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THE HISTORY OF HIPHOP Vol.4

謝辞
この記事は、以下のShama Station様の動画 [HIPHOPの歴史] のメモを元にしております。そのメモに個人的に調べた注釈を付け加えたものとなります。
この場において日頃参考にさせて頂いている、Shama Station様に心より感謝申し上げます。



・HIPHOP 東西戦争〜英雄二人の死

・Puff Daddy

Bad Boy Entertainmentの経営者。
アメリカで最も裕福なセレブリティの8位にランクインする人物。
元々Uptown RecordsでAndre Harrelの弟子としてインターンとして働いていた。
1992 Mary J BligeのWhat’s the 411をプロデュースし、一躍有名になる。そうしてUptown Recordsで幹部にまで上り詰めるも、クビにされる。

そこから、自身のレーベルBad Boy Entertainmentを設立し、Notorious BIGと即座に契約する。

また、Def Jamの、ラッセルシモンズの手を借り2Pacと契約しようとするも断られてしまう。(2Pacは西海岸のDeath Rowに所属しに行く)
マライアキャリーなどもプロデュースする。
続きはまた時代が変わったら、

・Notorious B.I.G.

NYで、 Puff Daddyが設立した、BAD BOY レコーズから、The Notorious B.I.Gが輩出される。通称Biggieです。

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The Notorious B.I.G. 通称ビギー
本名Christopher George Latore Wallace
「B.I.G.」は「Business Instead of Games」の略
身長190cm体重136kgの巨漢であった。

NYブルックリンで生まれ、2歳の頃に父親は蒸発し、母親の手一人で育つ。彼が幼少期を過ごした1980年代のブルックリンのベッドスタイは、カリブ海からの移民とクラックの蔓延により治安が悪かった。
母親はクリストファーに愛情を込めて育てていくが、周囲で新しいスニーカーを履きイカしたファッションをしている奴らは、ドラッグディーラー出会ったため、クリストファーも彼らに憧れコカインの売買に手を染めていく。

17歳の頃、武器の不法所持で逮捕され、これを機にドラッグディーラーになるため、高校を退学する。そうして、学校は度々サボりながら、手下4人を連れるボスとして、稼いでいた。

ラップは娯楽として楽しんでおり、街角でのフリースタイルラップ・キングであった。ソウル音楽好きの母親からは騒音だと言われるが、ビギーはこの音楽で大儲けすると言っていたという。

Big Daddy KaneのDJ Mister Ceeがクリストファーのデモテープを聞き、ヒップホップ雑誌『The Source』に紹介。同雑誌の新人紹介コーナー「Unsigned Hype」に登場した事を機にショーン・コムズ(パフ・ダディ)に見出される。

Party and Bullshitでデビューする。当時ドラマJuiceでも成功し、ラッパーとしても俳優としても成功していた2Pacはその曲を何度も聴いており、共通のドラッグディーラーを通じて、知り合ったという。2人はこのアルバムデビュー前から友人であり、2人が仲良くフリースタイルする動画なども残っている。2PacはBiggieに人生観やラップについてアドバイスしていた。

Illumaticが出てから半年後に、デビューアルバムの”Ready to Die”をリリース(1994)

リリックだけではなく、いかつい見た目に反する、バラードのような歌い方や声、人柄からNYで愛されるスターとなり、MJとコラボしたことでも話題となった。
デビューするのが心配だったから、もともと親しかった2Pacにマネジメントをやってもらえるようにお願いしていた。けど2PacはPuff Daddyに任せておけば問題ないよと断っている。この後も2人はお互いの自宅に遊びに行ったり、一緒にパーティーをしたりと仲良く過ごしている。

しかしある事件から、2人の間の歯車が狂い出してしまう。

・2Pac Shakur -HIPHOP東西戦争

彼の人生に基づいた視点から、HIPHOP東西戦争を追っていきたいと思います。

俺が音楽でこの世界を変える― HIP HOP界の頂点に立ち、その最大の犠牲者となったレジェンド《2PAC》

1971年6月16日ニューヨーク市マンハッタン ブロンクスで生まれ育つ。
名の「トゥパック・アマル」は、古代インカ語で「輝ける龍」の意味(インカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルからとった名前)

