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色水の夢に救いなんていらない

綺麗な花をすりつぶして色水をつくっていました。出来上がった色水は、それはそれは透き通っていて綺麗で、幼い私の心を鷲掴みにして離さなかったのです。じょうごをつたってペットボトルに流れ落ちていきます、キラキラ太陽の光を反射して。時折見える細かい花の繊維が愛おしく感じたその時でした、私の髪を柔らかな風がさらい、私はどうしようもない恐怖に一人立ちすくんでしまったのです。

彩りがない生活を送っていると、悪い夢を見るようになる。私が愛してやまない文化は「不要不急」とみなされてしまうらしく、平凡から退屈へのシフトになかなか順応できずにいた。ああ、この世界の淀みも、人の死も、未来にはきっと美談として崇め奉られるのだろうなと思うと、憂鬱で仕方がない。きっとその退屈さが、憂鬱さが、夏への焦燥感が私に悪い夢を見させているのだと思う。彩度が極端に高い画面の中、思わず、逃げて!と言いたくなるようなじりじり照りつける太陽の下で、ひとりの少女が汗を拭いながら必死に何らかの作業をしていた。見慣れた顔の子どもだ。すりばち、すりこぎ、じょうご、ざるなどの小道具を、たどたどしく手に取っていく。先生らしき人に見守られながら、ただただ好奇心で遊んでいるのだろう。少女は満面の笑みで花壇に咲く花をちぎっては、それを容赦なくすりつぶしていた。

保育園児が色水をつくっているだけの夢だ。

この夢をわたしは、悪い夢だと思ってしまう。夢の中でわたしは傍観者であり、少女でもあった。先生たちは、「お花さんは可哀想だけれど、綺麗なお水になってくれるし、いろんな道具に触れる事ができるのよ。だから感謝しましょうね」と言いながら笑っていた。ぶちぶち音を立てて花をむしり取っても、綺麗だった「お花さん」がざりざりとすり潰されて酷い姿になっていても。

綺麗な未来には犠牲がつきものなのだと、みんなが言う。こんな乱世、未来に訪れる自由のために、今は力を合わせて我慢しましょう、命をかけて働いてくれている人たちに感謝をしましょう、死んだ人に感謝をしましょう、冗談じゃない。じゃあわたしの憂鬱はどこへ行くのでしょうか、死んだ人たちの肉体はどこに流されるのでしょうか。あの時の犠牲で今を生きていられるだなんて、未来のわたしに言わせてたまるか。憂鬱は憂鬱のまま、退屈は退屈のまま、咀嚼して、飲み込んで、色素を無くした残骸になりましょう。未来の美談のためではなく、過去への懐古で生きていきたい。いつかの夢、また花の死体になれたなら。