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東浩紀の『訂正する力』を読んで、労働を考える

 とても久しぶりに東浩紀さんの本を読んだ。
 大昔、それこそ著者が気鋭の人文学者として世に出てきた時に、のちの代表作といわれるような本をいくつか読んだ。
 我々の時代の人、という認識はあった。同世代ではないが、我々が青年の頃に著者もまた上昇していったので、そう思うところがあった。

 と、それから時代を経て、ずいぶんご無沙汰になっていた。
 というか彼自身、アカデミックな方にも、時代にもてはやされるような立場にも向かわず、サブカルチャーに近いところに身を潜めていたようなイメージがある。
 youtubeなどのSNSで活躍しているような論客(といえるのかしら)たちがうまく立ち回っているのに比べるとやや寂しい印象を私は持っていた。
 ひろゆきと岡田斗司夫はなかば島流しにあっていたのに、すべての過去をうっちゃって、いま現在の立場に収まっているのに比べるとなおのこと寂しい、というかふたりのゴキブリ並みの生命力が際立つ。
 そんな中、わりと読みやすそうな新書で、書き下ろしではなく語り下ろしとして、この本が出していたのを見つけ、購入した。

 『訂正する力』とはまた、新書っぽいタイトルをつけたな、と思ったが、読んでみると、たしかに訂正する力について書かれていた。
 というかそれについてしか書かれていなかった。
 では著者のいう訂正する力とはなにか? 案外、単純な力である。

 間違いをしたらなら、訂正して次につなげていこう。
 ということである。
 そらそうやんけ。
 としかいえないような素朴な主張なのだが、本の中で語られる現代日本を取り巻く状況を踏まえると、この素朴な行いが難しくなっていることに気付かされる。
 政治家は謝らないし、計画を変更しない。リベラルは保守を批判するだけだし、もちろん保守側も同じような態度でリベラルに対する。
 タレントが過ちを犯せば、すべてを否定するキャンセルカルチャーに発展する。
 議論の中で矛盾したことをいえば、その矛盾を指摘され、論破されてしまい、そこで勝ち負けが決まり、議論が終わってしまう。
 などなど。

 現代の日本では間違いを犯すことによって、そこで議論が終わってしまっている。本来ならば、その間違いは間違いとして認め、訂正し、次に繋げるべきなのではないか。
 このように状況を踏まえて、そう主張されるとたしかにそのとおりだと思わされる。
 そして、なるほどこれが我々が感じていた危機感と生きにくさの本質だったのか、とも気づかされる。
 どういうことか。

 SNSやショービジネスや政治の場で行われているような、著者の言葉でいえば「幼稚な」状況は、我々が普段営んでいる生活の中では起こり得ないのではないか。
 例えば我々が携わる仕事の場だったら、矛盾を指摘し、論破したところでその仕事は終わるだろうか。
 終わらない。
 矛盾を指摘された側も指摘した側もその矛盾点を訂正し、計画を次に進めなければいけない。そうしなければ仕事が終わらないからだ。
 任天堂の宮本茂さんの言葉で「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するもの」というものがある。
 それはつまり仕事上生まれた数々の矛盾を訂正し解決しなければ計画は前に進まないと言っているのではないか。そのためにみんなが協力してアイデアを生み出さなければいけない。
 そこで論破する必要も、間違いを認めない行為も、計画を変えないことも、過ちを許さないことも、本質的に仕事にとって必要な行為ではない。
 と、我々はもちろん知っているはずだ。なぜならいつも仕事でそういう状況に対応するからだ。
 
 だが、メディアの向こうを見るとそうなっていない。
 我々の普段の仕事の場ではそんなことはないはずだが、パフォーマンスや言論の場では、訂正できずに勝ち負けだけを気にして、状況が前に進まない。あるいは間違ったまま進めてしまうことが起こっている。
 そんな有り様を見て、我々は違和感を、というか「バカじゃねえの」と思っている(まあ実際バカなのかもしれない)。
 
 要するに、それが我々の生きにくさの本質ではないか。そのことが著者の主張する「訂正する力」の必要性によって、言語化された気がする。
 もちろん本書はそれだけで終わるわけではないが、私がもっとも有益だと感じたのは、現在の日本の自画像を、つまり、我々が感じる生きにくさを言語化したことだと思う。

 結局、冒頭に書いた東浩紀の寂しい状況というのは間違いで、彼が一歩離れたところ、サブカルチャーのような場、というかほぼアングラな場所にいるのは、いま、日本で行われている「ゲーム」に参加するわけにはいかないからだろう。
 参加するにしても、戦略的に振る舞わなければいけない。
 それはなかなか難しいことだろうな、と思う。

 とまあ私は本書を読んでこんなことを考えたわけだが、もしそれが間違っていたとしても間違いを認め訂正すればいいのではないか。
 というか、それが本書の主張なのだから、実践すべきだろう。
 それを行うことや許容することで少しは状況も変わるかもしれない。
 しらんけど。

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