大五郎24ℓ 星の砂の女
小野瀬ゆきと二度目の面会のため、彼女が指定した居酒屋に行った。
彼女はまだ来ていなかったが、先に入るとメッセージを送り、僕は店の中に入った。
こういう場合、遅れてきた女性を待たずに入るのは良くないことなのか? と少し思った。
そういう状況になることが数年はなかったので、何が正しいのか、まったくわからなくなっていた。相手を喜ばせるために、嘘もやせ我慢もする。男と女は本音と建前をいつも隠しあう。それが必要なことだとは、いまの僕には思えない。
メッセージは既読がついていたが、小野瀬ゆきからは返信がないまま、彼女本人が店に現れた。
「遅れてごめんなさい」
「大丈夫ですよ」
僕は店員を呼んで、飲み物を注文した。ふたりとも酒を飲まないことに軽く驚いていた。
僕たちは飲みもしないのに、酒の肴を頼み、それを少しずつ食べる。
正直、米が欲しかった。しかし、それはあまりにも自由すぎる振る舞いだと思ったのでやめておいた。
「お酒飲んでた頃はお酒飲まない人が烏龍茶を何杯も頼んでいるのを見て、なにこいつって思っていたんですけど、いまだとあの人たちの気持ち少しだけわかりますね」
小野瀬ゆきがグラスの露を拭き取りながら、言った。
「そうですね。お酒を飲まなくなるといままで見えなかったものが見えたりしますから」
「あとは時間が長く感じる」
その言葉通り、僕らは必要とは思えないような会話を繰り返し、その場のやり過ごし、時間を費やした。
僕が彼女の依存症について尋ねても、あとで説明するとだけ言って、それ以上は語ろうとはしなかった。
僕らは無駄な時間を過ごしていた。
小野瀬ゆきは知っているバーがあると言って、別の店に僕を誘った。
まさか誘われるとは思わなかったので驚いたが、彼女は何かを話そうとしているように思えたから、僕はその誘いに乗った。
普通、二軒目は男が言い出すものだとバーへ向かっている道中で気づく。そういう時代でもないかもしれないが。
その店は店内に暖炉があり、その火を見ながらお酒を飲めるのが売りだった。
彼女は常連のようで、バーテンダーは彼女を見て、ノンアルコールカクテルのおすすめをいくつか挙げた。僕も飲まないことを伝え、この店の名物だといういちごのノンアルコールカクテルを頼んだ。
この状況でアルコールが入っていたら、もう少し燃えるものでもあったのかもしれないが、残念ながら僕らはしらふだ。
異様なほど冷静な顔をして、ノンアルコールのカクテルを飲んでいる。
冴えた頭で、小野瀬ゆきの本音と建前の間に立つ壁と睨み合っている。 一体これはなんの時間なんだ。そう思っていると。
「あたし、終電ギリギリ依存症なんです」
彼女はカクテルグラスを傾け赤い液体を揺らしていた。僕の反応を待っているようだったが僕からすれば。
なんじゃそれ。
である。
「よく男の人とかって終電ギリギリまで粘ろうとするじゃないですか? あの時間が好きなんですよ」
「言いたいことはわかりますよ。たしかに独特の時間ですもんね。でもなんで、いや、まあ依存症だからか」
「そう。理由なんかない。あの欲望と欲望が駆け引きしてる瞬間が好きなんです。終電の時間がじーっと迫ってきて、あたしはまだ終電があるけど、男は終電がない。彼はあたしのために大きな賭けに出たんだ、と思うと心がぎゅーって来るんですよ」
「へえ。お酒も飲まずにそんなことを?」
「ええ。よく」
「もしかしてこれも終電まで粘ろうとしてます」
「いいでしょ。付き合ってくださいよ」
「まあ、いいですけど」
「終電は何時?」
「僕、歩きです」
「つまんない男ね」
一組の男女が店を出た。開いた扉から夏の生暖かい風が僕らの背中を撫でる。
「でも、お持ち帰りされちゃうのかしら、あたし」
僕は黙っていた。彼女は本気でそんなことを考えていない。ように思えた。
依存症のひとつだと彼女は言った。つまり病気だ。僕が焼酎の大五郎4ℓを抱えて家に帰るのと同じ病気だ。
僕は大五郎4ℓに恋もしないし、欲情もしない。
僕は彼女にとっての大五郎4ℓなのだ。 なんじゃそりゃ。
「散歩行きましょうよ」
小野瀬ゆきはいちごのカクテルを飲み干し、立ち上がる。僕もカクテルグラスを空にして、彼女の後についていく。
思い出すのは僕の家から出ていった女性のことだ。彼女との間にも昔こんな場面があった気がする。
その時は酔っ払っていたはずだ。
おそらく小野瀬ゆきもかつて酒を飲み、酔っていた頃の自分を思い出しているんじゃなかろうか? 僕らは酒を飲まなくなったけど、まだ酒の周辺でうろついているんだ。
