グレンラガンとプロメアの違い、12年を経ての「強い男」の物語

私は今から12年前、遡ること2007年に放送されたアニメである天元突破グレンラガンが大好きである。Blu-ray BOXのお金を父親と兄に土下座して前借りして生まれて初めて予約して買ったのもこれだし、なんなら自分の書く作品に一番影響を与えたのは何だろうと振り返ってもやっぱりグレンラガンである。

そんな訳で、プロメアを公開初週に見に行って脳みそをやられた気持ちをどうか分かってほしい。最高のあの出来をストレートでぶつけられたらそりゃ何回も通い詰める羽目になるのは仕方ない。応援上映も行ったけど楽しかったです。

さて、そんな訳でみなさん知っての通り完全オリジナル劇場作品としては異例のロングランの中、割とよく見かけた感想としてこういうのがある。

「プロメアはほぼグレンラガン!」

言いたいことは分かる。(こいつらキルラキルで見たことあるな…)とか(この展開グレンラガンで見たな…)とか私も思っていました。
ガロはカミナそっくりって話は原案である監督の手癖とか、コヤマさんがspoonインタビューで語られてたカミナとよく似た青色を使う事にした覚悟とかから見て分かる通り、もう似てるって言われるの前提としてキャラデザされてるからまあしょうがないよね…とも思う。

ただ、個人的にはそんな意見を見る度に何か違和感あるなとずっとモヤモヤしていた。いやグレンラガンとプロメアは親父とお袋全く同じで、別の家で生まれた兄弟みたいな関係なので、似てる!っていうのは当たり前だと思うのだが、なんか違うんだよなぁ…とここ半年間ずっとモヤモヤし続けてきた。ついでに思ったよりグレンラガン知らない人多いんだな!?って衝撃を受けた。なのでプレゼン作ったりしました。みんな全27話だから見よう。

そんななんやかんやで半年悩んだ結果、ようやく最近何が違うのか言語化できるようになった。

結論から言って、グレンラガンは「一人で生きていける男が、一人で生きる」ことを描いた物語であり、プロメアは「一人で生きていける男が、誰かと共に生きる」ことを描いた物語だと思っている。

↓ここからはグレンラガン・プロメアのネタバレを含む事になるので、そういうのが苦手な方はお戻りください。





 全四部で成り立つ「天元突破グレンラガン」の主人公はシモンであり、彼の一生を描いた物語だ。普段は内向的で気弱ではあるが、優しくて根気強い性格であり、意外と脳筋熱血気味でもある。作中で螺旋力と称されるエネルギーを誰よりも宿す、愛機ラガンに搭乗する最強のエンジンである(暴言)
 しかし、グレンラガンを見た方はご存じの通り、始まりである第一部の狂言回しは彼ではない。シモンのアニキであるカミナである。
 カミナは分かりやすくリーダー気質の青年だ。とにかく前向きであり、中島作品らしく人を鼓舞する独特の口調。逆境下で輝くカリスマ性を持ち、その生き方にシモンも憧れを抱いている。悪く言えばこの時点ではあまり花がないシモンよりも目立つ生き様、見栄切り、声優のパワーなどに惹かれて、視聴者も彼をみんな好きになる。しかし、彼は全27話中の8話で、あまりにも早すぎる死を迎える。
 そこからシモンの自暴自棄とも言える迷走が始まる。しかし、ニアというヒロインの助けを得て、「シモンはシモンでいい」という結論に辿り着き、あの11話へとつながっていく。何度見てもあの話は最高だと思うんだ。リーロンがうんうん頷いてるのでいつも泣いてしまう。
 カミナとは違うけれども、シモンにはカミナには無い強さがあると表現され、「この物語はシモンが主人公だな」と認識するのって多分この辺りである。いや主人公って散々言われてるのに何言ってるんだって話だけど、見てるこちら側としてもようやくシモンが主人公なんだなって思える瞬間としてです。

 延々とここからも細かい話を語れるが長くなりそうなので、ここらで流れをさくっと飛ばして最終話の話をする。アンチスパイラルを倒し、戦闘因果に支配された宇宙に風穴を開けたシモンであったが、取り戻したニアは結婚式の最中に命を使い切り、消えてしまう。残されたシモンは、一人指輪を片手に旅立っていく。そして、10年後に誰でもないただの穴掘りとして、螺旋の友の待つ星空を眺めるのである。
 初めて見た時、そしてその後何度か見直し、当時の私のなかでのうまく表現できなかった気持ちを表すとこんな感じになる。

