7/8-7/14雑感

・職場で珍しく慌ただしくしていたところに、「安倍晋三撃たれる」の報。たいへん驚きスマホで見ると、拳銃で撃たれたと報じられており、最初はやくざも絡んだ過激派の右翼による犯行かと思いました。しかし、すぐに元海上自衛隊員(任期制自衛官)であると報じられ、現在では統一教会との関連が中心的な話題になっています。
・以下、リアルタイムの印象として。
・ショッキングな訃報の反動で美談めいたものが増えることは、多くの人が予想したとおりだし、やはりそういうものなのでしょうか。退任したとはいえ、いまだ評価が定まっておらず、総括の途中と言える安倍晋三に対して、必要以上に美談ムードで追悼をしていたテレビの報道番組に対しては、ハナから期待していないとはいえ、うんざりした気持ちになりました。選挙まえのタイミング、自民党支持者でない立場からするとなおさら。
・職場での雑談として「僕らがバタバタしていたときになんと安倍晋三が撃たれていたとは。まさかこんな暗殺みたいなことがあるなんて」みたいな話をしましたが、会話の相手は「安倍さん」と「さん」付けにしていて、まあ別にいいんですが、この「さん」付けに違和感を覚えました。似た話はネットでちらほら見かけました。政治家に「さん」付けは良くないと思っていますが、政治家を呼び捨てにする人はどう見られるのか(タレントや物書きに対して「さん」付けも抵抗があったけど、最近は以前より抵抗感がなく、自分もわりと付けている)。自分と一般的な感覚との乖離を覚えます。
・演説中の射撃ということで、雑談程度に話していたときは、僕は「暗殺」という言葉を自然と使いましたが、この言葉はマスメディアでは避けられているようです。たしかに自分で口にしながら「暗殺」という言葉に少しドキっとした感触を覚えています。全国紙の見出しが一律「安倍元首相撃たれ死亡」だったこともネットで話題になりました。その後、「テロ」という言葉が多く使われるようになりました。外国メディアでは「assassin(暗殺者)」という言葉が使用されているようです。
・とはいえ、これも報道初日から思っていたことですが、「テロ」という言葉にも少しだけ違和感があります。というのも、「テロ」は関係のない一般人も被害者になることを含んだ恐怖行為を指す印象だからです。だとすれば、明確に個人を狙った今回の事件は「テロ」たりえないのではないか。もっとも、無作為に狙ったのであれば「テロ」要素も出てきますが、無作為に安倍晋三が選ばれたとは考えにくい。しかし、応援演説のルート変更をしたのが前日なので、どこまで信念と計画性があったのかもよくわからないところではあります。しかし、犯人の供述によると安倍晋三を狙ったものとのことでした。
・「テロ」と名指されることの作用はなにか。思い出すのは、2008年の元厚生事務次官宅連続襲撃事件。この事件は、厚生官僚が狙われたことで当初は「年金テロ」と報じられたものの、実際に出頭した犯人が語った動機は「飼い犬を保健所に殺された」というものです。のちにはパーソナリティ障害という話も出てきており、結局は「年金テロ」と言えるものではなかったようです。このときは、思想犯による「テロ」の可能性が叫ばれることにより公安警察も介入し、途中から警察の縄張り争いになったことが批判されもしました。
・今回、「テロ」と報じられることによって、日本社会が「対テロ対策」を求める、すなわち、日本社会の管理社会化がいっそう進む懸念があります。あるいは、「暗殺」が「テロ」と言い換えられることで、安倍晋三という人物の個別の問題性が後景化する作用もありそうです。「テロ」においては、標的がランダム性を帯びるので。いずれにせよ、どのような言葉のチョイスで報じられるか、という点に注目する必要があると思います。マスコミに対する陰謀・隠蔽の指摘ではなく、あくまで、まずは、記号作用/神話作用の問題として。社会の動向というのは、ひとりの意志ではなく、そのような記号作用にともなった集団的な意志ならぬ意志によって決まっていくのではないか。
・さて、今回の事件を受けて、安倍晋三に批判的だった人からも「とはいえ、暴力は許されない。このようなことはあってはならない」という声が多く挙がりました。当然だと思うし、まったくもって同感です。ただ、同感のうえで、暴力が噴出するときの理路は確認しておく必要があると思います。
・ここからは一般論です。
・物理的な暴力が顔を出すのは、対話の土台が成り立たなくなったときです。どんなに意見や思想が違っても「話し合いは大事だ」という共通の土台があれば、物理的な暴力ナシで話し合いや意見交換ができます。暴力に頼らず、言論での意見交換の積み重ねで社会を築いていくのが、さしあたり民主主義的な態度と言えます。
・しかし例えば、一方が「話し合いが大事だ」と思っていても、もう一方が「話し合いより暴力の行使が重要だ」と思っていれば、相手は問答無用で暴力を行使します。あるいは、相手が「こいつとはもう話し合いができない」と判断すれば、やはり暴力を行使するかもしれません。
・そうして、次のような逆説が出てきます。