当時黒人差別に立ち向かっていたブラックパンサー党の幹部である母Afeni Shakurと同じく幹部だった父の元に生まれる。父親は果たして本当の父かはっきりしておらず、父のいない母の元で育つ。Afeniは性差別もある党内でも幹部になるほど強い女性であった。
党のYou can jail a revolutionary, but you can’t jail the revolution
革命家を牢獄に入れることはできても、革命を入れることはできない。
という言葉に強く動かされる。

1984 12歳の時、ハーレムの演劇団に所属。
1986 芸術系の高校に、白人や富裕層と共に通う。そこで文学や音楽を学ぶ。
2Pacの教養はここで培われたのか。

17歳でボルティモアに移り住む。
母が、ブラックパンサー党に属していたことがわかると、職に就けなかったから引っ越した。ここで、黒人が所属する貧困環境を体験する。
ここで、社会を変えないという意識をすでにしっかりと持っている。

カルフォルニアに引っ越す。その時母はドラッグ(クラック)中毒に。
父親の存在を知らされずに育った彼は、ここでドラッグディーラーなどとつるみ出す。彼らが父親のように面倒を見てくれたという。
高校を中退し、ドラッグディーラーの道を進もうとするも馴染めずにやめる。その時つるんでたディーラー達が、ラッパーになるための出資をしてスポンサーになっってくれる。

1991 「MC New York」というMCネームでDigital Undergroundの一員として"Same Song"でレコード・デビュー
方向性の違いからすぐに脱退しinterscope recordsから、2pacalypse nowで2Pacとしてソロ・デビュー。

"Brenda’s Got A Baby"では10代の女性が妊娠したことについてラップする。
若い女性が身篭りシングルマザーになることを問題として取り上げている。

1992 映画「Juice」に出演、俳優としても成功し、注目される。

同年 2Pacを象徴する[THUG LIFE]のタトゥーを入れる。今までは、悪党や殺し屋といったマイナスなイメージだったThugという言葉を男らしいといったイメージに書き換えた。そして、HIPHOP史上最も勇敢で偉大な男であったと、ファンの心に刻まれている。

1993 [Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z.] 2ndアルバム

Biggieのデビューとほとんど同時期に、シカゴのラッパーCommonが、”I Used to Love H.E.R.”(Herring Every Rhymeの略で、昔は全部ちゃんとインを聞いていたのにな。っていう)で、遠回しに、LAギャングスタラップのリリックの質をディスった。

1994 11月 とある事件が起こる。
映画撮影でNYを訪れていた2Pacは、Times Square のスタジオに、BiggieとPuff Daddyがいると聞きつけて向かった。建物のエレベーター前で強盗に襲われ、身につけていたジュエリーを奪われた上で、五発の銃弾を打ち込まれる。
これまで2Pacは彼らと大変親しくしてきていたが、ここで彼らに裏切られたと感じる。その疑念を抱いたまま、病院に緊急搬送される。

更にTupacにかけられていた、銃刀法違反や性的暴行の嫌疑から包帯で巻かれたまま退院すると同時に逮捕され、長い時間を牢獄で過ごすこととなる。その間に彼のBad Boy Recordsに裏切られたという疑念は肥大して彼の中で、確信に変わっていく。逮捕されている間、親友であるBiggie と会話することができなかったため、二人の間で誤解が解かれることはなかった。

1994 Biggie が“Who Shot Ya?”をリリース。ただいい曲ができたからリリースしたのであり、何も彼に2Pacに対する意図はなかったが、刑務所の中の2PacはBiggieにはめられた上で、挑発されたと感じ、Biggieへの復讐の気持ちを燃やしながら、刑務所で時間を過ごす。

1995 (2Pacが打たれて半年後)、VIBEというHIPHOPマガジンが、Biggieが2Pacをはめたという記事を書いたため、Biggieは何か嫌なことが起こっている気があすると感じる。

