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悲しいことに、幸せ

これまで何度、ひとりぼっちで文章を、noteを書いてきただろう。
私は昔から、思いのたけを綴ることでようやく自分の本音にたどり着くような、厄介な、不器用な、かっこつけな女だった。

恥ずかしい思いも、苦しい思いも、悔しい思いもしながら、振り返れば結局は恋仲が私の人生を彩ってくれていた人生で、それによって少しずつ成長して生きてきたけれど、今の彼氏と2022年の2月に交際を始め同年7月に同棲をはじめて以来、私は文章を書かなく…書けなく、なった。

過去に記事に「幸せなときに綴る文章は取ってつけたようで薄っぺらく、どん底にいるときの文章は奥の底から湧いて出てくるような、自分が救われるようなもの」みたいなことを書いたことがあったけれど、私はもう1年ほど、自分の言葉と向き合う時間は無かったし、必要にならなかった。

ずっと片想いをしてた人が自分のことを「好き」だとか「やっぱり大事だなって」って言ってくれる頃にはもう私は、今の彼氏と付き合っていた。なんで今さら、そう思うことが何度かあった。でもちゃんと距離を置いて、だんだん考えなくなって、存在が薄くなっていって、そういうときに突然夢に出てきて、起きたら1,2か月ぶりにLINEが来ていて「最近落ちてたこともあったけど、やね氏ちゃん頑張ってるし俺も頑張る」って書いてあって、繋がってんだなって思ってちょっと切なくなったりもした。でも、結局今の彼氏が大切で、その彼にはもう会っていないし、連絡も取っていない。

これまでに、憧れていた人たち。好きだった人。

きっとその人の「こういうところが好き」の「こういうところ」を自分に搭載できた瞬間から、憧れは薄れていく。好きだったということと、その人のおかげで自分はこうなれたという事実だけが確かで、好きだった気持ちはどんどんと色あせていく。ただ、好きになれて、今の自分になれて、よかった。

今の彼氏とは、一緒に住んでいるし同じ職場だし常に一緒で、それでも嫌なところが全然なくて、「ここが好き」ってとこもたくさんあるけど、何より「ここが嫌」ってとこがめちゃくちゃ少ない。というかほぼない。

幸せの総量って、「めちゃくちゃ好き」だけじゃ増えなくて、嫌なとこがちゃんと少なくないと増えないんだなって、これまでの恋愛と比較すると身に染みてくる。

「この人に好かれたいからこうなりたい」そういう気持ちが一番のモチベーションになっていた恋愛脳の私は、最愛の人と常に一緒にいられることが当たり前になってはじめて、「こういう自分になりたいから頑張る」って、自家発電をしなければならくなった。

私はどういう人間になりたいだろうか。

この機会にっていうのもなんだけど、誰に何を言われようと、好きな人にどう思われようと…最悪別れを告げられようと、自分は自分を大好きでいられるような努力ができるようになりたい。

自分が不快に思うことをどれだけ避けるか
自分が快適に思う空間をどれだけ作れるか
もっと等身大の自分を認めたり、労わったりしていきたいなって思う。

内からふつふつと湧いてくる感情に振り回されてジェットコースターみたいな毎日だった頃のほうがきっと深い言葉が出てきたけれど、その頃の言葉や考え方・経験で耕された土から、今やっと芽が出てきた感覚。

今の自分をつくってくれた数々の失恋や、失恋さえできなくて無理やり消火した恋や、忘れてしまいたいような悔しい経験の中でも、そのとき自分が感じたことや学んだことだけに目を向けて、これからの自分をデザインしていきたい。

悲しいことに、幸せだと書きたいことが無い。
だからもしかしたら次にnoteを書くことときは、今より幸せじゃないのかもしれないけれど、それはそれで楽しみだったりする。
ないものねだりが過ぎるけど、私は不幸せでハングリーな状態の自分が好き。
自分自身の想像を超えた自分の考えや、気づかなかった本音に出会えたときの快感、成長している感覚。
好きな人の言動ひとつひとつに神経を張り巡らせ、分析し、仮設立てして、考えて行動して、振り返って、、PDCAを回しまくること自体も大好きだった。

なんか、恋って、自分を知るのが楽しかったり、自分の新たな可能性に夢中になってしてるだけだったのかもな。

ある程度、自分がどんな人間か分かって、自分の可能性は恋とかじゃなくて自分で見出せるようになってきて、これから、これからどうしよう。

幸せって、ほんのちょっとだけ悲しい。


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