見出し画像

近現代文化の諸問題 第8回 故郷喪失の時代~小林秀雄「故郷を失つた文学」と萩原朔太郎「日本への回帰」

 前回は谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」から日本における和と洋の文化の二重構造について考えて頂きました。 今回取り上げるのは、近代化の過程の中で、文学思想上問題となる「故郷喪失」というテーマです。
 それを日本で最初に正面から提起したものとして、昭和期に活躍した批評家・小林秀雄が、昭和8年に『文藝春秋』に発表した文藝時評「故郷を失った文学」が挙げられます。今回はその一部を読みながら、日本の近代化の到達点と「故郷喪失」といった問題について、考えていきたいと思います。

 東京生まれの小林が、まず表明しているのが、自分が「江戸っ児」と呼ばれることへの違和感からです。
 この時評が書かれた昭和8年という時代は、西暦でいえば1933年。つまり明治維新から約70年の時代です。明治35年生まれの“東京人”小林にとって「江戸」というのが、現代人には既に断絶された時代ということを表明しているように見えます。
 これは前回紹介した明治19年生まれの谷崎潤一郎が、日本橋蛎殻町に生まれて、生涯自分が「江戸っ子」だという意識をもっていたのと、およそ対照的です。
 小林と谷崎とは16歳ほどの年の差ですが、この辺りに同じ「江戸東京」では括れない、大正世代と昭和世代の断絶が感じられます。
 それどころか小林は、この時評の中で、「東京に生れながら東京に生れたという事がどうしても合点出来ない、また言ってみれば自分には故郷というものがない、というような一種不安な感情」までをも正直に打ち明けているのです。

 この文章には「思い出のないところに故郷はない」という有名な一節でも知られています。
 確かに人間の思い出というものは、或る特定の景色だったり建物だったり、音や匂いといった感覚を通じて「懐かしい」という感情を抱くことが多いと思います。

 この名文句の先には、「振り返ってみると、私の心なぞは年少の頃から、物事の限りない雑多と早すぎる変化のうちにいじめられて来たので、確固たる事物に即して後年の強い思い出の内容をはぐくむ暇がなかったと言える」とあって、何やら明治以来の近代化による急激な日本の変化を匂わせるような文面をほのめかしております。

 小林が幼少期を過ごした明治30年代は、確かに日清から日露戦争と2つの戦争が続き、明治の終焉から大正期に至るまでの、日本が激変するさなかにありました。
 その変化の中で、江戸の文化は失われていくわけですが、さらにこの文章か書かれた約十年前の関東大震災が、まだ東京下町に残されていた江戸の名残の一掃に、追い討ちをかけたのではないかと思われます。(このことを同時代のリアルタイムで描いたのが、田山花袋の『東京震災記』だったのです。)

 「故郷を失った文学」の結末部分では、近代以降の日本の西洋からの影響についても、以下のような見解が示されております。

>私たちは生れた国の性格的なものを失い個性的なものを失い、もうこれ以上何を奪われる心配があろう。一時代前には西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心事となっていた、彼らがまだ失い損なったものを持っていたと思えば、私たちはいっそさっぱりしたものではないか。
 私たちが故郷を失った文学を抱いた、青春を失った青年たちであることは間違いはないが、また私たちはこういう代償を払って、今日やっと西洋文学の伝統的性格を歪曲する事なく理解しはじめた。西洋文学は私たちの手によってはじめて正当に忠実に輸入されはじめたのだ、と言えると思う。<

 この一節を呼んで、皆さんはどう思われるでしょうか。
 私個人としては、非常に痛快なほど、勢いのある「べらんべえ」口調で、それだけでも小林に、本質的な「江戸っ児」を感じてしまいます。
 それはさておき、「一時代前には西洋的なものと東洋的なものとの争いが作家制作上重要な関心事となっていた…」というのは、一体いつの時代のどんな論争を指すのか。註解が必要なのでは、と思ってしまいます。

 日本に本格的な西洋文学が移入されたのは明治20年代。とりわけ明治30年代の「自然主義文学」は、当時としてはフランスの最先端の思潮を受け入れた文学概念であり、のちに、日本的な「私小説」という、本家本元のフランスの自然主義文学とも、江戸以来の日本の戯作ともつかないような、独自の作風を生み出しています。
 当時の文藝批評家たちの多くは、「なぜ日本には、本場のフランス文学のような本格的な自然主義小説が生まれなかったのか」という問題を追及してきたのです。
 そこから「西洋的なものと東洋的なものとの争い」という具合に、論争にも発展していくわけですが、昭和初期を生きる若き小林にとって「そんなものは全く意に介さず」といった姿勢が堂々と示されております。
 それどころか、「西洋文学は私たちの手によってはじめて正当に忠実に輸入されはじめたのだ」とまで言ってのけているのです。
 確かに明治の頃は、西洋の最新の技術や文化が日本に移植されるまでに、軽く数十年はかかったと考えられます。
 昭和に入ればその期間は、数年単位にまで短縮され、20世紀前半の小林が生きた時代には、世界史的な動向とほぼ同時進行で日本が追いつき、日本の近代化がすでに、同時代の西洋の水準にまで達していたことが窺えるのです。
 小林は江戸文化に象徴されるような「故郷喪失」を嘆くどころか、むしろ肯定的に捉えている節があるのが印象的です。

