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恐慌と国家変革


昭和恐慌は、リフレーションによる景気刺激策によって、辛うじて難を乗り越えることができた。しかしながら世界規模の経済危機は、近代資本主義経済そのものの限界を示す事態ともいえる。
昭和の農本思想やブータン王国の例からも、今こそ東洋的な精神文明を加味した「国家百年の計」が求められている。

日本経済の行詰

「『模倣』に由る発達を打開するには『創造』に由る発達に方向転換をやる外に策はない。(略)例へば、その政治、教育制度が画一的中央集権である如きは、『模倣』には便宜なるも、事情を異にする各地各様の現実から出発することを必要とする創造的経済の発達には全く禁止的制度である。又、学校の教育が詰込み主義であること、学者研究家の多くが、翻訳本位であること、官庁其他の新計画の多くが、主として、欧米諸国の模倣であること等も亦、模倣時代の遺風であつて創造を阻むものである。」

 何も今日の教育論議を説いているわけではない。右の引用は、今から丁度八十年前の昭和四(一九二九)年、経済評論家の高橋龜吉が、改造社の『現代日本経済の研究』に寄稿した「日本経済の行詰」からの一節である。学校教育の「詰込み主義」や研究者の「翻訳本位」と いう言葉から、一九二〇年代の学界・教育界の動向が、今日の現状とそう変わっていないことに暗澹たる気持ちにさせられる。
 さて「創造的経済」とは何であるか。欧米諸国の模倣に対する批判の視点からも、高橋が日本独自の経済学理論の提唱を試みていたことは明らかである。昭和四年といえば、年号改元とともに起きた金融恐慌がひとまず収まる間もなく、米国初の世界規模の恐慌の煽りを受けた時期である。
 昭和二年、第一次若槻禮次郎内閣(憲政会)の蔵相・片岡直温の失言に端を発した金融恐慌は、次の政友会の田中義一内閣の蔵相・高橋是清が、三週間のモラトリアム(支払猶予)という離れ業を見せることで事態を収拾に向けた。
 しかし日本経済の行き詰まりは留まることなく、翌昭和四年に民政党の濱口雄幸内閣が成立すると、蔵相に迎えられた井上準之助の主導の下、「金解禁」の気運が高まることになる。当時欧米諸国が挙って金本位制への復帰を手掛けており、日本もそれに合わせて金輸出禁止を解除することこそが、景気回復への第一歩と信じられていた。
 しかし、長引く不況と震災復興による資材購入や輸入増加によって、為替ルートは「百円=五十ドル」から四十ドル前後に低迷していた。金解禁を実施するにせよ、円の価値をそこまで下げて行うべきだというのが高橋龜吉の「新平価」の提唱であった。しかしながら当時は「平価の切り下げを行うのは国家の威信に関わる」という輿論が大勢であった。
 ところがその年十月、ウォール街での株価暴落が世界恐慌に発展。しかしながら、日本経済への打撃を誰も予測することはなかった。井上蔵相による金解禁も、結局「旧平価」によって断行されることになった。
 さらに翌昭和五年四月、外相・幣原喜重郎がロンドン海軍軍縮条約に調印すると、「統帥権の干犯」問題が発生。十一月に濱口首相が狙撃を受けることにより、内閣は大きな打撃を受けた。
 昭和六年八月に濱口首相が亡くなると、第二次若槻内閣が成立。引き続き蔵相に就任した井上は依然として金解禁を続行した。ところが翌九月、満州事変が勃発。英国は金本位制から撤退し、各国もそれに習い、国際情勢は大きく変動した。さらに米国の恐慌につけこんで、ドルの先物買いが財閥を中心に行われた。井上の金解禁政策そのものの意義が失われる事態となったのである。
 十二月に閣内不一致により、若槻内閣が総辞職すると、犬養毅内閣が成立。再び蔵相に返り咲いた高橋是清は、井上財政とは打って変わり、禁輸出再禁止を断行。管理通貨制度の導入によって、景気刺激による積極財政が可能となった。
 さらには日銀引き受けによる赤字国債発行という新方式を編み出し、それを軍事費と農村振興のための時局匡救費にあてた。このような管理通貨制度による積極財政は、米国のケインズの理論を先取りするものとも評価されるが、以前から高橋龜吉が主張してきた方針でもあった。
 昭和期の恐慌がこの「二人の高橋」によって乗り越えられたという事実は注目に値する。だが、その後高橋是清は、軍部の拡大方針を阻止したことで、二・二六事件の凶弾に斃れた。
 一方高橋龜吉は、近衛新体制以降、企画庁参与として戦時下の経済政策に参画。戦後は公職追放に遭ったが、池田内閣の所得倍増計画にも関与し、戦後日本の高度成長を蔭で支えた。まさに昭和経済史の鍵を握る人物であった。

