都合よく生きられたり死ねたりするなんて思うな
「都合よく生きられたり死ねたりするなんて思うな」と、事あるごとに僕は自分自身を戒めている。
それは、僕自身が多くのいのちを踏み台にして生きているからだ。
と言っても、直接誰かを殺めたとか、そういうわけじゃない。
でも、間接的にいのちを奪う方向に天秤を傾けてしまっているであろうことは想像に難くない。
飢餓や病気に苦しむ国への募金をせずに娯楽にお金を使ったりして、お金で解決できる多くのいのちの問題をスルーしている。
他国で起きている武力衝突を、ただニュースとしてだけ受け取っていて、具体的なアクションを起こそうとしていない。
いのちというものを人間より拡張して考えれば、直接的にも間接的にももっと多くのケースがある。
白アリやゴキブリなどの「害虫」とカテゴライズしたものを駆除している。
なんとなくうざったい蚊やハエを仕留める。
食べるために、動物・植物のいのちを頂いている。
薬を開発するために、たくさんの実験動物を犠牲にしている。
快楽のために射精をして、精子という細胞生物を犠牲にしている。
身体をきれいにするために、細胞を剝がしている。
などなど、具体的に例を挙げ続けたらキリがない。
それらひとつひとつを自分ごととして捉えて罪を感じていたら、きっと頭が狂ってしまうだろう。(それが罪なのか、という議論は一旦置いておいて)
だから、僕は日常では忘れたふりをして生きている。
でも時おり思い出す。
そして「わがままでごめんね」と、謝る。
許しを得られるものではないと知りながら。
本当に僕は身勝手な生き物だと思う。
だから僕は、自分が「都合よく生きたり死んだりできる」とは思っていない。
自分が犠牲にしてきたいのちも、決してその生を全う出来なかっただろうから。
自分だけ生を全うできるなんて、あまりに都合が良すぎるだろう。
僕は犠牲にしてきたいのちを無駄にしないために、なすべきことをなそうと目指していくだけだ。
そのためには「なすべきこととは何なのか」という問いに、きちんと向き合わなければならない。
果たして、僕のなすべきこととは何なのか。
答えはまだ出ていないが、キーワードとしては「いのち」「死」「教育」「革命」「森羅万象」「笑い」などが思い浮かぶ。
それらを頼りに、模索して、行けるところまでいくだけだ。
行きたいところまで行けるといいな。どうかな。
もしめちゃめちゃ満足して頂けるようなことがあれば!