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ザ・ラスト・エピソード

【週報】2017.04.29-05.05

ごあいさつ

 こんにちは、うさぎ小天狗です。
 更新が滞っており、申し訳ございません。私事でバタバタしておりました。
 具体的には弔事です。
 諸行無常がこの世の習い、出会いがあれば別れもあるものです。たくさんの人と出逢えば、それだけたくさんの人と別れなければなりません。あるいは、いつか自分もこの世とお別れしなければならない……そんな感慨が、年を経るごとに強まっていきますが、だからといってそれを受け入れることが上手くなるかというと、これはただ量の話ではありますまい。
 いかに別れと向き合うか。どう別れを受け入れてきたか。そもそも、その別れはどのような別れだったのか。ぼくたちが「別れを受け入れるのが上手くなる」ためには、そのような「うまい」別れ方の経験が必要なのではありますまいか。
 ただ、そういうことには、時間が使われてしまうものであります。

『バットマン:ザ・ラスト・エピソード』

 このnoteをご覧頂いている方で、バットマンをご存じない方はいらっしゃらないでしょう。この世で最も有名なアメリカンコミックスヒーローの一人であり、その中でも二番目に歴史の古いヒーローであります。
 バットマンが初めてこの世に現れたのは1939年。それから七十八年間、紆余曲折を経て、彼はアメリカンコミックスの歴史に影を落としてきました。そして、今なお現役のヒーローであります。
 彼とともに、アメリカンコミックスの歴史に影響を与えるヒーローといえば、彼の登場の前年である1938年に現れたスーパーマン。「ワールズ・ファイネスト(世界で一番素敵なやつら)」とも呼ばれるこの二人は、その名の表すとおり、アメリカンコミックスの歴史を牽引してきた、最も有名な存在です。
 そして、この二人は、アメリカンコミックスの光と影を体現する二人でもあります。生まれつき超人的な存在が超常の力を持ち、太陽を背に飛ぶスーパーマンは、キリスト同様、人の理想の具現化です。そしてただの人間が知恵と勇気を武器に、闇を駆けるバットマンは、人の実存の証明です。理想と現実、希望と限界といった、相反する二人が、ともに一つの出来事――「悪」に立ち向かう姿は、普遍的な人間の苦闘の再現であり、同じ存在の両側面なのです(個人的には、ここに「ただの人間が超常的な力を得た」スパイダーマンが加わることで、アメコミ的「三位一体」を構成すると思っております)。
 このような存在であるバットマンは、だから、必然的に人の限界と向き合うことになります。そもそも、彼は「両親の死」により誕生しました。世界の不条理、人間の限界に打ちのめされたところから、彼の限界への挑戦は始まったのです。限界に挑戦し、限界を拡張していく存在であるバットマンは、常に限界を意識せざるを得ません。そして、人としての絶対的な限界――すなわち「死」と向き合うのもまた、バットマンの使命であります。
 そのためのエピソードとして制作されたのが、『バットマン:ザ・ラスト・エピソード』です。

 限界に挑戦し続けた男に、最後に残された挑戦が、絶対的な限界に対するものであった――そしてその結果やいかに? というのが、このマンガの内容です。お話を考えたのは、イギリス人のコミックライター(お話を考える人)であるニール・ゲイマン。アメリカ人とは少し違った感性の持ち主である彼が描いた、バットマンの「死」は、非常に神話的であり、物語論的であり、私見ですが東洋的であります。
 七十八年の歴史の中で、繰り返し語られてきたバットマンの冒険は、彼の生まれた背景である「不条理」と「悲劇」を繰り返し語ることでもあります。「人は悲劇の中に生まれる」というパラダイムの、なんと東洋的であることか。
 日本の古典において、この世は「憂き世」と言い表されます。仏教においては「生病老死」と数えられるこの世の苦しみの中に、「生まれること」「生きること」が入っています。あるいは先の「生病老死=四苦」に「怨憎会苦(ネガティヴな感情を避けられないこと)」、「愛別離苦(愛することや別れること)」、「求不得苦(求めるものが得られないこと)」、「五蘊盛苦(感情や観念や行動をコントロールできないこと)」を加えて「四苦八苦」といいます。
 これはまるまるバットマンの冒険に当てはまります。いわんや、我々の人生をや。もちろん、本来の思考のルートは逆です。我々の人生が苦闘と挫折の連続であるからこそ、バットマンの冒険もまた苦闘と挫折の連続なのです。
 そして、そうしたバットマンの冒険の始まった場所、両親の死の現場である「クライム・アレイ」でしめやかに執り行われる「バットマンの葬儀」を語るのは『バットマン:ザ・ラスト・エピソード』でした。