・すなわち、「話し合いが大事」派は、なにより「話し合いが大事」という考えを守るためにこそ、相手の暴力に対抗するための暴力を行使しなければならなくなるのです。「話し合い」の場を維持するためにこそ暴力を行使する、という逆説です。
・つまり、民主主義や対話を成り立たせるための土台自体が、なにより暴力の結果として成立しているのです。身近な例で言えば、ケンカや殺人といった暴力を取り締まり、非‐暴力的な空間を成立させるためにこそ、警察は合法的に暴力を容認されている、ということになります。非‐暴力的な空間は、高次の暴力によって維持されているのです。その意味では、民主主義こそ暴力的だという言いかたもできます。
・だとすれば、その「民主的」な社会の一員としてそもそも認められていないような立場の人が声をあげるには、なかば非合法の暴力にうったえざるをえない、ということになります。とくに近代の「民主国家」自体が、ある面においてはこのうえなく暴力的なので。
・アメリカの公民権運動をはじめ、本当にシビアな局面においてはそういうことがあったはずです。「革命」と呼ばれるいとなみも、そのような暴力とともにあったはずです(だから、個人的には、暴力をふるう/ふるわれることを見すえていない「革命」言説は信用していません)。この一般的な理路をまずは把握しておきたいです。
・一般論からじょじょに今回の事件に戻ります。
・今回の事件をめぐる言説を観つつ再確認したいと思ったのは、「暴力は許されない」あるいは「暴力ではなく言論で」という理念自体が別の暴力によって維持されている以上、その言葉が届いていかない領域が存在する、ということです。「暴力ではなく言論で」と言われても、もし自分がその「言論」空間の一員だと感じられなければ、なにかを訴える手段として暴力が選ばれる、ということになります。
・以下、今回の事件とは明確に区別して言います。
・安倍晋三は選挙で選ばれ、憲政史上最長という期間、総理大臣を務めました。その意味では、「民主的」に選ばれ続けた人に他なりません。しかし、その一方で、ある種の人――リベラル左派と言っていいでしょう――にとって安倍という人物は、「こいつとは話し合いができない」とさんざん思わされた人です。とくに安倍政権下で起こった安保法制の強行採決と公文書破棄という出来事は、一部の人との対話の道を閉じるものだったと思います。
・だから、そのような「こいつとは話し合いができない」という印象を強くもっていた人からすれば、同意も賛同もしなくとも、その暴力の行使の意味を理解できてしまったと思います。僕もその意味においては、暴力の意味を一定理解しました。
・そして、この暴力の理解の態度がさらに強く過激になると、「自業自得論」の方向に傾いていきます。とはいえ、「暴力の理解」から「自業自得論」までは、かなりのグラデーションがあるでしょう。
・僕は暗殺肯定の「自業自得論」は言語道断だと思っています。安倍政権の暴力的な権力性を批判するためにこそ暗殺を肯定しない、という「民主主義」的な「常識」を粘り強く考えるべきだという立場です。思想としては保守的で凡庸と言えるでしょう。
・「民主主義」の裏にある暴力を見すえない議論は批判されて然るべきだと思いますが、Twitterでは勢い、安倍暗殺をぬるく擁護するような言説も少しだけ飛び交っています。これはこれで、言葉で目立ちたいだけに見えてしまいます。暴力のゆくえを粘り強く考えていない、という点ではどちらも同じではないか。
・ややこしいのは、先ほども触れたとおり、安倍政権の批判者が対抗的に立てる「(戦後)民主主義」の理念こそ、米軍基地や天皇制という暴力の隠蔽によって成立している、と言えることです。安倍政権は、そのような左派リベラルの欺瞞性を批判してきた政権でもありました。
・とくに安保法制について、暴力という観点から考えたとき、強行採決された集団的自衛権とはなにより、日本が国際秩序の安定のために暴力のリソースを割くことだ、と解釈されるでしょう。
・安倍政権の功績として、しばしば外交のことが言われます。トランプ政権下で米中関係が悪化するなか、日米同盟の関係を維持したまま中国とも関係を続けたことの意義が指摘されます。
・だとすれば、安倍政権の外交を支持している者からしたら、リベラル左派が言う「民主主義」の空間こそ少なからず安倍が用意しているものではないか、といった反論もありうるでしょう。もっとも、僕にはそこまで判断できませんし、とても安倍政権が「民主主義」を維持したとは思えませんが。
・とはいえ、個人的には、この外交の問題と国内政治の問題を結ぶような議論や政党がずっとなかったことに不満を覚えています。かつては民主党系がそのようなものだったと思うのですが。
・ただ、これとて、ロシアのウクライナに対する「侵攻」によって、どう考えて良いのかわからなくなったのが正直なところです。ロシアにとっては、国際社会こそが「話し合いができない」相手であり、だからこそ問答無用に暴力を使用する。暴力のバランスによる国際秩序の維持は、はたしてどこまで有効なのか。