「シモンってあんだけアニキにはなれないって言ってたのに結局アニキみたいになっちゃったな」
「というか何でニア消えなきゃならなかったの?」

 物語作中としての答えは置いておいて、自分が考えたこれら二つの答えというか物語を通しての意図としては「一人で生きていけるほど強い男が一人で生きていく」孤高の美しさを描いた物語だからとしか言いようが無いのではないだろうか。
 シモンを通しての視聴者の目から見たアニキはどこまでも男らしく、カッコいい。常に前を向いていて、最後まであきらめなくて、カリスマ性があって、強くて頼れるヒーローである。しかし、本当は違うということを視聴者は自嘲気味に語る11話でようやく知る。そしてカミナ自身も、自分がそんなシモンが思うほどの男でないことを知っている。弟分であるシモンのように強い力も持っていない。それでも、最後の最後までシモンの理想のアニキであり続け、散っていった。理想の存在である「アニキ」を体現し切ってしまったのである。
 そんな生き様を見せつけられた―――悪く言えば、カミナの弱さを知ることが無かったシモンの中で、アニキは神格化されていく。カミナシティや(冷静に考えるとワシントンD.C.みたいなもんですぜ?しかもシモンシティじゃないって辺りが更に凄い…)あのわざわざ手彫りした巨大モニュメントだとかもそうであるし、映画版の超天元突破グレンラガンを見ても分かる通り、どんなに時が流れようとも、シモンにとっての永遠の理想とはカミナのアニキなのだ。
 それでも普通だったら生きていく中で途中で壁にぶち当たって、そんな理想の人間は存在しないと気づくだろう。アニキのようには生きていけないと挫折し、それでも身の丈に合った、その人にしか為せない生き方をするだろう。しかし、その理想を体現できる程の力を持った人間ならどうだろう?
 結論として、シモンは憧れ続けた「アニキ」になれてしまうだけの力を持っており、そのある種幻想みたいな生き方を体現してしまったのである。つまりシモンがアニキみたいになったのではなく、アニキの理想そのものが終盤のシモンなのだ。常に前を向き、最後まで諦めない、強くて頼りがいのある存在になれてしまうだけの力と素質を持っていた。傍に誰もいなくても、一人でも生きていける強さを持つ男として完成してしまった。そしてその異次元の「強さ」を強調するため、そしてどんな苦しみや悲しみを経てもなお一人でも生きていける強さを証明するため、ニアは最後消えなければならなかったのだ。
 そして、その「一人で生きられる強さ」を肯定する物語が天元突破グレンラガンなのだ。カミナが示した理想像を体現する男としてシモンが生きていく話であり、監督たちの思い描いたカミナから始まるシモンという「強い男」を描いた物語なのである。

 …なんかこう書くとグレンラガンの物語を否定してるような感じに見えますけど、この物語はだからこそ美しい終わり方なのだ。みんな螺巌編のEDを見れば私の言いたい事が分かるはずだ。だから見てください…ニア…花…
 さて、そんな訳で天元突破グレンラガンの話をした後にプロメアについて語ろう。ここまでで既に3000字来ているのでとにかく巻いていく。
 

 プロメアは2019年に劇場公開された完全オリジナルアニメーション映画だ。バーニングレスキューに所属する主人公のガロが敵対するマッドバーニッシュのボスであるリオと出会って始まる物語である。もうあらすじとかはカットしていきなり語るが、グレンラガンを見たうえでプロメアを読み解くと、主人公たるシモンの要素を強く受け継いでいるのはガロじゃなくてリオなのである。小柄な少年という外見要素を抜いても、螺旋力をバーニッシュフレアと見ることも出来るし、二人乗りロボットを変形させる凄いエンジンになる辺りを見ても、常に冷静なようでいて思考回路が単純になりやすい所を見ても、シモン成分が強いのは紛れもなくリオである。
 これは恐らく、本来の構想中の主人公がリオであった頃の名残ではないだろうか。その辺りの話については下記のインタビューを見てくれ。


>G:
>本作にクリエイティブディレクターとして参加しているTRIGGERの若林広海さんにお話をうかがったところ、今の『プロメア』の形になる前は、リオが主人公だったことがあると。

>中島:
>そうです。『ヒックとドラゴン』みたいなジュブナイルのお話がやりたくて、主人公をリオにして、レスキューでもバーニッシュでもない普通の少年が成長していくということを考えていて、しばらく進めていました。ガロが、バカで直情径行なバーニッシュのリーダーだったんです。

