見出し画像

公演「さすらうこえ さすらうからだ」の切符のための文章

今ここで『さすらう地』の本を手にとり、パッと開いてみると、224ページ。目に入ってきた文章は「母の墓はジェピゴウにあります。50になった年に、30年ぶりに母の墓参りをしました。ジェピゴウは桃源郷でした。山もあり、川もあり、ツツジが咲き乱れていました。」

祖母のことを想います。10代の終わりに韓国の済州島から船で日本に渡ってきたハンマのことを。戦後にやっと38年ぶりに済州島に戻ることができ、死に目に会えなかった家族の墓参りがやっとできたハンマ。

その時わたしは4歳で、厳しい顔つきでパスポート写真に写っていました。台風で釜山に足止めをくらい、なんとか済州島に辿り着いたけれど、島の土色の景色はその時のわたしには魅力的に映りませんでした。ホカホカの牛の糞が道に転がり、トイレの穴の下では豚がブヒブヒ鳴いていました。下町育ちのシティガールには食べるものも口に合わず、ごねてばかりいました。初潮がはじまる頃まで、豚のトイレの夢にうなされました。

韓国社会が大きく変化していく80, 90年代、中学生、大学生の時に済州島を訪れるたび印象が変わっていきました。19歳の終わりに日本を出て、タイをはじめとするアジアでの旅のような暮らしの中でいろんなマイノリティに出会いました。歴史と社会の中で自分の立ち位置を俯瞰するようになりました。大学卒業後、あらたな視線で久しぶりに済州島に降り立つと、こんなに美しい場所があるのかと驚きました。いつか済州島で暮らそうと心に決めました。その後もヨーロッパやアメリカで過ごしたりして、いつも自分の生きる場所を探し求める癖は抜けなかったけれど。

40歳になり済州島の海女学校に通い、もちろん海女にはならずに海辺の村で暮らすようになりました。風の吹き抜ける家の裏の浜に出ては海の中の世界に浸りたくてただただ潜りました。水の中の世界はほとんど無音の瞬間の連なりで、地上の世界とは違う速度で静と動のバランスがとられているようでした。冬に雪山の漢拏山に登る時にも似たような感覚になります。

母が亡くなり、祖母も亡くなり、日本生まれの父がまさかの旅先の済州島で他界し、わたしは大阪に戻ってきました。それからは大阪を拠点に島を行ったり来たりしていたけれど、コロナで大阪に足止めをくらい早3年。

いつでもビデオ通話ができるし、高いお金を出せるならばなんとか行けるだろうし、祖母が38年間島に帰られなかったことを思えばどうってことないと思っていたけれど、そろそろ痺れが切れてきたようです。

イリナ・グリゴレの『優しい地獄』の中で、寝る前にダンテ『神曲』の地獄の話を聞いた著者の5歳の娘が「でも、今は優しい地獄もある、好きなものを買えるし好きなものも食べられる。」と言い、資本主義の皮肉を5歳という年齢で口にしたことに驚いたくだりがありました。

『さすらう地』で強制移住させられる高麗人の人生はただの悲劇ではなく、喜怒哀楽と切り離せない人間の暮らしすべてであることが列車に詰め込まれた人々の会話から垣間見られます。

今のわたしたちは自分で選べる自由があるようで、本当は自由じゃないのではないか。「すみっコぐらし」のゆるキャラのように端っこで生きてきたマイノリティのわたしはずっと問い続けてきました。そのすみっこは自分にとっての真ん中でしかないのだから。

どこにいてもすみっこを選んでも自分にとって居心地がよければ、同じような命とつながっていけます。自分のまわりでたくましく育つ野草を摘んで自分で美味しいお茶が作れます。誰かのいらなくなったものを宝物のように受け取り、手を加えて自分だけのものにできます。お化粧して綺麗に着飾らなくても、死ぬまで踊ることができます。人を人と思わないようなおかしな流れには乗らなくても生きていけます。

目には見えない強制移住の列車のような現代社会の流れからは降りても生きていけるとこの人生で実験し続けること。それがあらゆるディアスポラへの弔いとなり、未来への祝福につながっていくよう願い、日々を暮らしています。

済州島の海辺の村で暮らしていた時は月に一度、海を見下ろしながら山を登り墓参りに行くのが楽しみでした。いつでも島で行きたいところは祖父母のふるさとの村の岩だらけの畑と摹瑟峰の中腹にある先祖のお墓でした。また島の風に吹かれながら土に額をつけて五体投地をする日が待ち遠しい。放下は自由ですね。30年でも38年でもなく3年ちょっとぶりでありますように。ここは優しい地獄でもある、ちょっと過酷なパラダイスなのだから。

Yangjah(やんぢゃ)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?