第七章　あいうえおんな(愛飢女)➖ She is hungry for love➖

Jさんのバースデーから数週間、これまでの激動の日々が嘘のようにしっぽりと、まるで北新地全体が疲れた身体をエステで癒すかのように穏やかな日々が続きました。

私のタバコはエコーからハイライトに変わりました。
たった数百円のランクアップ。
気持ちはリアカーからレクサスへと大きくのし上がった気持ちで一杯でした。
(※当時のエコーの値段は250円。ハイライトは420円。どちらも日雇い労働者から圧倒的支持を得ている)

ハイライトとは"最も陽の当たる場所"という意味を込めた造語。
最も私にふさわしい造語。ルーツも生き方も私のために造られたと言わんばかりのタバコ。
私は向日葵のような「憧れ」「高貴」といった花言葉がぴったりの常に陽と共に歩んできた人間なので、ハイライトの意味をしっかり理解し、今日も機関車のように煙を夜空に吐き出しながら出勤していました。

(※実際は没落した一族の長男として、一筋の光すら許さない暗闇で生まれ育ち、コンクリートの隙間からでも生きようとする薄汚い雑草。花言葉は「失墜」「堕落」)

やけに固いタイムカードを切り、仕事が始まりました。

暇な時間が続きます。
いわゆるノーゲストの状態が数時間続きます。

その間私は洗い場に隠れて、シコシコシコシコとディズニーツムツムに全てをかけるようにして取り組みます。
(※大学生活はもちろん詰む詰む状態。ツムのように明るい未来が一つずつ消えていく)

階段の方からかすれ声が聞こえました。
唐獅子牡丹のNさんを推しているIさんの登場です。

Nさんは180センチを超える長身、時折見せる少年のような一面でIさんの心を奪いました。

Iさんは北新地の高級クラブで働くホステス。
一寸の狂いもない完璧なパラパラ、暴力的に強い酒、場を盛り上げる特殊能力を武器に極太客をたびたび引っ張って来ます。

アルバイトの私にもいつも優しく、私自身悪い人ではないという認識でした。

ただ、時折見せる巻き舌。
今にも口からミニバイクが飛び出して来そうなほどの巻き舌。
南巽の路地裏にワープしたかのような錯覚を与えてくれます。

この日のIさんは1人。
いつも通りNさんが横に座り、乾杯。
時に笑いながら、少し恥じらいながら2人の時間は進んでいきます。
Iさんの獰猛な血は一滴残らず洗い流され、愛という透き通った綺麗な血が、全身に隙間なく供給された純粋な女の子になっていました。

Iさんの職業は水商売。
お客様に夢のような時間を与えるプリンセス。
偽りの愛を捧げ、お客様を一晩限りの王子様にしてあげます。
偽りの愛情はいつの間にか先頭に立ち、彼女の心の中を暴れ回ります。
行き場を失った真実の愛は、まるで糸の切れた凧のようにふらふらと虚空を漂うしかありません。
愛を忘れた心はいつしか、教室に干されたボロ雑巾くらい渇ききっていました。

そんな心のゴビ砂漠にたくさんの緑地と湖のオアシスを与えたのがNさんでした。

私は感受性豊かな"歩く心のノート"と呼ばれた人間なので、この2人の動向を注視していました。
(※実際は北斗の拳の種もみおじさんの回で爆笑してしまうほど感受性が著しく崩壊した心のノートが閉じっぱなしの反社会的勢力)

ちょくちょくデュエットをしながら、時間は刻々と閉店に近づいていました。

Iさんの憩いの時間。
真実の愛に直接触れれる思考の時間は、閉店と共に蒸発し、空に消えてしまいます。

Iさんは会計を済ませ、帰ります。
去り際の顔は、真実の愛から離れたくないと、愛に飢えもっともっと触れ続けたいと言わんばかりに名残惜しそうでした。

Iさんが退店後、唐獅子牡丹のNさんはIさんへの愛について語りました。
「あいつババアやから。一切興味あらへん」
無慈悲すぎるNさん。
愛すらドブ川に投げすててしまうNさん。
私は、清潔で健やかな花王のような人間なので、この言葉に涙が止まりませんでした。
(※実際は人の不幸で米二合かっ喰らうゴキブリ以下の人でなし)

真実の愛に飢え、最後の最後まで手を伸ばす女。
偽りの愛で接し、投げられた愛をドブ川に全力で投げ捨てる男。

水と油、漂白剤とトイレ洗剤。混ぜるな危険。
決して交わってはいけない運命の歯車。

いや、交わることなんてないだろう。

そう思っていました。

しかし、後にこの二つの歯車はガッチリと、あらかじめ決められたかのように交わった後、音を立てて崩壊し、放射能を撒き散らしながら辺り一帯を焼け野原にしてしまうことになります。

やけに硬いタイムカードを切り、外に出た私はカバンから出てきたエコーの空き箱を暗い過去を揉み消すよつうにゴミ箱に叩きつけ、高貴で崇高なハイライトに火をつけました。
深く煙を吸い込んだ後、南海電車へと向かいました。
(※南海電車とは南大阪と大阪市を結ぶ私鉄。治安が悪い、もしくはだんじり文化がある場所にしか走らない非常に危険な電車。ホームが関西私鉄で一番汚い)

……続……