文化人類学

大学の頃は文化人類学を専攻していた。世界各地、特にアフリカの文明から隔絶された民族をフィールドワークすることにより、人類の進化の歴史を探るという学問だ。はじめは民族の生態を探る自然科学から始まり、社会構造を探る社会科学、世界観を探る人文科学へと拡がるという、科学の中でも分類の出来ない経緯を辿っている。

文明から隔絶された民族というのも今では少なくなってきたが、20世紀にはまだそういう所もあった。文化人類学として名が知られるようになったものとして20世紀半ばのエヴァンズ・プリチャードによるアフリカのヌアー族のフィールドワークがある。そこで現れたのはヌアー族の諺「双子は鳥だ」だ。

論理式としては矛盾しているこの言葉についてエヴァンズ・プリチャードは象徴(symbol)という概念でそれを説明した。日本国憲法でも使われている象徴だ。象徴という概念が当時流行ったのだ。それなのでこの憲法はいかにも外国人が作ったという言葉が使われている。レヴィ・ストロースは構造主義で説明し、ヌアー族の世界観を説明しているとした。

「双子は鳥だ」という言葉について、ヌアー族の人々それぞれに聞いても様々な答えが返ってくる。人によってはそれぞれの思惑があって、いろいろな答えが返ってくる。文化人類学者達はそれを額面通り受け取って、いろんな理論で語ろうとする。しかし、自分自身の文化に照らし合わした方がそんな説明よりももっとしっくりきたりすることもある。

わざわざ飛行機に乗ってフィールドワークをしに行くより、まず自分たちの文化を文化人類学者はわかっているのかというところにぶつかる。文化人類学者は現代文化をまず説明出来ているだろうか。量子力学で自分自身に戻ってきてしまったように文化人類学もまた自分自身に戻ってきてしまう。

日本人は無宗教と言われてきた。だから日本の文化人類学者は宗教を持っている民族のところへ行ってフィールドワークをする。それが近代的アプローチに見えた。しかし、近代という視点から見て日本ほど特殊な宗教観が残っているところもない。アジアでいち早く近代化に成功したはずの日本は神道という、一神教から脱皮して出来た西洋近代から見ると、もっとも原始的なはずのアニミズムがそのまま残った宗教観をしている。無宗教に見えるのはアニミズムだからで、キリスト教徒でもないのにクリスマスを祝ったり、結婚式は教会で行ったりするのも無宗教だからではなく、このアニミズムから来ている。そこでは普通に日本語話せるのにわざわざカタコトの日本語で話す外国人が取り仕切り、牧師であることすら怪しく、もはや日本の神道の世界の一員ですらある。そこに葬式は仏教で上げたり、先祖を供養するという儒教の側面もあったりするのも同様だ。

日本は小国のように自分たちを思っているが、1億人という人口は大国に位置する。いち早く近代化を実現した1億人がもっとも文化人類学のフィールドワークの対象になる原始的な世界観を縄文時代から維持していることになる。無宗教で近代人だと思っていた自分たちが実は近代人かどうかあやしくなる。

宗教以前に世界に影響を与えている漫画やアニメ、制服文化にもこのアニミズムが基礎にあるとも言える。そもそも仏像というものも仏教自身というよりも仏教のメディアだった。仏像は元は仏教には無かった。ギリシャ由来のヘレニズム文化から来たものだった。その大元、ギリシャにおいても宗教は多神教だった。多神教の世界観で築き上げられた哲学や科学が、東方世界に残り、偶像崇拝は継承を拒否したイスラム世界にその中身は継承され、十字軍がそれをキリスト教世界に持ち込んだことでルネサンスが起きて、西洋近代が生まれた。進化の歴史とは関係なく現代も活躍しているのがアニミズムであることがわかる。

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