そこで、ギャングスタラップ最悪のイベント、THE Source AWARDSが開催。
この時の会場は、多くの人がボディーガードを連れて銃を所持し、今にも戦争が始まりそうなほど緊迫した雰囲気であったという。毎年、新人賞や、最優秀賞を決めるため、全国から、ラッパーが集まる。
この1995年の年に、Suge Knightがしたスピーチによって、よくない方向にことが進む。プロデューサーがMVに出演して歌ったり踊ったりしなくてはいけないレーベルが嫌なら、うちにこい。という。そうして、自分が手がけたアーティストのMVに出演して、人気と知名度を上げていた、Puff Daddyをディス。
(SugeKnightは、DreやSnoopを抱えるLAのボスであり、Puff Daddy はビギーを手掛けた、NYのボスである)

これに対して、Puff Daddyはこういった揉め事はやめようというのですが、ステージにSnoopが上がった際には、NYサイドがブーイングをするなど、NYとLAの敵対意識ははっきりとしていた。

この日の出来事を、メディアがHIPHOPの東西戦争と名付け、過剰に広告していく。民衆もそれに乗り、NYとLAが大きな対立を迎えていく。音楽雑誌VIBEが、両サイドの写真を勝手に使い、対立構造を課題に宣伝したのである。

この際に最優秀新人賞を取ったOut Kastもステージに上がった際に、アトランタという田舎出身のため、ブーイングされたり、シカトされたりした。
ここで、Andre 3000が体を張ってSouthを代表したため、アトランタ、ヒューストン、フロリダ、メイビスなどに注目するようになった。

この番組が終わってしばらくしてから、The Dogg Poundが、Snoopと一緒に、grandmaster Flash のNew York New Yorkをサンプリングした、”New York, New York” をリリースし、NYをディスった。MVでは、NYで一番高いビルをSnoopが蹴飛ばしたり、街を荒らしたりしていた。

これに対して、Mobb Deepは怒り、アンサーソングとして“L.A., L.A.” をリリース(1996) Capone-N-Noreaga, Mobb Deep, Tragedy Khadafi
NYのクイーンズを代表するラッパー達のアンサー曲であった。

1995 刑務所の中から出された3rdアルバム[Me Against The World]
"Dear Mama"では母への感謝の気持ちを歌う。

1995 10月 牢獄の中の彼の元に、Death Row RecordsのSuge Knightから、保釈金140万ドルを贈与するから、うちのレーベルに来ないかという誘いが来る。
(この保釈金はWanerからInterscopeを伝わって、Death Rowから払われたという形を取っている。当時のワーナーは政府の元につき、危険視されていたギャングスタラップを規制しようとしていたという。そのためにレーベルを買い取っていたらしい。)
後にこの保釈金の返済を求められたため、彼はDeath Rowから抜けられなくなる。

1996 2月 4th アルバム [All Eyez On Me]をリリース。
"Hit’em Up"では、Badboy RecordsとBiggieに裏切られたことをディスる。
また、Biggieの幼馴染クルーのjunior M.A.F.I.A.とかNYを代表する特定のラッパーをディスっていく。
Rap史上初の二枚組アルバムで、曲をたくさん出しすぎるのはよくないと言う固定概念を壊したこの出し方は、Jay-ZやWu-Tang Clan に影響を与え、彼らもこの2枚組のアルバムを出すようになる。

2Pacは、NY自体をディスってるわけではなかった。その証拠に、各地のラッパーを集めて制作していた、シークレットアルバムのOne Nation を制作している。E-40, Snoop Dogg, OutKast, Scarface. DJ Premier, Big Daddy Kane, bone Thugs-n-Harmonyなどを客演に迎え、各地のHIPHOPを団結させようとしていたのである。

1996 9月 2Pacはラスベガスでマイクタイソンの試合を見た後に打たれてしまう。そしてその6日後、彼は病院で亡くなってしまうのである。隣に乗っていたSugeも負傷するが、生還する。


また、Biggieも2Pacの死から半年後、アルバムの宣伝をしに、LAに来ていたときに、狙われて、そのまま亡くなってしまう。

この二人の死はいまだに未解決事件で、犯人は逮捕されていない、迷宮入りした事件となった。

全米は、NYとLAのヒーロー達を失ったことに悲しみを覚え、SnoopもDeath Raw Recordsを抜けたことで、ギャングスタラップ時代が終わりを迎えたのである。

