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『羅小黒戦記』からポストコロナの中国を考えてみた

中国のアニメ映画『羅小黒戦記 ぼくが選ぶ未来』(以下『羅小黒』)を観なおした。

前に書いたエッセイで既に結論めいたことも書いたのだが、今回もう一度観たら新しい気づきがあったので、いろいろとまとまっていないながらも考えたことを書き留めてみたいと思う。

『羅小黒』はわりかしシンプルな作品であり、例えばジブリの作品などと比べてもそれほど批評的に読み解くべきところがないかもしれない(自然と人間の関係性というテーマでは『もののけ姫』や『ぽんぽこ』のほうがはるかに深い)。しかし、シンプルさゆえの力というものがあるとも思っている。例えば複雑極まりなく、思想的にきわめて深い中国武術と、ボクシングと比べたらどちらがより実戦的に有効なのかと考えると私は圧倒的に後者だと思っている(自己修養という目的なら圧倒的に前者であり、ここらへんの関係性は人文学と実学との関係に似ている気もする。)。

新しい気づきというのは、私が新しいコンテクストの中でそれを観たことで生まれたものである。というのも、ここ何ヶ月間、中国の新型コロナウィルスに対する防疫対策がさまざまな問題を引き起こして、中国にいる友人や家族の話を聞いたり、ニュースを見たりしていると頭がそのことでいっぱいになっているからだ。端的に言うと、中国の防疫対策はあまりにも徹底しているがゆえに、すべての社会生活がその一つの目標のみによって組織されることになり、少しでもリスクのある行為は例外なく排除され、抑圧されることによって生み出された問題である。

中でも特に病院の問題が取り沙汰にされている。多くの病院はPCR検査の陰性証明が必要であるために、一刻を争う救命医療ができなくなったり、そもそも病院自体を閉めたりと多くの医療資源が利用できなくなり、亡くなる人が続出しているのである。命を守るはずの防疫対策自体が死者を生み出すという矛盾が批判されている。私の祖母も吉林にいてコミュニティの中に閉じ込められている。先日目に炎症を起こして、ほぼ目を開けられなくなってしまっているが、それでも病院に行くことができずにいる(本当にふざけんなよクソがと思っているが、本音を出さずに批判するのが大人だと思うので言わないでおこう)。

また、例えば厳しいロックダウン体制を敷く上海では、多くの人口を抱えているがゆえに、食糧不足が極めて深刻な問題を引き起こしている。支援物資が足りない、ネットショップでも買えない、買えても配達してもらえない、配達してもらえたとしても時間が経ちすぎて食料が傷んでしまい食べられなくなってしまう、こういった問題が人々の生活を脅かしている。

さらに、経済や社会生活は長引くロックダウンと厳しい規制によって破壊され、失業者があふれ、大学卒業生の就職率がわずか23.6%であると言われている。庶民の生活が脅かされている。

他にもさまざまの聞くに耐えないエピソードが多々あるが、裏を取ったわけではないので、言及は遠慮しておこう。

重要なのは、中国国内で、特に上海や吉林では、中国の防疫対策に対して強い不満が噴出していること、これまで中国が築いてきた新型コロナの防疫の成功体験とイメージが音を立てて崩れているということだ。

中国作家の方方『武漢日記』は2020年に世界中で大きな話題になっていた。その基本的な論調は新型コロナウィルスの(地方)政府への対応の批判である(実際読むと批判としてはかなり控えめだが、批判として機能したのは事実である)。それによって、彼女は当時の中国で大きな支持を集めたのである。しかし、中国の防疫対策の効果が現れはじめ、メディアの論調も「一心同体で困難を乗り越えよう」のようなものになっていくにつれ、方方は逆に批判の対象になっていった。さらに決定打となったのは、『武漢日記』の海外での翻訳出版である。「方方の政府批判は海外の反中キャンペーンに利用されている!(意図的にそれに協力している!)」といった批判が噴出した。これは単なるナショナリズムに止まらず、当時の欧米では確かに中国人やアジア人に対する差別が急速に増えはじめていた時期であり、エリートに属する留学生たちからも不安の声が上がり、『武漢日記』のような批判的な姿勢はそれを助長すると危惧されていた。

方方は庶民のために声をあげる勇気ある批判者から「外国の敵対勢力の協力者」になってしまった。つまり、人々の方方に対する見方や姿勢が180度反転した。その後も欧米の感染状況が悪化し続ける一方で、中国の防疫対策によって人々は普通の生活を取り戻していた。私も国内の友人が感染のリスクも気にせずに生活できていることを羨ましく思ったことがある。

しかし、感染力の強いオミクロン株によって事態がまた急変し、上で述べたような状況が出現し、「中国の防疫対策が最も正しい」というイメージに再び疑念が持たれ、批判されるようになった。そこで「やはり方方は正しかった」のような声も聞かれるようになったりしている。