葬儀の意味

 物語はバットマンの葬儀に現れる人々を描きます。彼らはバットマンとの思い出を語ります。それらは相互に矛盾します。これを「七十八年の歴史の中で少しずつ変質していった設定」の表れと捉えることは可能ですが、同時に「ある人物に向けられた気持ちは、持ち主の主観による」という事実を表してもいます。
 葬儀とは、なるほどそういう場でありましょう。故人が自分にとってどういう人物であったか、それを最後の最後で確認する場が、葬儀という儀式なのです。つまり、他人が故人をどう思うかは関係ない。死んでしまったものと、まだ死んでいないものが、最後に向き合うときが、葬儀なのです。
 そして、物語は、この葬儀を眺めているもう一人の人物――すなわち、バットマンの視点で進みます。自分はなぜ死んだのか。自分が死ぬとはどういうことなのか。死んだ自分と、今いる自分の関係はなんなのか。死のその先にはなにがあるのか、なにかがあるのか。
 これもまた、残されたものの思考です。我々は死者と対峙するとき、そこに不思議な見当識の喪失を起こすのです。死んでいるものと、それを眺めている自分は、同じ人間でありながら、違う存在であります。主客が逆転しない絶対的な事実が明らかでありながら、主客が逆転しない理由が明らかでない。なぜなら、いずれ自分も目の前の死者と同じように、死んでいくべき存在だからです。
 そして、この見当識の喪失が、ある神話的なパラダイムに結びつきます。我々はなぜ生まれてくるのか、我々はなぜ我々それぞれでしかありえないのか。他人になってしまわないのか。「自分」という不条理が、運命であり必然であるところの、より大きな世界の流れの中に規定され、「人生の意味」となる。
 つまり、葬儀とは、大いなる運命のもとに「自分がなにものであるか」を、「死」という絶対的な限界を通して理解することでもあるのです。

運命、あるいは老婆とティッシュ箱

 このことを、ぼくが理解したのは、病院のロビーでした。
 亡くなったのはぼくの祖母でしたが、彼女が亡くなったことを物理的に認知され、いよいよ最後の別れに向けて彼女の体が清められることになったので、ぼくたちは病院のロビーでそれが終わるのを待っていました。
 その時、ぼくたちの他に、ロビーに一人の老婆がいました。老婆は、車椅子に座って、ロビーのテーブルで朝ごはんを食べていました。ご飯を食べながら、時折、側においたティッシュ箱からティッシュを抜き取り、汚れた手やテーブルを拭っていました。
 ぼくは、ふと、ティッシュ箱の模様に目をやりました。
 ティッシュ箱の模様は、バットマンのロゴでした。
 その瞬間、名状しがたい閃きがニューロンを駆け抜けました。閃きの正体は、ここまで書いた内容とほぼおなじものです。
 老婆という共通点。バットマンという共通点。
 人の死という共通点。
 この共通点のトライアングルに思いを巡らすぼくの側で、下品ラビットがスマホを構えました。黙って、無音カメラでティッシュ箱を撮影する彼を、ぼくは止めませんでした。

 なぜ止めなかったのか。
 それは、これこそが物語だと思ったからです。
 我々が物語るのは、それが我々の人生から生まれるものであり、我々の人生を生み出すものだからです。物語ることによって、我々は我々の人生を評価し、その評価を前提として、我々は生きるものだからです。
 ぼくたちがこのあとも生きていくために、祖母の死という偶然を、同じ病院でまだ生きている老婆がいるという偶然を、彼女がバットマンのティッシュ箱を使っていたという偶然を、物語にして語る必要があると直感したからです。
 バットマンというヒーローの物語が我々の人生に寄り添うように、祖母の死を一つの物語とすることで、ぼくたちは生きていくことができるのだと、そう思ったからです。

ヤラカシタ・エンタテインメント

 ぼくたちが生きるための活動とは、こういう形で「物語」を語ることにほかなりません。
 実は、ヤラカシタ・エンタテインメントという活動も、そういう「物語」の一つであります。
 いずれ詳しく語るときも来るだろうと思いますが、ヤラカシタ・エンタテインメントの活動には、今はもういない友人が関わっています。
 いや、ヤラカシタ・エンタテインメントだけではない……ぼくたちが生きるということは、死者とのつながりの上で、「死」という不条理の存在する世界を前提に行われることなのです。
 そのことを教えてくれたのは、ぼくたちにとっては祖母をはじめとする多くの死者であり、物語であります。その中には『ニンジャスレイヤー』もあります。特に第三部。ぼく個人にとっては、全面的に肯定できるシーズンではありませんが、その最終的なビジョンの一部には、非常に共感するところがありました。
 来週(これを投稿するタイミングではもう「今週」になってしまいましたが)更新するお話は、そういうビジョンをぼくなりに解釈したお話です。
 同時に、それはぼくの祖母の生前を、はからずも記録したものともなりました。
 ぜひお読みいただければ幸いです。

 では、また。


(うさぎ小天狗) 

 

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