・この時代のその他のこと

・Jay-Zのデビュー

「Reasonable Doubt」でデビューし、Roc-A-Fellaレコードを創立
Nasの"Illmatic"、The Notorious B.I.G. "Ready To Die" etc. と並んで、HIPHOPの記念碑的作品である。彼のアルバムの中では最も売り上げの少ないアルバムですが、それでも50万枚を売り上げ、ゴールド・ディスクを獲得。
ブルックリンを全面に表現しているアルバムである。
楽曲のプロデュースは、 Original FlavaのSki、Clark Kent、そしてDJ Premierが手がける。The Notorious B.I.G.との、「Brooklyn's Finest」は、ブルックリンの大物2人によるブルックリン賛歌です。
シングル・カットは、Foxy Brownを世にお披露目した「Ain't No Nigga」、
シンガーMary J. Blige が参加した「Can't Knock the Hustle」、
そしてMecca がサビを歌う「Feelin' It」です。

1995 (Roc-A-Fella Records) が、ジェイ・Zとデイモン・ダッシュ(Damon "Dame" Dash)、カリーム・バーク(Kareem "Biggs" Burke)によってニューヨークにて設立

Jay-Zの兄はドラッグディーラーであった。兄が、ドラッグを買う金を得るために、Jay-Zの指輪を盗んだがためにもめて、誤って兄を撃ってしまったという話がある。貪欲に領地を拡大し、北はニュージャージー、南はバージニアまでコカイン販売の島を広げていく。
そして出されたこのアルバムは、ハスラー時代の人脈を用いて、街中で宣伝される。そうして、Def Jamの目に留まり、株式の半分を1億5600万ほどで売り、急成長していく。

・Cash Money Recordsの設立

1989年にBirdmanによって、Cash Money Recordsが設立される
以前はLil Wayne, 現在はNicki Minaj, Drake, DJ Khaledなどが所属している。
Birdmanは改名前は、Babyという名前であった。見た目に似合わないw

Birdman

・Lil Wayne のデビュー

Lil Wayne(12)が、BirdmanによりCash Money レコードに発掘され、Hot Boysの一員として、全国ツアーを回り始める(14)

Master P の No Limits Recordsを凌ぐほどにCash Money Recordsが成長する。
1997 [Get it how you live]でHot Boysがデビュー

小刻みに跳ねるバウンス感の強いビートに、奇妙な旋律のシンセ/ギター/ベースの鳴りをあしらい、泥臭いファンク・サウンドで、どこか田舎くさい雰囲気を醸す。
のちにBirdmanはLil Wayneと揉めることになる。

・この頃のサウス

一方この頃、Southのヒップホップシーンは活気ついてきて、TLCやKris Krossが大ブレイクし、田舎だったアトランタの名前を有名にする。

・TLC

オリジナル・メンバーはT-Boz、Left Eye、Chilliの3名で構成されていたが、2002年のレフト・アイの自動車事故による死により現在は2人組。
Left eyeはラップのパートをつとめた。
グループの名前は「Tender Loving Care」からと、3人のニックネームの頭文字から取られる。

Left Eye

Left Eye は斜視気味の左目が可愛いと彼氏に言われたことから命名。
2Pacは友人であり、彼が亡くなった時にはアル中になったりした。
"Untouchable"は2Pacとの共作。
Chilliは一時期Usherと付き合っていた。

・Kris Kross

Kris Kross(クリス・クロス)は、Jermaine Dupri(ジャーメイン・デュプリ)にアトランタの商店街で見出された Chris Smith(クリス・スミス)と Chris Kelly(クリス・ケリー)の少年ラッパー2人組。13歳の時にリリースしたデビューシングル「Jump」が大ヒットしたのに続いて、アルバムをリリース。
この楽曲ではJackson 5 の I want you backをサンプリングしてる。

アルバムのジャケットやステージでしていた服を前後逆に着るファッションもはやりました。また、1992年にはマイケルジャクソンのステージパフォーマンスに共演したりしていた。以下は1996年のアルバムより。