 この辺りは、谷崎潤一郎と同年の明治19年に群馬県前橋に生まれた詩人・萩原朔太郎と比べると際だってきます。
 北関東に生まれた朔太郎は、明治末期から大正時代、都会的なモダニズム文化に憧れながら、北原白秋らとともに日本の近代詩を開拓していったひとりです。

    ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し
    せめては新しき背廣をきて/きままなる旅にいでてみん。
    汽車が山道をゆくとき/みづいろの窓によりかかりて
    われひとりうれしきことをおもはむ
    五月の朝のしののめ/うら若草のもえいづる心まかせに。

 『純情小曲集』に収められた「旅上」は、フランスという特定の国というよりは、漠然と遠い異国への憧憬を歌った詩として、一度は目に触れたことがあるのではないでしょうか。
第一詩集『月に吠える』での文語自由詩で注目された彼は、『青猫』『純情小曲集』と独自の口語自由詩の世界を切り拓き、その作品は「日本近代詩の金字塔」とまで評されることになります。

 ところが、満洲事変を経て日本が戦争に向かっていく時代、昭和9年に発表された『氷島』では文語定型詩に回帰。これまで西洋のモダニズム文化に憧憬を抱いてきた朔太郎でしたが、時代が日本の伝統文化に目覚めていく状況を次のようなエッセイで語っています。

 萩原朔太郎「日本への回帰 我が独り歌へるうた」※以下引用

>少し以前まで、西洋は僕等にとつての故郷であつた。昔浦島の子がその魂の故郷を求めようとして、海の向うに龍宮をイメーヂしたやうに、僕等もまた海の向うに、西洋といふ蜃気楼をイメーヂした。だがその蜃気楼は、今日もはや僕等の幻想から消えてしまつた。
 あの五層六層の大玻璃宮に不夜城の灯が燈る「西洋の図」は、かつての遠い僕等にとつて、鹿鳴館を出入する馬車の轢蹄と共に、青春の詩を歌はせた文明開化の幻燈だつた。
 だが今では、その幻燈に見た夢の市街が、現実の東京に出現され、僕等はそのネオンサインの中を彷徨してゐる。
 そしてしかも、かつてあつた昔の日より、少しも楽しいとは思はないのだ。
 僕等の蜃気楼は消えてしまつた。そこで浦島の子と同じやうに、この半世紀に亙る旅行の後で、一つの小さな玉手箱を土産として、僕等は今その「現実の故郷」に帰つて来た。そして蓋を開けた一瞬時に、忽然として祖国二千余年の昔にかへり、我れ人共に白髪の人と化したことに驚いてるのだ。<

 「旅上」でも、これまで西洋への憧れを歌った詩人。まるで第二の故郷のように慕ったその憧憬の気持ちを、朔太郎は「蜃気楼」になぞらえています。
 ところが、今やその夢にまでみた近代都市が今、関東大震災からの復興を経て、目の前の東京に実現されている。あの憧れの西洋はどこに消えたのか。そして、その幻想が消え、現実の故郷を目の辺りにした彼は、自らを「浦島太郎」に喩え、呆然と立ち尽くします。
 時代は戦争へと向かい、世間では「日本への回帰」が叫ばれている。
 しかし、帰るべき「日本」など、どこにあるのだ。

> 日本的なものへの回帰! それは僕等の詩人にとつて、よるべなき魂の悲しい漂泊者の歌を意味するのだ。誰れか軍隊の凱歌と共に、勇ましい進軍喇叭で歌はれようか。かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。暫らく我が静かなる周囲を去れ。<

 昭和の戦前期、あたかも戦争の時代に移るにつれ、人々は必ずしも上からの押しつけによって、「日本への回帰」を果たしたわけではありません。
 むしろ昭和世代にとっては祖父の時代にあたる明治の文明開化からすでに60年もの歳月を経て、「近代化」という目標が過去のものになったことを物語っています。
 しかし、いざ「日本への回帰」が叫ばれた時、既に帰るべき故郷が存在しない。嘗て西洋への憧れを歌ったモダニズム詩人だからこそ、説得力のある見方です。

 その点は朔太郎や谷崎よりも16歳下の小林秀雄の方が矛盾はありません。
 すでに自分は「帰るべき故郷」を失ったからといって何てことがあろうか。それよりも初めから近代化された都市空間で生まれ育った自分は、すでに西洋との距離を意識することなく、ゴッホにせよモーツアルトにせよ、そのまま自分の文化の一部として理解できるようになった。
 これまで明治や大正世代の先輩たちが格闘してきた「日本対西洋」の問題なんて、お構いなしに、我々昭和世代は、西洋文化を何の障壁もなく享受できるようになったのだ、とまで言ってのけているのです。
 萩原朔太郎と小林秀雄の違い。それは単なる世代間の格差だけ…という問題ではなさそうです。
 ここで朔太郎や小林のいう「故郷」が単に自分が生まれ育った土地のみを指しているわけでないことは、おわかり頂けたと思います。
 ともあれ今から90年近く前に生きた人たちが、既に西洋のモダニズム文化に対して、何の抵抗もなく受け入れていることに、明治以来の文明開化の一つの到達点を見る思いがします。
同時に、これまで彼らの父や祖父が馴染んできた「日本」は、どこに行ったのか。―文明開化の定着は、日本近代化の一つの達成とともに、そうした「故郷喪失」の問題に向き合わざるを得なかったという二律背反を孕んでいたとも考えられます。
 その意味でも、現在近代化の極北を生きる21世紀の我々の、遠くて近い先駆者でもあったのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?