つまり、この二年間で中国の国内では、状況によって善と悪、正と誤が何度も激しく入れ替わり、反転しているということである。信じていた何かが間違っていたり、間違っていると思っていた何かが実は正しかったりと足場が何度もひっくり返されているのだ。

このような状況に対して、どう向き合ったいいのか、何を信じたらいいのかがわからない、というのが多くの中国人の心境のはずだ。こういった反転は中国では決して珍しいものではないが、これほど短期間の中でこれほど多くの人を巻き込んだものはそれほど多くない。

では、このことはどう『羅小黒戦記』と関係するのか。

前のエッセイで、この映画の中心にあるのは、「人間と自然の共存」といった表層的で中庸的ものではなく、「複雑性との共存」だと論じた。それを効果的に演出しているのはストーリーにおける反転である。

小黒を助け、彼に居場所を与え、仲間の暖かさを感じさせたのはフーシーたちである。それに対してムゲンはそのような平和と安逸を破壊する者として登場する。これは明らかに善人対悪人の構図となっている。

しかし、物語が進むにつれて、この構図が反転していく。

善人だと思われていたフーシーとその仲間は実は人間世界を壊して、妖精の住む世界を取り戻そうとする悪人、原理主義的なテロリスト集団のような存在であることが明らかになっていく。

そして、ムゲンも無口な悪人で、権力の手先だと思われていたのに、実は心優しい人で、人間と妖精の平和を守ろうとしていたことがわかってくる。

善悪がここで反転してしまうのである。

しかし、これは単なる反転ではない。というのも、ムゲンは妖精会館に属していながらも、完全にそこに帰依しているわけではなく、彼を排除しようとする者が少なからず存在すると後にわかったからだ。さらに、フーシーたちですらテロリストになった過程や理由が描かれることで「悪」の側に完全にいるわけではないということがわかってくる。

最も印象的なのは、ムゲンと小黒が協力してフーシーを打ち破った後に、ムゲンと小黒の会話である。

「フーシーは悪人なの?」という小黒の問いに、ムゲンは「私に聞かずとも、自分で答えを出していい」と答える。

反転に次ぐ反転の後に映画の最後で善悪という構図で世界を捉えずに、その都度「自分で答えを出す」ことを奨励する。

これが『羅小黒戦記』という映画の最も根本にある思想であり、中国という文脈においてシンプルだがきわめて批評性のあるものだと考える。前に「複雑性との共存」という言葉でそれを表現したが、必ずしも完全に適切なものではなかったのかもしれない。というのも、ここにあるのは複雑性というよりもむしろ「潜在性」だからだ。

「潜在性」とは何か。

こうだと思っていた物の見方が、別のコンテクストに置かれることで全く違う様相を示すことは日常的に起きている。木は森の中に置かれることで自然の一部になるが、火に焚べることで例えば料理や暖かさといった意味を帯びる。さらに、建材として「家」という意味を持つこともできるが、それが建材として火と関わる(=コンテクストを構成する)と今度は恐怖の対象となる。ここでは、木が複雑性を持つと考えるよりも、異なる物や意味体系との関係の中で潜在的に持っていた可能性が現実化されると考えた方がしっくりくる。木の属性の中に建材となることがあらかじめ含まれていたというより、むしろ建材が人間との関係の中で創発してきたと考えた方が適切だろう。

フーシーたちと小黒がもし別のコンテクストの中で出会っていたら、それこそムゲンとのような関係性を築くことができたのかもしれない。彼らはそのまま孤島の上で静かに、幸せに暮らしていくことだってありえたのだ。

そういった別のコンテクストにおける別の潜在的な可能性を考慮した上でフーシーの所為を捉えることが重要である。フーシーはいい人から悪人へと変化し、ムゲンは悪人から良い人へと変化する。さらに、フーシーが悪人かどうかはシャオヘイの判断に委ねられることでまた別の潜在的な可能性の余地が開かれる。ムゲンも単に良い人、つまり妖精会館の一員として良い人だというわけではなく、彼の存在を快く思っていない者たちの存在を仄めかすことでその立場を別の可能性へと差し向けている。極端な話、ムゲンが今度極悪人として妖精会館と人類の両方から追われるようになる可能性も残されているのだ。

これは「悪しき相対主義」なのだろうか。例えば、中国がよく使う論法として「西欧的な民主主義や人権概念は絶対的なものではなく、中国というコンテクストにおいて機能しない」といったものがあるが、それと同じだろうか。ある意味においては、そうだと言わざるを得ない。しかし、ここで「ある意味において」とは「あるコンテクストにおいて」という意味で取らなければならない。言い換えれば、コンテクストの移動による別の潜在性の顕現という原理は、中国の政治体制についての議論の中で相対主義として機能しうる、ということになるだろう。しかし、現実としてそのコンテクストでは相対化はある種の絶対化とともに機能している。つまり、西欧的なものなら何でも相対化するが、それをするのは「ほら、中国のほうが全然すぐれているだろ」という絶対化のためなのだ。

