ホームスクーリングをするための戦略を考えよう! その5

05 学校の協力は必要不可欠だということ

ホームスクーリングを行なったとしても、日本の義務教育下では学校に所属しないという選択は採れない。これは日本独自の法律的解釈。児童を取り巻く環境の中で、周囲というものはそれほどシンプルではないということに留意したいのです。

そう、私が住んでいるのは日本。海外ではどういった解釈が…といった話は残念ながら通用しません。
意識の改革は必要ですが、それを他者に押し付けるには日本はまだまだ狭量。焦ってしまえば正当性は失い、私も、私の子供も良い結果にはたどり着けないのです。

結局、他者に理解を求めるには事前の段取りと根回しが必要になるのですが…。

今回はそういったお話になります。

前提としては子供には「親、あるいはそれに準じた親のような人」が当然いると考えます。子供単独で生きていけるほど日本は寛容ではなかなかないですから。それは責任能力という言葉に置き換わって、子供だけの生活を容認していません。
一般常識の範疇内であるそこに疑問を持つ方はあまりいないかと思います。事実の話ではなく、先入観であり、一般認識の話ですね。

義務教育下では、「親、それに準じる親のような人」にさらに「教員」が加わります。担任教師とも言いますね。
教員には、所属する「教育委員会」があり、これには「行政機関」の言葉が付きます。
行政機関には「児童福祉施設」がセットで付いてきます。

ここでは社会を取り巻く子供の話なので、法整備も含めてあらゆる面で周囲の目があると思ってもらえばいいと思います。言葉を悪くすれば「しがらみ」でしょうか。

その中で「密接にコミュニケーションを取り持つ」ことの重要性を理解し、「今の環境が健全であること」を周囲に証明していかなければなりません。これは先でお話した善意の勘違いを防ぐためのものです。

さてここで極論ですが、一番孤立しやすいのは誰かという話。
ここでいう孤立とはコミュニケーションの成立の有無です。社会で言うところの「ほうれんそう」などが例としてあがります。

ほうれんそう=「報告」、「連絡」、「相談」の頭文字をつなぎ合わせた言葉遊びですが、ここではそうややこしい話ではありません。
もっと単純な、簡単に言葉を変えると「返答が返ってくるのか?」ということ。

さて、子供を守るうえでとりわけ勘違いをしやすいのは、周りの言葉に対して敵愾心を抱き、遮断しようとする動きです。

例えば、担任教員の言葉が信用できないから取り合わない。
子供が怖がっているからあらゆるものから子供を隠す。
子供の目を塞ぎ、子供の姿に幕をかけて、世界と子供の結びつきを断絶する。大人はこの状態を「子供を守っている状態」だと勘違いしてしまうことがあります。

しかしこれでは、いたずらに問題を作ってしまうと冷静な第三者はなんとなくでも判断できると思います。だけど当事者である大人はそれに気づけないことの方が多い。

なぜなら私たち親は子供のことで頭がいっぱいになりがちです。
勘違いは極力避けたいものですが、疑心暗鬼に駆られ、子供以外を信じないとなればおのずとそれ以外の言葉が耳に入らなくなります。そのような状況になってしまったら、「子供の分まで冷静に判断しなくてはいけない」と気負ってしまうこともあるでしょう。

なにせ先のことが全く分からない問題に対して冷静に判断を下す。
これに対して生中ではないストレスが降りかかるのに、相手は早急な回答を「子供の為に」と求めます。
それはまるで、詐欺師の常套句にも聞こえます。

無論、一部を除きそれは善意の意見。私のように、そしてあなたのように様々な価値観、経験則、そして想像から出た言葉ですから自分の考えと違うのは当然。

子供の意見を尊重したい。そういった目的意識が同じでもあらゆる角度からの見解を並べれば相克してしまうこともあるでしょう。

ですから、意見のすり合わせ。目的意識のすり合わせ。手順のすり合わせ。
こういったコミュニケーションは必ず必要になるはずです。

そこで最初の設問に戻ります。

誰が一番、孤立した状態になるのでしょうか?

一番は当事者である子供ではないでしょうか?

難しい話だから子供は理解できない。そう決めつけて親の願望をねじ込んでしまう。それは違うということを漠然とでも理解していなければならない。

半年先、1年先、5年先、10年先。子供の成長はまったくの未知。それこそ大樹の枝葉のようにどこに伸びていくかわかりません。
私たちは子供に対して「こうなって欲しい」、「こういう風な大人になって欲しい」と妄想します。でもそれはただの妄想。おそらくそれは大人の、エゴというものなのでしょう。

だから未来の子供に対して梯子を外す行為は、きっと間違っている。

勿論、暴力、差別、いじめなど、学校という場所で、教員共々それらに加担している、あるいは改善の余地がない、子供が救済を求めている等の兆候や異変があるのであれば、それはまったく別の話。
手段の話はまた別に逸れるのでここでは明確に否定だけしておきます。

子供が仮にホームスクーリングを辞めたい。あるいは学校に行きたい。そういった意思を示したとき、私たちはその環境をすぐに用意できるようにしなければならないという話です。
こういった可能性を「全くないものとして捉えて行動してはいけない」と考えます。

この時に必要なのはやはり第三者のバックアップが不可欠でしょう。
つまり所属している学校の「教員」です。ならば教員との関係はどのような状況であれ断ってはいけない。それに他にも協力してもらうことは多いのです。

対話することで相互理解を確かにする。
そもそも必要なのは子供において最善の環境なのですから、親が勝手に切り捨てることは適切ではありません。守ることと、遮断すること。この違いが分かったなら、私たちは見守るという意味をはき違えないと考えます。

ホームスクーリングはまだ日本では根付かない教育方針です。
よってどれが正しい、どれが間違っている、こういった基準はありません。そもそもゲームの攻略本の様に子供の未来を考えることは適切ではないとも言えます。

だからこそ、大人も真剣に教育に向き合い、いろんな言葉を聞き、いろいろ試さなければならない。私はそう考えます。

人とは違う方法なのだから、子供と一緒に楽しみながらこの戦略を立てていこうと思います! 

それでは、お付き合いありがとうございました。

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