 構想中の主人公がリオであり、成長していく主人公と考えるとやはり中島さんのイメージする少年像のどこかにシモンがいたのではないだろうか。そして、シモンと並び立つ男ならば当然のことながらカミナであり、すなわちガロにつながっていく訳である。
 シモンとカミナがリオとガロの源流だと仮定する以上、作中でリオくんは「一人でも生きていける程強い男」として描かれるし、ガロは「仲間に助けてもらいながらも進んでいく男」として表現される。
 ただしここで注意したいのは、根幹となる要素としてのキャラクター性は似ていても、ストーリーで担っている役割やキャラクターは全然違うので、単純にシモン=リオではないし、カミナ=ガロでもない。この辺りについてはまた語りたいけれども、一言で言うならカミナとガロは全然違うと思います。兄貴と弟だしな。

 さて、そんな訳で今度も最後まで物語をすっ飛ばして語ろう。プロメアを別次元へと帰したリオは、街を見下ろすガロの隣に立つ。そしてガロはリオに一緒に街の復興を手伝えと言い、リオはそれに同意する意味で、ガロと拳を合わせ、物語は終わる。
 私はこのシーンがめちゃくちゃ大好きで、いつ見ても泣きそうになるほど素晴らしいラストだと思っている。それは、リオくんというシモンから継承して描かれた「一人でも生きていける程強い男」に対して、「でも強いからといって一人で生きなくても良いんだよ」と示してくれたからである。つまり今石監督と中島さんは、グレンラガンで描きたかったものを否定せずにその上で、異なるもう一つの未来を描いてくれたのだ。
 そして同じように、カミナが源流に恐らくあるであろうガロが、素直に自分の弱さをさらけ出し、共に戦う誰かに助けを必要とする姿を見て感慨深くなってしまう。
 そんな訳で、プロメアは「一人で生きられる男が、誰かと共に生きていく」物語として、私は受け取った。

 ここまで書いてきたが、つまり何が言いたいのかというと「プロメアはグレンラガンではない」と主張したいのではなく、「プロメアは確かにグレンラガンが根底にあるが、そこから一歩進んだ物語だよ」と言いたい。もっと私の解釈を言っても良いのなら、「ニアを失わず一人で生きていかなくてもいいシモン」と「アニキとしてではなく自分として生きていくカミナ」が対等の友達になる物語として紹介してほしいんだって話なんだなこれが。

ちなみに以下は蛇足のグダグダ話です。




私が何でこの解釈をしたかというと、この中島先生のインタビューを読んだことにある。

>中島 僕が若い時は、すべてのものに寄りかからず「一人で立っている人」が一番強いと思っていたんです。一人一人が依存せず自立している。その上で、周りとの人間関係を築くのが最善だと。初期の『髑髏城の七人』(※初演以降アプローチを変えながら9作公演されている)はそう思いながら書いていました。

 実はこのインタビューを読んだ際、「一人で立っている人」と言われて、真っ先に思い浮かんだのが上にもある通り「髑髏城の七人」の主人公捨之介と、カミナとシモンだった。みんな誰かに依存せず、自立している。その上で、周りとの人間関係を築いている。12年前の中島先生が考えていた「強い男」とはそんな姿だったのではないだろうか。
 そして12年が過ぎた今、中島先生はプロメアを「ニアが消えない物語にしたかった」と言ってくれた。これを「シモンが一人で立っていなくてもいい物語にしたかった」と読み解くのは早計だろうか。時代の流れに合わせて、そして先生の考え方も少し変わられたのではないだろうかと、何となく思ってしまう。

 もちろん、グレンラガン・プロメアの監督は今石監督であるし、物語の方針を決めるのは今石監督である。正直に言うと、グレンラガンの物語自体の考察にしたって源流となったであろう出崎監督の「宝島」を私はまだ見れていないので、解釈違いもめちゃくちゃあるなこれと思っている。すみません5000円でも貧乏学生にはお高いんです…。
 だから、中島先生の発言だけを捉えて解釈するのは片手落ちだと思ってはいる。上の長々とした駄文が妄想に過ぎないと割と本気で思ってもいる。

ただ、妄想でもなんでもいいけれども、グレンラガンの全てのEDで最後まで一人で歩いて行った小さい背中のシモンと、コヤマさんの同人誌のDETROIT.でガロとリオが二人で並んでいる背中を見ていると、シモンがようやく12年をかけて救われたんじゃないかな、とそう思ってしまうだけの話なんです。それが言いたかっただけの5000字です。

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