量子力学と観察者の限界

「シュレーディンガーの猫」のように量子力学に入ると、物体それ自体の存在を見ていたはずが、観察者という自分自身がそこに出てくるようになる。ギリシャ哲学のアトムのように、物体はそれ自体、観察者とは関係なく存在しているはずだが、素粒子という観察の限界に至ると、そこに観察者が見るという行為によって決定するという事態が発生した。「我思う故に我あり」というデカルトの近代哲学の基礎に戻ってきたわけだ。電子が粒子と波という排他的なはずの性質を同時に持つことに対する説明としてその定義からやり直さなければいけなくなってしまった。

しかし、ここから生まれる言説として、観察者の思い込みによって世界が変わるという錯覚ももたらしてしまった。社会学における集団の規範もそれを後押ししてしまった。そこからは宗教に入ってしまいがちになる。現実には観察者の思い込みによって対象物質の実体が変わるわけではない。観察者と対象物質の関係によって決まるのであって、観察することの限界を示しただけだ。声の大きい観察者や一つの方向を向いた社会集団の「意志の勝利」によって事実が変わるわけではない。そうでなければ殺された人間は報われない。社会集団の「意志の勝利」というファシズムが破滅の奈落に向かうことは歴史が証明している。

社会科学は実務的と見られている経済学も含めて、科学と言えるのかどうか未だにあやふやなところがある。経済学は後付で過去の経済を法則化するが、自然科学のようにその法則で未来を予測したことはない。そんなことが出来てしまったら、それを知った株主だけが大儲けをすることになる。過去の法則と次の法則のイタチごっこの中で社会科学が成立している。人文科学は最も科学から遠い感性的な世界と思われがちだが、自然科学の定義から始める哲学の存在のため、科学としては人文科学は自然科学の上位に位置する。

現在、量子コンピュータの研究が進められている。今あるコンピュータのCPUでも、メモリー上のマルチタスクやマルチスレッドはある。しかし、CPUは一つで直列に処理される。デュアルならば2つ、クアッドなら4つだが処理自体は1系列処理されるフロー上にある。量子コンピュータはハードウェア上で複数視点の処理を同時実行する。量子力学における観察者が複数いる状態をハードウェア上で生み出して処理をしていく。

以前、公開鍵方式という暗号復号化技術によって、電子決済、電子通貨やクラウドが成り立っていることを書いた。公開鍵は総当たりをすれば解読されてしまうが、CPUの回転速度の上昇率を見ても、現実的でない時間がかかることによって暗号化が担保されていることも述べた。しかし、そこには量子コンピュータの想定は入っていない。量子コンピュータの登場によって、再び、現在の生活の基盤となっている電子決済のリスクが生まれている。

量子コンピュータはCPUの回転数ではなく、デュアル、クアッドという規模によって、CPUの回転数の相乗規模の演算を可能にする。これによって、公開鍵の暗号化の担保想定は崩れてしまう。

量子コンピュータがもし普及することになると、今度はどのように実現するのかよくわからないが、量子暗号化というものも生まれてくるのだろう。しかし、電子処理は今よりも重くなっていくだろう。そもそも公開鍵方式が総当たりでしか解けないというのも証明された訳でない。

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