・Dungeon Family

そして、アトランタの重要人物Rico Wadeをプロデューサーとした、引きこもり音楽集団の、Dungeon Family が誕生する。
"Cee-Lo, Big Rube, Sleepy Brown, Ray Murray, Big Boi, Andre 3000, Rico Wade, Mr. DJ, Big Gipp, Khujo, Backbone, T-Mo, Witchdoctor, Freddie Calhoun"をメンバーとする

Rico Wade 

Rico WadeはFutureのいとこで、若きFutureもすでにここにいた。
そこから出てきた3人組が、一気にアトランタを盛り上げる。

Dungeon Family 

Dungeon Familyの本幹は、Sleepy Brown, Ray Murray, Rico Wadeによって構成されるOrganized Noize。
アトランタの音を決定づけたプロダクションである。
TLCの「Waterfalls」を大ヒットさせて一躍有名になった
(上記TLCで紹介している動画)
ダーティーサウスゴリ押しのファンクサウンドである。

このプロダクションが、Out Kast と Goodie Mobをプロデュースする。
トラップという言葉を、早い段階でリリックに使っていた、Goodie Mob 

・Out Kast

2020年にグラミー賞を受賞し、ラッパー最高傑作とも呼ばれる、Andre 3000と、Big BoyによるOut Kastが出てきて、彼らを筆頭にアトランタは急速に発展していく。
Andre3000は1975に生まれ、結婚していない母親の元、アパートを転々としながら、暮らす。そうして、アトランタの貧困街に住むことになる。そこから、白人の富裕層の子も通う学校にバス通学をする。その時に、ファッションや、白人の人が好んで聞くロックや、シンセに目覚める。高校になると、Thug Lifeに目覚め、父親の元に送られるが、それでも遊び癖は治らず、そこでストリートを学び、ラッパーになることを目指す。そうして、音楽専門の高校に進むことになる。そうして、その高校で、相方のBig Boiと出会うのである。

・Big Boi

OutKastのAndré3000の傍
1975 ジョージア州サバンナで生まれる
50人ほどの家庭が集まった大家族の中貧しく暮らす
お菓子を安く仕入れ、食べ放題のパーティーとする
キャンデーパーティーを開き、それで小遣い稼ぎをするように。そこでDJを始める

叔父の元でドラッグを売り出し金を稼ぐようになる
学校では優等生であった。
中学校の時のお気に入りはKate Bushであった。この頃からラップを聞き出し、A Tribe Called Quest などを聞き出す。そして常にリリックを書き出す。

独学で音楽を学ぶ内に、音楽に対する思いは高まっていき、サバンナを出てアトランタに行く。
アトランタの高校では、自由なクリエイティブ活動が推奨されていた。そこの映画部で、ラップの動画を撮るようになる。その高校のカフェテリアで開かれるラップバトルにおいて、上位に君臨していたBig Boiだが、そんな彼のライバルはAndre3000であった。

Big Boiはストリート性のあるラップで
Andreはコンシャスラップのような深いラップであったらしい。お互いのことをライバルとしても評価していた。
 2人は「2 Shades Deep」というグループを開き、「Black Dawg」と「Black Wolf」という名前でデュオを組んでいた。
 彼らが名前を売る為に、ガソリンスタンドなどで路上ライブをし続けた結果、Organized Noise というプロデューサー集団のRico Wadeの目に止まる。彼はちょうど若いラッパーを2人探していたらしい。そうして、Rico Wadeの母親宅の地下室、ダンジョンに招待され、Dungeon Familyのメンバーとなるのである。

 のちに彼らは社会からあぶれた自分たちを意味するOutkastと名乗る。Rico WadeはTLCのプロデュースも手掛けており、彼女らが所属するL.A. Face recordsと繋がりを持っていた。そこでOutkastはL.A. Faceの社長L.A. Reidの前でラップをするが、スター性がないと断られてしまう。

L.A.Reid
La face records

そこで彼らは必死に特訓をする。ラップしながらのランニングなど、Dungeon Familyの夢を背負って彼らの全力の特訓のもと成長していく。そしてからは再びL.A. Reidの前でラップを披露し、彼らのラップは東西にないものとして評価された。LA Face recordsのクリスマスコンピレーションの参加し、今までにないクリスマスの形をラップし才能を認められ、アルバム制作が行われるようになった。

