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考えと行動の一致にはどこに向かえば良いのか

自分が考えていることと、自分が実際に行動していることを一致させることは非常に簡単でもあるけれども非常に難しいことでもあるんだよね。
これは仕事の場面でもスポーツの場面でも、どの様な状況においても非常に大きなテーマになってくるもんなんだよね。

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誰もいない場所で木が倒れた時にする音とは何か

「もし今、私たちの知らない遠く離れた地の誰も居ない森で、一本の木が倒れたとします。 その際に、その木は“音を出して”倒れたのでしょうか。」
という質問をした人がその昔にいました。
アイルランド国教会のジョージ・バークリー主教さんという人の問いかけみたいです。
普通に考えると音はしていると思うんだよね。だって木が倒れるんだもん。もの凄い衝撃があるから音は出ていると思うんだよね。
しかしだ、とても多くの哲学者とか心理学者の答は「木は音は出ていない」ということみたいなんだよね。
うーーん、いったいどういうことなのだろうか。
これは、「認知」ということをベースに考えるべき問題であるという解説があります。
音というものがそこに存在するからには、その音を誰かが認知しなければそれはそこに存在しないことになるという考え方のようです。
「存在というものは、そこに認知されることにより存在しうるもの」ということのようです。
ということは、そのものがそこに物理的に存在していたとしても、それが誰かの認知という行為に接しない限り存在しないということになるのか。
とても不思議な感じがしますが、まぁそうなのかもねとも思ってしまうんだよね。

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大槻教授がお化けはいないということについて

大槻教授は早稲田大学の客員教授でありタレントであり、お化けの話になるとよくテレビに出てきてお化けなんかはいないということを科学的に証明?説明を為てきた人なんだよね。最近はあまり見ないけど、というよりもおいらがテレビを見ていないからなのか?
彼が話をしていることは物理学という世界からの説明で、お化け/オカルトを信じている人たちとの丁々発止は見世物として楽しかったことを覚えています。
その彼があるときに言葉に詰まったことがあったんだよね。それが以下の紹介すること。
オカルト信者「お化けというものは、その人が見えるからそこに存在することになるですよね。」
大槻教授「物理的に存在するのであれば写真とかに撮影できるし、物理的に何かしらの痕跡が残るはず」
オカ「でもその人にはそこにあるように脳の中にその映像が見えるという事実があるとしたら、それはその人にとっては存在していることになりませんか?」
大槻「確かにその人の脳の中にそこにあるように見えると脳が判断できたら、それはその人にとっては存在することになるのは間違いないですけど」
オカ「ほら、その人がそこに見えるものがお化けであって、そのことが本当に見えているというのであればその人にとってはお化けは存在することになるですよ」
大槻「・・・確かにそういういい方であれば存在はすることにはなるけど・・・」
オカ「それがお化けというものなんではないでしょうか?」
というような会話でした。
大槻教授が言い負かされたことんだよね。
少し話は離れるけど、となりのトトロという宮崎駿さんの映画があるけど、その中に出てくる「まっくろクロスケ」という生き物?妖怪がこれに当たるように思うんだよね。おばあちゃんは子供の時には見えたけどというようなセリフもあるように、その人たちにとって見えるものが存在するんだよね。
大人になるとみたくないモノはそこに存在しないようになってしまうのか・・・