作品というものは単に何らかの原理を開示するわけではなく、そのような原理が機能する特殊なコンテクストを構成し批評する。『羅小黒戦記』もまた「悪しき相対主義」とは異なる独自の批評的なコンテクストを開示しており、それに踏みとどまることでしか見えてこないものを持っている。

「フーシーたちは悪人=テロリストである」という見方は確かに相対化可能なものとして描かれているが、だからといって彼らの所為に対する評価が変わるわけではない。たとえフーシーたちが善人である可能性を強く意識していても、彼らの行動はやはり止めるべき悪だろう。

相対化可能だということは、相対化すべきだということを意味しない。むしろ逆に、その相対化という行為自体がいかなるコンテクストにおいてなされているかという思考を要求する。

フーシーたちと小黒との関係は確かにはじめから欺瞞に満ちたものだった。最初に小黒を襲った人間たちは虚な目をしていたことから、フーシーの仲間に操られていたことがわかる。しかしながら、小黒から領界を奪おうとするフーシーを止めようとした仲間がいたこと、フーシー自身も葛藤していたことを考えると、そこに確かに何か絆のようなものがあったといえる。

それを踏まえた上で、フーシーたちを単なる悪人として処理することはできない。もちろん、「ある人を判断する基準はその人の行為に限定すべきだ」という信条の持ち主だったらそれでも悪人として断罪するだろうが、それは出来事を閉じるための所為であり、閉じた後は何も起こらなかったかのように日常がもどってくると期待している。

フーシーが死してなった森を公園にするにせよ、伐採して建材にするにせよ、まさにあたかも何も起こらなかったかのようにこの事件を閉じるための所為にほかならない。フーシーは最終的に悪人として扱われ、歴史は忘れられていく。

しかし、『羅小黒』はそのような反転の後の忘却、より抽象的に言うと相対化の後の絶対化に抵抗する。フーシーは大層な理想を掲げていたがまったく善人ではなかった(その理想の相対化)、その一味はただの悪人でテロリストであり、そのほかに下すべき評価はない(その評価の絶対化)というような結論は許されない。いかなる善悪の反転があったにせよ、もしくは事件はどれほど相対化されてきたかにせよ、フーシーがどのようなコンテクストからその行為に及んだのか、そこに至るまでどのような歴史があったのか、そういったことを踏まえて、別の可能性に想像力を働かせながら「自分で答えを出」さなければならないのだ。

フーシーが行ったことは絶対悪である。その点について疑問の余地はないし、彼は大罪人として断罪されるべきである。生きていたら責任を負わされていただろう。しかし、その悪の背後には別の潜在的な可能性があるということ、それを意識することは未来への足場となるのではないか。

例えば、「フーシーが理想としたような、世界にとってのウィルスごとき人間をまったく排除した世界の実現よりも、うまく共存する道もまたありうるのではないか」といった新しい可能性はまさにその意識から生まれるだろう。さらにそこから進んで、そのような潜在的な可能性を現実化するためにはどのような環境=関係性=コンテクストを構成すべきかといった議論もまた可能になるだろう。

『武漢日記』の事件の後、中国では、欧米の防疫政策は多くの死者を出してきたから、まったく杜撰なものだという反転または「相対化」が行われ、中国の防疫政策こそ最善なものであり、それ以外の評価はありえないという「絶対化」が行われた。しかし、中国ではいまやその防疫政策のせいで多くの問題が引き起こされているし、中国という国に絶望し、国外移民を真剣に考えはじめた人たちも大変増えてきていると聞く。さらに、私の親族で根っからの中国共産党信者(「党のいうことはすべて正しい」と考える人たち)でさえもこのままでは国が危ういと憂慮しはじめている。

『羅小黒』を観なおしながら思ったのは、重要なのはそれぞれの反転と相対化を絶対化するのではなく、常に未来における反転や変化の可能性を意識しながらこれまでの歴史を踏まえながら「自分で答えを出す」こと、そしてしかるべき未来を選ぶことなのではないか。「選ぶ」という行為はさまざまな潜在的な可能性に開かれてはじめて可能となるものである。その意味で、「ぼくが選ぶ未来」は絶対化と可能性の抑圧に抵抗した先にやってくるものにほかならないはずだ。

まとまらない考えを長々と書いてきたが、とりあえず私はいま願っているのは、中国の防疫が最終的にどのような着地点を見つけるにせよ、「結局われわれは全面的に正しかったのだ」のような忘却が行われないことだけだ。そうなってしまっては、同じことがまた繰り返されてしまうだろうし、用意された答えは常に模範解答となるだろうからだ。

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