変な奴らだ。
でもまあ、わかりやすくてかわいいじゃないか。
「家どっちですか?」
店の外で小野瀬ゆきは左右に指を振った。
僕は家のある方を指さした。
ふたりで歩きだす。昼間の太陽に焼きつけられたアスファルトの香りが漂っていた。酒を飲んでいたらこんな匂いは分からなかった。いまは以前より丁寧に生きている。
小野瀬ゆきはコンビニを見つけると立ち止まり、僕を見た。
「花火しませんか?」
「花火? なんで?」
「このまま行ったら家に着いちゃうじゃない。だから終電ギリギリまで花火しましょ」
コンビニで花火と2ℓの水を買って、僕らは近くの公園に行った。僕の家を通り過ぎ、長い坂の下にある小さな公園だ。
最初の一本に火をつける。赤、青、と色を変えて火を吹く。煙の向こうで小野瀬ゆきは手に持った花火が燃え尽きるのをじっと見ていた。
「家に誘わないんですか? 飲み直そうとか?」
「僕らお酒飲まないでしょ」
「ふん。お酒飲まなきゃ恋なんてしないか」
小野瀬ゆきは燃え尽きた花火をペットボトルの中に差し込む。じゅっという音が聞こえた。
「では、ゲームとしてやりましょ。点数つけてあげる」
彼女は僕の方へ新しい花火を差し出してくる。火をつけろということだろう。それは比喩的な意味なのか。あるいはなんなのか?
「誘って」
僕は花火を受け取り、火をつける。
「家、近いけど寄っていく?」
銀色の炎が吹き出す。
「20点。いや、ほぼ0点かな」
火のついた花火を受け取りながら、彼女は言った。炎が公園の砂を焼いて模様のようなものを描いていく。0の数字だ。黙っていたが次の案を考えろ、と言っている。いつもなんて誘っていただろうか。たぶん、飲み直そうとかそんな言葉で誘っていた。
酒を奪われた男は無力だな。
「ふたりっきりになれる所に行きたい」
「カラオケとか?」
「いや、近くに僕の家がある。そこは?」
僕も彼女も花火が燃え尽きるのを待っていた。そして、燃え尽きた。
「40点かな。ストレートなのはいいと思うけど、残念ながらその点数では行く気にならない」
またペットボトルの中で花火がじゅっと音を立てた。僕は言った。
「どうしようもないなら家に帰ろうか。お互いの」
「最後に線香花火だけしませんか」
その提案を受け入れ、僕は線香花火に彼女に渡した。火をつけ、ちりちりと火花が散るのを小野瀬ゆきは見つめていた。
たぶん線香花火を見ている時間は酒に酔っていても同じようにゆっくりとしているはずだ。そんな特別な花火だ。花火の先の赤い玉が砂の上に落ちた。
「帰えろうか」
僕が立ち上がるのを見て、小野瀬ゆきが起こしてくれと手を差し出した。彼女の手首を持つ。指先に感じる。無数の筋。かつてその皮膚が裂けたことを教えてくれる。勝手にそんなところの皮膚は裂けない。自分でやっている。 僕がそのことに気づいたのを彼女ももちろんわかっている。僕をじっと見て、僕の反応を待っている。
「痛そう」
親指がほんの少し傷の上で動く。撫でるように。
僕が手を引くと彼女は立ち上がる。
「75点」
それだけ言って、レジ袋に残りの花火を詰め込み始めた。カサカサと夏の夜の湿り気のある空気を鳴らした。
「花火の残りいります?」
「いらない」
「じゃあ、ポイ」
公園のゴミ箱に燃え尽きた花火と一緒に放り込む。
「あたし帰ります」
「うん」
「見送りはけっこうです」
彼女と目があったのはそれが最後で、僕が言った言葉もそれが最後だ。
「お元気で」
彼女は駅の方へ歩いていった。灰で汚れた2ℓのペットボトルを抱えて、しばらく彼女の背中を見送る。
お元気で。この言葉は今日の中で一番点数が高いかもしれない。彼女とはいくつかの偶然がなければ、もう会わないだろう。会ってお互いの顔を忘れているかもしれない。でも、元気でいてほしい。その気持は伝えられた。あの瞬間それが一番大事なことだと思った。
彼女はその言葉に点をつけることはなかった。
その日は大五郎ではなく、ミネラルウォーター2ℓを家に持ち帰った。汚れた水だが大五郎の隣に並べてみて、少し違うな、と思って、シンクに流した。
眠る前、ちょうど深夜1時頃だ。メッセージが送られてくる。できれば条例で禁止してほしい時間だ。
鳴子坂いずみからかと思ったら、少し前にこの部屋から出ていった彼女からだった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?