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閃光

汽水域で魚が淡水か海水かを嗅ぎ分けるように、絶妙な語感や音の響きに体を委ねては削りあげる。

常識を疑ってばかりいた中学の頃のわたしには、歌っているときしか上手に息ができなかったので、家にいる時はもちろん、学校でもずっと歌っていた。授業中にどうしても我慢できなくなって、先生にはお腹が痛いと嘘をついて屋上に行き、一人で花火をしながら歌うという、今思えば最上級に痛い少女だった。そんな少女時代の日記にこう書いてある

花火をしながら歌っているわたしは誰かの芸術になれるだろうか。わたしが死んだらミイラを美術館に展示してほしいな。焼かれるとか埋められるとか絶対やだから、何がなんでも展示してもらう!あ、水葬でもいい

痛すぎて目も当てられない。でも、実はこれ大学生になった今でも変わってなくて、面接官にもし将来達成したい事は?なんて質問されたら「美術館に飾られる事です!」って即答します。否、そんな勇気ない

先生たちはよく、「きっと勉強のしすぎか、本の読みすぎでそうなってしまうのね。あなた無理してない?たまには友達と遊んだり家族と過ごしてリフレッシュしなさい。勉強よりも自分を大切にね」とわたしを諭した。わたしに同情してくれていたようで、''あなたのためを思って'' というスタンスは絶対に崩さなかった。わたしの奇行を、「勉強のしすぎで溜まったストレスが爆発した」ということにしておきたかったのだろう。道徳的な笑顔と言葉が、ベタベタとわたしに絡みついてきた。

わたしは今でも息を吸うために歌をうたう。勉強はあまりせずに友達と遊ぶ、家族とも会話をする。それでも変わらず本は狂ったように読むし、花火をしながら歌うし、美術館に飾られたい。

発狂に対して道徳は意味を持たない。人生は発狂することだから、生きるとは狂うことだから、私たちはみんな少しずつ狂っていて、だから人間は退廃的で、こんなにもかわいらしくて美しい。

先生、あなたの人生は道徳の教科書ですか?