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記憶に繋がる情報のありか

Netflixで見かけた「ノッティングヒルの恋人」をなんとなく観ていたら、自分が当時「英国風の庭」に憧れていたことを思い出した。

「ノッティングヒルの恋人」が公開されたのは1999年。TSUTAYAあたりで準新作くらいの扱いになった頃に借りて観ているから、自分が観たのは2000年くらいか。社会人なりたてのころだ。

英国を舞台にしたハリウッドスターと一般人の恋を描いたラブストーリーな訳だが、この映画の中で英国らしい「庭」が登場する。周囲の住人で共同で管理された庭で、とても広そうだ。長年連れ添った夫婦が残した可愛いベンチもあったりして、とても美しく。。。見える。映画だしな。

当時、この庭にとても憧れた。

恋人と戯れることに憧れた記憶は蘇ってはこなかったので、庭そのものに憧れていたのだろう。静かな庭のベンチで本を読んだり散歩したり、そんなプライベートな空間が身近にあったらと考えていたような気がする。

ただ、そんな記憶も今回改めて映画を観るまでは完全に忘れていた。

そんなふうにものを忘れることは普通のことではあるのだが、冷静に考えてみるとちょっと面白い。

記憶は色んな情報から連想して思い出す。個人的なファイルやフォルダなら自分が最も個人的に多用するのは時間軸で、年月や年月日から辿ることが多い。「確かこのくらいの時期に」と大まかな「時期」から探すイメージ。ウェブ上の情報を探すときならキーワードの組み合わせから辿るわけで、いずれも目的の情報に直接到達できたりはしない。

家族の思い出とかも、印象的な出来事をなんの脈絡もなく思い出すことはなく、テレビやGoogle Nest Hub、スマホのウィジェットに流れる写真を見たり、過去に行ったことのある土地に再び訪れたりした時に初めて思い出す。

つまり、連想の元になる「何かに」触れなければ、記憶はそう簡単には復元されないわけだ。

感銘を受けた本を再度読むことや、好きだった映画を改めて観ることは、コンテンツが溢れていることもあって大分減ったが、たまには意識的に触れてみると、忘れている大事な何かを思い出せるかもしれない。

しかし、嫌な記憶から逃れるために住む土地を変えることや、ランダムな情報で嫌な記憶を連想させる可能性の高いWebやソーシャルメディアを断つことは正しい選択だと言えるか。

なるほど。

Photo by Karolis Vaičiulis on Unsplash
https://unsplash.com/photos/US_PBO48mI

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