1993 Player's Ball

2000 [Stankonia]より

2003 Speaker Boxxをリリース、2人がお互いに一枚ずつアルバムを制作し、二枚組のアルバムとしてリリース

・DJ Screw

ヒューストン出身の、スクリューというトラック制作手法を編み出したDJ
Southの、Geto Boys/ Travis Scott/ Don Tollver/Megan. ThreeStationなどの出身地のヒューストンでは、一度再生した曲をスローモーションでかけ、
サイケデリックでファンキーで、ドロドロなサウンドにする、Chopped and Screw というミキシング方法が生まれた。
実際にはターンテーブルで回転数を落とす「Screwed」と、同じ曲をその状態で半拍落としてかける「Chopped」という方法の合わせ技である。
最初はDJの技法であった為ミックスが多かったが、徐々にトラック内に組み込まれるようになっていく。

このサウンドが、ヒューストンで流行っていた、リーンというダウナー系のドラックとガッチリハマって、地元で絶大な人気が出る。

(決してドラッグを肯定しているわけではありません、
あくまでカルチャーの1つとして紹介しているだけです)

1998年にはテキサスのラッパーSouth Park Mexicanが『Power Moves: The Table』をレギュラー盤とスクリュー盤の2枚組でリリース

通常盤

Screw版

また、彼のサウンドのもとに集まるものを、Screwed Up Click=SUCといい、UGKやThree 6 Mafiaが含まれる
現在で言う、Travisや、ASAP rockyが参考にしている

“My Mind Went blank” – DJ Screw Point Blank

“ R.I.P. SCREW” – Travis Scott

“LSD” – ASAP Rocky

このChopped and Screwは、2000年代半ばにかけて、
Lil KekeやChamillionaire、Mike Jones といったテキサスのラッパーのブレイクと同時に、全国に知れ渡って、同時に、リーンの流行も広がっていく。
彼は29歳の時、コデインの過剰摂取によって亡くなってしまう。
ドラッグやめよう。
また、Futureの Dirty Spriteとという曲を聴いて、Juice Wrld はリーンに依存しだしたらしい。

・Three 6 Mafia

その頃、メンフィスでは、Three 6 Mafia によって、騒ぎまくることを意味するスラングがあった。Crazy + Drunk = Crunk というジャンルがHIPHOPの新しいジャンルとして、成長していく。 (90年代後半〜)

Three 6 Mafia は、マイアミベースのテンポを落として、
そこに高速のハイハットやシンセや、電子音、三連符のフローなどを入れた
Crunkというサウンドを作る。

666は獣の数字を表し、彼らの楽曲は悪魔崇拝的な要素を多く含み暴力的なものが多かった為、サウスのN.W.A.ともいわれたほど。また、ホラー映画からなどのサンプリングを多く含み、暗くて奇妙な音作りが多かった。

特徴
・ダークな雰囲気(Lo-fi)
・高速ハイハット
・シンセサイザーの電子音
・TR808のバスドラム
・三連符のフロー
・わかりやすいサビ
そして現在のトラップミュージックに一番近い形になった。
“Mystic Styles” – Three 6 Mafia
→”Bad and Boujee” – Migos, Lil Uzi Vert

“Tear da Club Up ‘97” – Three 6 Mafia
→”No Bystanders” – Travis Scott

・No Limit の盛り上がり

同じ時、Master Pが率いる No Limit レコーズが盛り上がりをみせた
ニューオリンズから、Birdman率いるCash MoneyレコードのHot Boysの
JuvenileとLil Wayneがリリースした曲が、Billboard一位を記録し、
ニューオリンズ特有のバウンスというスタイルとTwerking が、全国に広まる
バウンスの特徴は、速いテンポと跳ねるようなビート、コール&レスポンス
である。Twerking はニューオリンズ発祥

“Back That Ass Up” - Juvenile, Lil Wayne, Mannie Fresh

このように、メイフィスのCrunk, ニューオリンズのBounceは
おどることで、日頃のストレスを発散させ、犯罪を軽減させる、
のりの良いヒップホップであった。

無名だったサウスを広めた重要人物
Goodie Mob, Three 6 Mafia, 8 Ball & MJG, Juvenile, Geto Boys, OutKast, UGK, Organized Noize

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