舞踏とキャバレー:6 あの頃、土方さんはひじょうに羽振りが良かった

■6 あの頃、土方さんはひじょうに羽振りが良かった

慶人 僕より10歳上が土方巽。それからまた23歳上が大野一雄なんだ。僕に言わせると土方巽と大野一雄は夢見る人なんだ。現実味が全然ないんだな。平気で夢みたいなことを考える。
 僕はいつも「お金はどうするんですか? やりたいのは分かるけどお金はどうするんですか?」と言ってお金の都合のことばかり考えてるんですよ。僕は横浜で17年間実業をしてましたからね。ある意味、事業で成功してた訳ですよ。お陰で銀行行けば借りられるんですよ。
 だから土方さんが「将軍」やったときは冷や冷や。冷や冷やよ。(会場笑 だから近づかないようにしていた。
 それでも保証なんかするでしょ。うちのおじいさんが死んでね、葬式してたんだよ。たくさんの人が家に来てたんだよ。そうしたら不動産屋が赤紙持ってきて貼るんだよ。(会場笑 ぺたぺた貼っていくんだよ。そうしたらそれが土方さんの保証なんだよ。
 次の日電話掛けたよ。「人の葬式のときに赤紙貼る奴があるのか」(会場笑 怒鳴りつけたら不動産屋がすぐ来て剥がしていきましたけどね。それは土方さんの方で処分できましたけど、生活の中ではしょっちゅうハラハラ、ドキドキ。
 突然「熱海に別荘買った」って言うんだよ(会場笑 見に行きましたよ。そうしたら「1,500坪の土地がある」って言うんだよ。財閥が持っていた丘の上の別荘を買ったんだよ。「すごいですなー」って言ったら、隣が岸信介の家なんですよ。いまの阿倍さんのおじいさんですな。別荘を持ってる政界の大立て者でしょ。「政治家と商売人が垣根越しに話をするらしいんだよ。それで話を決めるらしいんだ」とか(土方さんは)いかにも見たようなことをそれらしく言うんですけど、そういう家を突然買ったりね。
嵯峨 私たちね、新宿の「アートシアター」で「四季のための二十七晩」という一ヶ月近い連続公演をやったんです。
 公演が終わって楽屋に戻るとですね、芸能社(*註 芸能プロダクション)が来てるんです。私たちみんな芸能社から派遣されて(キャバレーに)行ってました。元藤さんがバンバン(仕事を)取っちゃうんですね。芸能社がカンカンに怒ってて「今日キャバレー穴空いてるけど、あなたどうしてくれるんだ!」って言って、怒鳴り込んできたことがありますよ。
武藤 芸能社というのは?
嵯峨 プロダクションですね。「勝木」だとか色々ありました。元藤さん自身は「佐野芸能」という名前を自分で付けて色々なところから仕事を取ってたんですけど。駱駝艦は「勝木プロ」(*註)が主でしたね。

*註 有限会社勝木プロダクション(東京都 新宿区 荒木町16-303)のことだと思われる。

武藤 志賀さんの書いた資料を見ても、ある時期の土方さんはひじょうに羽振りが良かったようですが、そうしたことはなかったんでしょうか?
慶人 「これから集金でキャバレー廻りするから一緒に行こう」と言って車で付いていったことがある。パッと出るとね、支配人が即行で40万円持ってくる。「20人ね」で、すっと受け取る。
嵯峨 私たちが入ってアスベスト館は女の子たちが増えたんですよ。そうするとキャバレーで儲けられる。私が入った頃は元藤さんと土方さんはアスベスト館の近所にある「嘉山荘」(*註 目黒区中町1丁目)という小さなアパートに住んでたんですよ。ところが女の子たちが稼ぎ始めたら、目黒に大邸宅を建てて、そこに住むようになったんですって。
 そこは借金で駄目になって変わって。その次はやっぱり目黒の「マンション雅叙園」(*註 品川区上大崎4丁目)というすごい高級マンションに移って。私たちは稼いできたお金を全部渡して、生活費と公演のための費用しか貰えなくて。だから芸術とキャバレーとが混じっているんですよね。
 最初のうちはキャバレーが多かったですけれど、石油ショック辺りからキャバレーの景気が悪くなって。そうすると浅草の「フランス座」とか新宿の「モダンアート」それから渋谷の「道頓堀劇場」などのストリップ劇場に行くことが段々多くなっていくんですよね(*註)。地方でもストリップ劇場。
 私は日ノ出町か黄金町か、ちょっと忘れちゃったんですけど、ストリップ劇場へレスビアンショーで入ったことがあるんですよ。だから「黄金劇場」がもしかしたら、そうなのかもしれない。
 
