アイドル・ラップをめぐって

※この記事は、2015年6月9日に書かれたものです。

ele-kingで、泉まくら『愛ならば知っている』のレヴューを書きました。

 泉まくらが所属する術ノ穴は、fragmentという先鋭的なトラックメイカーのユニットが主宰するレーベルで、そのfragmentとは、一瞬だけ同じイベントに出ていたことがあります。友人と一緒にやっていた小規模なイベントです。そういう奇縁もあって、今作の手ごたえは伝え聞いていました。泉まくらはもともと、キャラクターとしての魅力がとてもある人なので、今回レヴューの話をもらったときも、漠然とそういう方向性になるかなと思っていたのですが、聴いているうちに、キャラクター以上にこの変幻自在のフロウを強調すべきだという気持ちになってきました。久しぶりに泉まくらの旧作を聴き直しても、彼女のラップ、かなりスキルアップしているのではないか。とくに、Olive Oilのトラックとの相性がすこぶる良かったように思います。  
 実は泉まくらという存在は、僕にとってけっこう悩ましい存在で、なまじ「女の子」としてのキャラクターが強烈なだけに、語るさいに、安易な「アイドル」的消費にまきこまれてしまいそうで、だとすれば、もっとアイドルアイドルしたラップを語ればいいことで……、といった感じで、どう考えていいかわからない存在でした。レヴューの話をもらったときは、どのように語るにせよ、一度しっかりと考えてみよう、という気持ちでいたわけですが、今回は、トラック的にもラップ的にも、良い感じに尖りを見せていて、結果的に、こういう文章になったわけです。作品も方向性も、個人的に歓迎すべきものだと思っています。

 レヴューを書いているうちに、これはけっこう深い問題なのではないかと思ってきました。これは、ラップという表現形式とアイドルという存在、サブカルという態度、ジェンダー、日本特殊論その他を貫いていく問題ではないか。
 記憶に頼りますが、泉まくらが評判になったとき、同時期にmoe and ghostsも評判になっていた気がします。僕はmoe and ghostsは、発売されてわりとすぐ買ったのですが、そのとき、なぜか新宿タワーレコードの現代音楽系のコーナーに置いてあったような覚えがあります。たしか、Headz関連でたまたま置いてあったような。で、その後、moe and ghostsが評判になり、また試聴機に並んだ。このとき、泉まくらと並べられ、脇にはリリカルスクールとかがあった。僕はこのとき、けっこうめまいがしました。「おいおい、moeみたいな超絶エグいラップがアイドルラップの磁場に吸収されちゃうのかよ」と。で、泉まくらは、術ノ穴レーベルという文脈はあるものの、けっこうアイドルラップ的な磁場への目配せを感じたので、これは態度保留という感じ。まあ、その試聴機に入っていたCDたちは、どれもけっこう売れたのでしょう。それはそれで、悪いことだとは思いません。
 で、ここで、この「アイドルラップ」と呼んでいるものが問題になってくる。念頭に置くのは、次のような文脈です。『マブ論』(白夜書房)で、宇多丸さんと小西康陽さんが対談をしたとき、小西が「アイドル」の定義として、「完成度のなかのほつれ」という話をした。少しまえで言えば、浅田美代子的な、「歌がヘタなのが逆に良いのだ」という「未熟さを愛でる」系の方向。当然、クールジャパン的な議論にも接続されうる。『日本的想像力の未来――クール・ジャパノロジーの可能性』(NHK出版)という興味深いシンポジウムと本がありました(東浩紀さんと毛利嘉孝さんの対立が印象的です)。僕は、この「未熟さを愛でる」方向に批判的です。単純に、いじめっぽい気分になる。しかも、そこに女性=未熟というジェンダーの問題もモロに関わってくるので、きついです。とは言え、星井七瀬のラップや三田寛子の「ヘタさ」(ブレバタ「ピンク・シャドウ」のカヴァー最高!)に中毒性を感じるのも事実。ただ、これを「完成度のなかのほつれ」というパッケージングにしたくない、という思いがあります。
 宇多丸さんや吉田豪さんなどは、この「完成度のなかのほつれ」図式に乗った印象があります。ここには、いわゆるサブカル的なおもしろがり文脈もあるでしょう。とくに、吉田さんにおいては。しかし、すぐに強調しなければいけないのは、宇多丸さんはじめタマフルに出演していたようなかたたち、あるいは小西さんだって、「未熟さを嘲笑しているわけがない!」ということです。だから重要なのは、本人の意図ではなく、言説。批判すべきは、本人の意図を置き去りにして流通してしまう「完成度のなかのほつれ」という言説のほうなのです。ましてや、SNS社会。いかようにも誤解されてしまう。だからこそ、宇多丸さんは、アイドルの定義/言説自体を修正したのだ。すなわち、「アイドルとは、魅力が実力を凌駕する存在だ」と。
 重要なことは、これがヒップホップという「グレート・アマチュアリズム」(ライムスター)な表現形式と関わっていることです。単線的な「実力」ではかられた音楽の歴史を「魅力」によって転倒してしまったのがヒップホップです。泉まくらのレヴューで書いた「誰でもできる」性は、「魅力が実力を凌駕する」性=つまりアイドル性とすこぶる相性が良いのです。しかし、だからこそ、必ずしもスキルフルではないラップからスキルフルなラップまでを「ほつれ」で回収することは、批判しなければいけません。だからこそ、安易に「ほつれ」に回収しないで、スキルがあろうがなかろうが、その特異な「魅力」としっかりと向き合うべきです。moeと泉まくらとアイドルという、それぞれ違った「魅力」を持つラッパー/歌い手が同時に並べられたときのめまいは、この強烈な「ほつれ」回収構造によるものだったんだと思います。菊地成孔のように、moeとOMSBを並列させるほうが、僕には健全に思える。ではなぜ、こんなことが起きるのか。「女」だからでしょう。「女」=「ほつれ」だと思っている男性中心的なナメた態度が、こういう見方を成立させるんでしょう。moeがセクシャルなことを武器にラップしない、ということの決意を、宇多丸さんが「魅力が実力を凌駕する」と言い換えたことの意味を、しっかりと考えるべきだ。
 星井七瀬「恋愛15シュミレーション」は、ビートがゆっくりなぶんフロウの中毒性がすごく出ていて好きです。リリスクの音楽は、僕には単調すぎてつまらない印象。tengal6の『CITY』はとても良いアルバムだったけど、ヒップホップ的な「魅力」で聴いていたわけではない。水曜日のカンパネラは、曲によって好きだったり好きでなかったり。やはり、「ディアブロ」が好き。14以降のモーニング娘。は、好きな曲が多い。というか、モーニングは好きな曲が多い。AKBは、突き抜けて好きな曲はないけど、良い曲だと思うことはときどきある。――タマフルだって、基本的にはこういう話をしているはずです。だから、それを「ほつれ」コミュニケーションに回収するなよ。してない? なら良いけど、ネットを見ているとたまに複雑な気持ちになる。

「ほつれ」を愛でるのではない。特異性を発見するのだ。語りかたを変えよう。この微妙な違いは、とても大事なことだ。このことを言っておかないと、今度は、「日本人によるロック」「日本人によるヒップホップ」も、西欧中心主義的な、愛でるべき「ほつれ」にされそうだ。いや、ベタな西欧中心主義やベタな男性中心主義が否定されたのちの、ポストモダン的謎構造かもしれない。よくわからないが、注視したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?