を買うんだって。私は玲子姐さんの紹介だからってことで、ビックリするくらいサービスしてくれたのよ」
「じゃあ、安かったんだ」
「今の普通の車くらいなのかな……。私、あまりそういうの詳しくないから、よくわからないけど。でも、買い物の足代わりくらいにしか使っていないから、私には割高だよね」
 皐月は商店街で育ったので、徒歩や自転車と公共交通機関で大抵の用が足りてきた。明日美のマンションは周囲に店がないので、自転車か自動車で移動しないと暮らしに不自由するのかもしれない。皐月は車がなければ成り立たない生活というものがあることを初めて実感した。
「音楽を流しながら行こうか。皐月はいつもどんな音楽を聴いているの?」
「俺はね……ちょっと恥ずかしいんだけど、アイドルの曲をよく聴くかな」
「へぇ~。なんとか坂とか?」
「うん。そういうのも聴く。でもよく聴くのはあまりテレビに出ないようなアイドルとか、ライブやネット中心で活動している地下アイドルを発掘するのが好き」
「随分マニアックなのね」
 自分の好みの音楽を言うのはただでさえ心をさらけ出すようで恥ずかしいのに、マニアックと言われるとさらに追い打ちをかけられたような気持になった。皐月の趣味を理解してくれたのは、今までで喫茶店のマスターの息子の今泉俊介いまいずみしゅんすけただ一人だ。
「明日美はどんな音楽を聴いてるの?」
「私はね……お座敷でお客の話題に上がるような曲を、勉強のために聴くの。今流行している曲や、昔のヒット曲とか」
「俺も昭和の歌謡曲なら聴くよ。近所の喫茶店のマスターの影響で時々聴くようになった」
「じゃあ、昭和のシティーポップって聴くことある?」
「シティーポップか……昔のポップスのことだよね。あまり聴かないけど、喫茶店で流れているのを聴いたことはあるよ」
 皐月には歌謡曲とシティーポップの境界線がわからない。喫茶店ではマスターの好みで曲が流れるので、きっと歌謡曲にまざってシティーポップも流れているだろう。
「最近は海外のお客にシティーポップのことを聞かれることが増えてきたから、70年代から80年代のポップスを勉強しているの。車の中で流してもいいかな?」
「いいよ。昔の曲って結構好きだから聴いてみたい。俺は勉強だなんて思わないけどね。たぶん知ってる曲もあると思うし、楽しみだな」
「付き合ってくれて、ありがとう」

 明日美がイグニッションキーをシリンダーに差し込んでまわすと、レジェンド・クーペのエンジンが静かに始動した。明日美がシートベルトを装着したので、皐月も明日美にならってシートベルトをした。スマホをパネルに繋いで、Spotify からシティーポップのプレイリストを選んだ。竹内まりやの『プラスティック・ラブ』がいい音で車内に流れ始めた。
「俺、この曲知ってる。カッコいいよね」
「海外では人気なんだって。じゃあ、行こうか」
 深紅のレジェンド・クーペが静かに動き出した。マンションの駐車場から駅前通りに出て、左折をした。
 これから皐月と明日美ドライブデートが始まる。運転に集中している明日美の顔も美しい。


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