・ということで、ずっと蓋をしていた暴力が最悪のかたちで噴出したような印象です。とはいえ、考えてみれば、それこそ無差別殺傷事件や放火など定期的に起こっていたわけで、「話し合いができない」というすえの暴力の噴出はいくどとなくあったのかもしれません。今回の安倍晋三の暗殺と比べたとき、自分がどれだけそのような出来事についてまともに考えてこれたのかは、やはり内省しなければいけません。その都度ああだこうだと言いながら、結局は自分もまた、安倍晋三のような「惜しまれる命」にしか関心を向けていないのではないか。
・やや図式的に言えば、「こいつとは話し合いができない」と思ってしまったその人に言葉を与えてやるのが、いちおう「文学」の役割ということになります。大江健三郎を例に出すまでもなく。
・暴力に頼らざるをえなかった立場――ロシアならロシア、山上なら山上――の言葉とはなにか、というのは、やはり政治の言葉からは出にくいものではあります。
・とはいえ、そんなわかりやすい「文学」の定義に安住して良いのか、という気持ちもないではないですが。まあ、進めます。
・現在、犯人をめぐる状況が言葉にされていますが、短絡的に因果関係をつないでいるものが多い印象です。
・統一教会については無知だったこともあり、全国霊感商法対策弁護士連絡会の記者会見はけっこう衝撃的なものでした。
・【前提1】山上およびその家族は統一教会の被害者と言っていい立場でしょう。このような者に対しては、「文学」の問題として言葉が与えられて欲しい。
・【前提2】統一教会と安倍晋三は関わりがあっただろう。とくに、記者会見の場で出てきた「安倍政権になってから統一教会系の議員が露骨に起用されるようになった。それによって若手が統一教会との関係を隠さなくなった」といった話は、たいへんな話だと思いました。
・ただし、【前提2】はあくまでコンプライアンスの問題です。
・先の「短絡的に因果関係をつないでいるもの」とは、【前提1】と【前提2】を結んでいるもののことを言っています。――すなわち、「あれだけ山上を苦しませた統一教会(【前提1】)に安倍は強く関わっていた(【前提2】)。だからこそ山上に撃たれたのだ」というストーリーです。慎重になるべきは、接続詞「だからこそ」です。
・弁護士連絡会のとくに紀藤弁護士が強調していたとおり、統一教会は取り締まられるべきでしょう。そして、コンプライアンスの問題として、政治家が「反社会的」な統一教会に関わるべきではないでしょう。それは被害者を増やさないためだし、政治家の振る舞いとしても問題です。
・他方、統一教会の被害者である山上が統一教会を理由に安倍に銃口を向けたことは少なからず論理的飛躍です。常識的に考えて、他に銃口を向けるべくは例えば教団内にだっていくらでもいたでしょう。実際、記者会見で証言をしていた元教団のAさんは「自分は恨みが安倍に向かうことはなかった」と言っていました。
・したがって、安倍晋三および自民党の追及はあくまでコンプライアンスの問題としてなされるべきであり、あの犯行から逆算するかたちですべきではありません。
・ようするに、山上の事件を「きっかけ」として自民党と統一教会の関係をコンプライアンス上の批判するのは良いが(その「きっかけ」作りとして、残念ながら「テロ」的な手段は有効だったのだろう。したがって、結局は「テロ」的に機能したのかもしれない)、山上の事件を「根拠」として自民党の批判をするのは良くない。
・なぜなら、それは山上の犯行の意味を曖昧にするとともに正当化してしまうからです。山上は山上で、統一教会も含めたさまざまな環境要因や本人の主体性の結果として、あの犯行に及んだのです。だとすれば、その意味と責任もまた、粘り強く考え、追及すべきでしょう。それは政治の問題であるとともに「文学」の領域かもしれませんが、あまりしっくりこないので暫定的に。
・とはいえ、安倍晋三および自民党その他と統一教会との関わりについても、冷静に追及すべきです。説明を求めたいことが多すぎます。単純に政治の問題として。
・以上、リアルタイムでメモしながら整理してきました。整理しているうちに新しい情報がどんどん入ってきています。まずは客観的に整理するわけですが、書いているうちに、いつものごとく「~すべきです」とか「~なのです」といった文末表現が白々しく響きます。ひとつまえの段落の「追求すべきでしょう」とか、どういう立場で発された言葉でしょうか。
・暫定的に「文学」の言葉と言っていますが、さまざまな背景を知るほどに、安倍晋三に対しても、山上に対しても、一定の理解の感触を抱いてしまうのが正直なところです。いちばん厄介なのは、どっちつかずで理解の感触を抱いているうちに、わたしたちの社会が暴力を噴出し続けていることです。僕は考えているようでいてなにも考えていないのではないか。僕はなにかをしているようでいてなにもしていないのではないか。他方、この自問自答を打ち砕こうとする断定口調のもうひとりの自分も言葉ばかりの目立ちたがり屋に思えます。

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