*註 当時ストリップ劇場では、踊り子は「ヌードさん」 、金粉ダンサーは「前衛さん」と呼ばれていたという。

武藤 そこはまだあるんですか?
檀原 本当はこの後その跡地( http://qgekijo.net/ )でツアーをやりたかったんですが、断られまして。facebook上に写真だけ上げてます。
慶人 「ダンシング・ゴーギー」もね、地方公演もあって「あっちへ行ってくれ、こっちへ行ってくれ」と言われてショーを見せて(*註)。

*註 慶人さんは二十歳過ぎから横浜港の大桟橋の袂にある「シルクセンター」で「シルクセンタードラッグス」という薬局を経営していた。当時はまだ海外に行くには船が中心の時代。「シルクセンター」に店を出すのは、かなりのステイタスだった。
 外国人目当てで始めた商売だが、外国船は医師もクスリも完備しているため、なかなか売れない。そこで土方さんたちと地方周りをするとき、地元の工芸品を仕入れて店先に並べるように心掛けたところ、外国人たちが珍しがって買っていってくれた。その売り上げを元に化粧品の取扱いを始めたところ、日本人の客も付くようになり事業が軌道に乗ったのだという。
 なお「ダンシング・ゴーギー」の興業に関して、地方周りと首都圏の仕事の割合、どちらが多かったか、という部分に関しては回数もしくはその感覚の記憶がないという。
 慶人さんは30歳で舞台を一度引退しているが、ショーは40歳までつづけていたという。ショーをやめたのは1968年の終わり頃だったと思う、とのこと。

慶人 それが最後になったら早稲田(* 正確には東京教育大学)卒業したのがどっかのホテルにいて火事出して死んじゃったんだよ(*註 磐梯観光ホテルの「金粉ショー火災」のことだと思われる。1969年2月5日、土方の弟子らで構成された舞踊団「セブンスター」の金粉ショーで使用する松明の炎から出火し、死者30名の惨事となった。被害者のうち2名が男性金粉ダンサーだった)そういう結末になってダンシング・ゴーギーもそろそろ終わりだと。それでゴーギーは終わりにしたんだ。僕が20代の頃でした。1960年代。最後はちょっと悲惨でしたよ。
嵯峨 磐梯ホテルですか? そういう事件があったので、私が入ったときはすごく人が少なかったんですよ。ショーの方はやめてしまって、芦川さんともう一人女の方がいらっしゃるくらいですごく少ない時期だったんですね。
武藤 あまり大っぴらに話すことではないのかも知れませんが、火事っていうのは土方さんの……。
田野 それはね、新聞にも出てるから皆さんご存じだと思うけれど、金粉ショーって今と違って化学薬品みたいなものがあって危険だったの。毛穴を塞ぐから。
嵯峨 いや、それは塗っても大丈夫。
田野 だから出る前は本来背中を空けるんですよ。出るっていったらパッと塗るんです。あたしが(金粉ショーの人たちと)一緒だったときはそうだった。でも段々(金粉の危険度が減って)良くなっていった。ただそれが火事っていうのは火が付いちゃった。
嵯峨 松明を使いますからね。
田野 それで火が早いんです。
嵯峨 楽屋にベンジンを置いておくんですよ。木の両端に布を捲いておいて出る間際にベンジンを掛けて舞台で火を付ける。そういう形だった。楽屋には常にベンジンがあった。常にそういう危険と背中合わせ。
武藤 それが事件として起きてしまって後始末をしたと。
田野 土方さんはそのケアをずっとなさってたのよ。(*註)

*註 出火の責任の所在を巡って裁判が行われたが、6年後、引火しやすい素材のカーテンを舞台の袖兼楽屋の入口にひいていたホテル側の防火管理責任を問い、焼死したダンサーを無罪とする判決が出たという。

磐梯観光ホテルの「金粉ショー火災」を報じた新聞記事

ー構成・檀原照和ー

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