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新人君とのやりとりの中で

新人君の教育の一環として、自分が行動したことに対する4行日誌を書いてもらっています。
4行日誌とは
事実:今日あった「出来事(客観的事実)」のなかから1つ選んで書く
発見:上の出来事から「ひらめいたことや気づき(発見)」を書く
教訓:上の発見から得られたことを「教訓」として書く
宣言:最後に現在完了進行形で、将来自分がありたい姿を「宣言」する= “私は~をしている”
ということを毎日5分位の中で記録していくという思考方法の訓練のようなもの。
まぁそれはそれでよいのだけども、その中でおいらが色々と指摘をするわけだ。(偉そうにね(笑))
そうすると新人君は毎回の様に「承知しました」とだけ返事を為てくるんだよね。
それが、「君が書いたことをもう少し考えて見て」とか「疑問点が少しでもあれば質問してくるように」と色々なことを書いても同じ「承知しました」なんだよね。
まぁ良いんだけど、先日素朴な疑問としてこんな質問をしてみたんだ。
おいら「単純な疑問です。毎回「承知しました」という記載となっていますどの様に何を承知したのかということを相手に伝えようと意識していますか?」
新人君「意識はしているつもりでしたが、言葉が足りないのかもしれません。」
おいら「そうだね。意識していても相手に伝わらないと意識してることにはならないことの典型だね。(中略)相手とコミュニケーションを取ることの意味をきちんと理解してその行動を取ることが仕事第一歩です。」
おいら「 使っては行けない言葉として以下の二つがあります。【わたしはそう思ってました。】と【あなたがそう言うのであれば】(中略)どちらも自分本位で相手のことは考えてませんと宣言していることになります。コミュニケーションを取るということに対することを強く意識して、それを行動に表してください。」
新人君「承知しました。コミュニケーションを取るということを強く意識して、行動していこうと思います。」
という感じの会話があったんだよね。
笑い話様な本当に話なんだけど、自分がそう思っていても相手にそれが伝わらなければそれは思っていることにならないんだよね。
自分自身のことであれば良いけど、仕事の中で相手(お客、上司、部下)に思っていることが伝わっていない状況というものは、自分が何を思っていても思っていなくても同じことにしかならないということをきちんと考えて欲しいのだけども、なかなか難しいよね。
かくいう、おいらも思っていることが相手にきちんと届いていないので、この様な事になっているわけだからさ(笑)

このように、自分が考えていることとそれが相手にどの様に映っているのかということが非常に重要なことが解るわけだ。
自分が考えていることがそこに存在するためには、相手にその存在を認めてもらうしかないことなるんだよね。

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スキーではどうか

では、毎度おなじみスキーの世界でこのことを考えてみようと思う。
先日プライズ検定なるものを受検してみたんだよね。去年は雪不足とコロナ禍の影響で一度も受検できなかったので、久々の受検でした。
結果はダメダメだったので点数とかは聞かないでね(笑)
その事前講習の中で講師の人に言われた時のこととして次の様なことがあったんだよね。
小回りの練習をしている時に「ターンの前半と後半の動きが逆です」という指摘が・・・おいらとしてはターン後半のスキーの走りを見せたくて動いている動きをしていたんだけど、それが相手には伝わっておらず「ターンの前半が軽くて後半の動きが変になっています」という指摘になっていたんだわな。
それを受検前日に言われても・・・今まで練習してきたことを全否定されてしまったんだな(笑)色々と工夫はしていたんだけど、それまでの練習の成果は出せなかったんだな。まぁ出せてもダメだったのかもしれないけどね。
うーーん、自分が考えてそれに基づいて運動をしているつもりなんだけれども、それが相手に伝わっていなければ、その運動は間違った運動になっているのかという疑問があるんだよね。
これがスキーの世界の難しさであり楽しさでもあるんだと思う。
自らの身体の動きと遠心力と重力による落下の力と雪質という魔物が加わって、自分が思っている通りに動いていたとしても、外から見たときに思っているような動きにならないことが非常に多いんだよね。
最近ようやっと自分が考えている動きと外から動いているように見えるものが一致し始めているんだけど、まだまだ修行が不足しているんだよね、きっと。
で、その時のビデオなど映像に分解したりして、色々な発見があったのでまた試してみたいと思います。
自分が考えていることがどの様に身体表現として相手に伝わるのか、相手が求めているものに対してどの様な動きをすれあそれが実現できるのか。
採点種目の難しさだよね。

ということで、考えと行動を一致させるということは非常に簡単でもあるけども難しくもあるということでした。



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