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娘がひとりで出かけた日

今日は午前中に浴室で髪を染めた。今日やったことはそれだけだ。

それだけで、だるくなり、午後はソファで横になった。

混濁する意識の向こうで、ベランダで盛大な音がする。

テレビで春一番が吹くかもと言っていたなあ。

洗濯物、見にいこうかなあ、でも無理だなあ。

ソファに磁石がついていて、吸いつけられるようで起きれない。

まあいい、この際、近所じゅうに飛ばされてしまえ、と思いながら、耳元で、雨の音をyoutubeでかけたまま、眠ってしまった。

最近、どうかしている。



3時過ぎに学校から帰ってきた娘は、帰るなり、「公園に行ってくる」と言う。保育園のころ散歩で通った公園を巡ってくるらしい。

今日も身体を動かしてない私は、眩しい空の下、風が吹く公園を想像する。

芽吹く春、弾む娘の声。

一緒に行こうか、という言葉を飲み込む。

そうだよ、ひとりで行く楽しみだよ、これは。

今日は春一番が吹いたのか、果たして吹かなかったのか。いずれにしても、そんな日のとびきりの楽しみを奪うなんて無粋だ。



歳をとって、ソファから起き上がれなくなった代わりに得たものもある。

それは、自分ではない誰かがこれから経験することについて、ああ、いいもんだ、と思えるようになったことだ。

娘が相手だからではない。見ず知らずの人についてもそう思えるのだ。

戦線から離脱したからだろうか。あながちそればかりでない気がする。

なんとなく、自分の道が見えてきたんじゃないかと思っている。細い暗い道だが、ここをいくしかない。

もう、誰かの道は羨まないのだ。

素晴らしいことの裏側には、失うことも、悲しみもあるのを知ってるんだ。

起こることは際限ないし、風任せだ。いずれにしても、表裏両方を、回収していかなければならない、自分の責任で。

きっと、おそらくどの道も暗がりはある。


でも、これから全てを新しく経験する人たちに対して、明るい気持ちだ。暗い時代の世界の若い人たちに、春一番をふかしてやりたいという気持ちになる。

よく寝たせいか、私はいま世界に好意的だ。

もしかしたら、自分もここまでこれたのは、誰かがソファで寝ていたからだったりしてと都合よく考える。母が、今の私の年の頃に、よく押し入れに頭を突っ込んでいたのを思い出す。何をしているんだろう、とそっと後ろから見ていたが、いまの私じゃないか。

ああ、さまざまな女性たちが、色々な形で突っ伏しているんだろう。

それで、それは世界中で共通のようだ。

ソヌジョンアのRun With Meでもそうだった。

思えば、少し離れたぐらいのところで、いつでも話を聞くと言ってくれる女性がいる。そうしたこともあった。ありがたいことだった。聞いてくれる女性は、いつも遠くの誰かだ。


やっと身体が動くようになり、手作り専科という名前をした、ただ混ぜるだけのプリンを作る。

娘はもうすぐ、頬を赤くして、ただいまと、帰ってくるだろう。

でも、彼女はいずれ帰って来なくなるだろう。

そしていずれ、彼女も自分の道から逃げ出したいと思うだろう。

私たちの前には逃げ出したい道しかないが、見ず知らずの誰かが聞いてくれることもあると気づいてほしい。

それは面々と古代から、布団やらソファやらに突っ伏してきた女性たちの願いなのかもしれない。