国家変革の諸相

 現在の金融危機と昭和期の世界恐慌との類似性を指摘する向きは、すでにバブル崩壊後の大不況を経験した一九九〇年代から存在した。経済破綻後の不良債権処理と震災による打撃…といった流れは、まさに第一次大戦後の大正期の停滞を再現・反復するものであったといえる。
 また、「ライオン宰相」と呼ばれた濱口雄幸と小泉純一郎とを比較する論評も、既に二〇〇一年の小泉内閣成立直後から存在していた。先述の「高橋財政」の例からも、不良債権処理による清算主義を軸とした構造改革よりも、まずはリフレーション政策によるデフレ脱却を優先とすべきだという識者も少なくない。(岩田規久男編『昭和恐慌の研究』東洋経済新社、田中秀臣・安達誠司『平成大停滞と昭和恐慌』日本放送出版協会等)。
 むろんリフレによる景気刺激策は、インフレ反動というリスクも背負う。そうした政策を断行するだけの政治家を今に期待するのは酷ということか。
 景気対策をめぐって、政友会・民政党といった二大政党が対立するのも、現在の自民・民主両党の政局争いを充分想起させるものがある。すでに昭和の初めから、「国益」よりも党利党略による利害関係が専行していた、という事情も垣間見えてくるのである。
 そうした中、大正期から潜伏していた左右両極の国家改造の動きが、昭和の恐慌時に活性化を見せるようになった。改めていうまでもなく、一つはマルクス主義による左翼運動であり、もう一つは日本独自の国体を主軸とした右翼による国家社会主義運動である。二つの運動が台頭する背景には、産業革命以来の資本主義経済そのものが、世界恐慌によって限界に達したことを物語っている。
 現に「高橋財政」により、景気は恐慌以前の状態にまで回復したが、依然として貧しい生活を強いられる国民は絶えなかった。街には失業者が溢れ、中小企業は倒産に追い込まれた。特に農村では凶作も重なって欠食児童や女子の身売りまでも起こり、予想以上に深刻な事態を呈していた。
 血盟団による井上前蔵相射殺事件、また犬養首相が暗殺された五・一五事件が起きたのもまさにこの時期である。テロによる恐喝は決して許されるべきものではないが、高橋財政の「時局匡救費」も、実はこの事件に後押しされる形で実施されたという事実も見落としてはならない。
 ロシア革命以来、知識層を中心に社会主義革命への期待が寄せられていた。しかしながら、依然として農業人口が大半を占めていた昭和期において、マルクスの理論は日本の現状に即するものではなかった。
 ベルリンの壁崩壊やソ連解体から約二十年。今や共産党ですら早急な日本の共産主義化は目論んでいない。かといって北一輝の『日本改造法案』ほどの影響力をもった国体論も見当たらないのも、今の日本の現状である。

資本主義超克の大計 

「どつからどこまでくさり果てゝしまつた。(略)全体祖国日本は何処へ行く。我々はどうなる。」
 橘孝三郎の『日本愛国革新本義』の序文は昭和七年五月五日に書き起こされている。まさに五・一五事件が起こる十日前だが、そうした祖国「革新」への焦燥感、緊迫感が文面からも充分伝わってくる。
 確かに事件そのものからは、蹶起後の国家改造の具体案は見えてこない。だが、本書によれば、「…個人主義的・唯物的西洋資本主義文明によつて過程する社会過程をして共存共栄的・東洋的精神文明によつて過程する新社会にまで変革しよう」という指針が示されている。むろん橘自身、その当時の機械文明そのものを全面否定したわけではない。
「機械的大産業をして厚生経済原則の上に国民共同自治社会的新日本建設の大目的の為に統制管理せよ」という一節からも、東洋的な農本思想を主軸とする国家理念を抱いていたことが汲み取れる。
 ここで思い起こすのが、一九七四年に四代目に就任したブータン国王・ジクメ・センゲ・ワンチェックによる「国民総生産(GNP)よりも国民総幸福(GNH)を」という国家指針である。
 ジクメの王妃ドルジェの著書『幸福大国ブータン』(NHK出版)によれば、GNH政策によって、一九八五年から二〇〇五年の間に、ブータン人の平均寿命は四十七歳から六十六歳にまで伸び、識字率は二十三パーセントから五十四パーセントに増加。小学校の就学率も全児童の八十九パーセントにまで達し、全国で三十設置された病院の医療費は全て無料だというから驚きである。
 今枝由郎著『ブータンに魅せられて』(岩波新書)によると、この四代目国王は「開発は必須であるが、それが伝統的文化、生活様式を犠牲にすることがあってはならない」という、独自の近代化・経済政策の理念を実践したという。
 国土に占める森林の割合が六十パーセントを下回らないこと、環境を劣化させ、野性の動植物の生態を脅かす工業・商業活動の禁止などが法律で定められ、ブータンは自然環境の保護、自然資源の活用という面で、世界の模範例と見なされている。
 むろん人口六十六万、ヒマラヤ山脈に囲まれた農業国ブータンと、高度消費社会を経験した一億二千万人の島国とを同列に論じることはできない。しかしながらブータンの実践例は、百五十年前まで鎖国による自給自足体制を築き、外圧による上からの文明開化を余儀なくされたわが国の近代化を省みる上でも、一つの希望を示してくれる。
 「百年一度の大危機」に直面した現在、我々に求められているのは、資本主義の限界を超えた「国家百年の計」である。ユートピアへの夢想が一笑され、新たなる国体論が不在の現在、東洋的な精神文明の中にこそ、現代を超克すべき大きな可能性が秘められているように思えてくる。

 (初出『京の発言』第十二号「特集:混迷する日本政治」平成二十一年七月号)


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