ヤンデレ彼女とメンヘラ彼氏【小説】

コン、コン、

アパートの扉がノックされる。普通にドアチャイムを鳴らせばいいものを、彼女はいつもこうしてドアをノックしてくる。控えめと言えば聞こえはいいが、自身がない立ち振る舞いともいえる。
 ドアを開くとそこには椎名が立っていた。
「おはよう」
「おはよう」
 代り映えのない挨拶をした。
「大学、行かないと」
 僕は経済学部で、椎名は文学部だった。履修している科目も違うので、行かなければならないかどうかは判断できないはずだ。だがこれはいつものことだった。
「行かない」
「でも……せっかくだから行こうよ」
 僕はその“せっかく”の意味が理解できないまま、ドアを閉めた。
 椎名のストーカーは今に始まったことではない。気が付くとそばにいて、会話の中に入って笑っていた。それが不自然だと気づいたのは大学に入ってからだ。
 僕は経済学部にいた。周りには知らない学生だらけだった。だが、どうしてか椎名だけはいた。そして僕に笑顔を振り向けるのだった。
 いつか尋ねたことがある。「文学部の講義は出なくていいのか」と。まだ一般教養だからでなくてもわかるというのが彼女の答えだった。それが答えになっていなかったのは、彼女が留年したことを知ってからだった。
 今、僕は3年次の春になろうとしている。これからゼミも始まる。知らない人だらけ。友人らしい友人は一人もいなかった。むしろ人とのかかわりを避けてきた。どうして高校まではあんなに人に囲まれていたのに、今は一人なのだろう。そんな疑問とともに涙が溢れてきた。
 またドアがノックされた。僕は泣いていたのを悟られないようにさっと顔を洗うと、玄関へ行った。ドアを開けると椎名が立っている。
「ね、学校行こうよ」
「うるさい。僕は行きたくないんだ」
「ひきこもり?」
 そういって椎名はすっとぼけたように首をかしげて笑った。
「……違う」
 僕はまだ、そんな社会不適合者ではないと思っていた。まだ、普通に生きていくことができると思っていた。ただ、ちょっと学校へ行くのが億劫なだけなのだと。
「ねえ、学校行きたくないの?」
「……行きたくない」
「じゃあどこへ行くの?」
「え?」
 大学へ行かないならどこへ行くのか。僕はずっと家にいるものだと思っていたので意表をつかれた。どこかへ行くのが当たり前なのだろうか。
「大学に行きたくないのでしょう? どこか行きたいところがあるの?」
「……別に、そんなのがあるわけじゃない」
「それならこの部屋にいるの?」
「そのつもりだけど」
 僕は扉を閉めて椎名を拒否することもできたが、すぐに椎名の靴先が扉を押さえた。
「この部屋はよくないと思うな」
 部屋に入ってきて、椎名は言った。
「だってほら、そこにたくさん転がってるアルコール消毒液の瓶、使いすぎているせいかほとんど空っぽ。ほら、手が真っ赤でしょう?」
 椎名は僕の手のひらをつかんでぎゅっと力を入れた。赤くはれたそれはとても痛くて、だけどそんな汚らわしいものが椎名に触れているのは嫌だった。
「潔癖症なのかな。でも部屋はぐちゃぐちゃ。強迫神経症でよくあるパターンだね」
 ひりひりする手から力が抜け、椎名は部屋に入ってきた。
「やめてくれ!」
 僕は叫んだが、椎名は消毒用アルコールを瓶からあたりに巻き散らした。一本、一本、おそらくすべて。空っぽになった瓶が転がり、揮発するアルコールの刺激臭が部屋に充満する。
「これで綺麗になったかな」
 椎名は振り向いて微笑んだ。
「この部屋も、汚くないと思うな。ね、褒めてよ」
 褒めるわけがないだろう。なんてことをしてくれたんだ。
 僕は動揺と怒りをなんとか抑え込んでいた。
「ずっとあなたの周りは私がきれいにしてあげてたんだよ? これからも、ずっと私があなたの周りは綺麗にしてあげる」
「……ずっと?」
 部屋に入ってきてアルコールをまき散らすなんて今日が初めてのはずだ。手が汚い気がしてアルコールで洗い続けていることだって話したこともないはずなのに。
「だってほら、あなたの周り、誰もいないでしょう? 私があなたに人が近づかないようにきれいにしてきたから」
「えっ……人が近づかないようにって……」
「いろいろやったよ。でも方法は知らない方がいいと思うな。誰もいなくなることが目的だもの」
「何をした! 何をやったんだ!」
 僕がずっと一人なのは、椎名のせいだったのか!
「知らない方がいいと思うな」
「言え! 何をしたか言え!」
 僕は恫喝した。椎名は怯えるようでもなく、「気を悪くしないでね」と前置きしていった。
「あなたが高校時代にした悪いことを話した。私たちの仲間の絆を、あなたは壊したかったのでしょう?」
 仲間? 絆?
「大学に入って清算するつもりだったのかもしれないけど、忘れてほしくなかったな。あなたが忘れたから、私がそばにいた。あなたは罪を忘れてしまった。いいえ、罪を罪と感じていなかった」
「僕が……、僕が何をしたっていうんだ」
 罪も何も、思い当たりもしなかった。
「あなたは、私に告白をした」
 そうだ、そんなこともあった。でも返事を待っているうちにうやむやになった。
「私もあなたのことが好きだった。それが仲間内に受け入れられればよかったけれど、そのようなことはなかった。気まずい雰囲気が仲間内に形成され、あなたは仲間内から浮きそうになった。そんなときに大学に進学し、みんな散り散りになった。あなたの高校時代は楽しい思い出だけになった」
 うっすらと思い出してきた。あのときのみんなの蔑んだような不快な表情は、覚えて痛くなかった。でも、甲斐甲斐しくも椎名は毎日僕の家に通ってきている。もうそれでいいのではないか?
「あなたは他人に蔑まれることを目的に私に告白したのでしょう? 自らの周りから人を排除するため。この部屋を見ればわかるでしょう?」
 椎名はにこりとわらって辺りを見渡した。暗い部屋に物が散乱している。服とかゴミとかだけではなく、消毒用アルコールの瓶とか、オキシドールの空瓶、あかぎれの薬や絆創膏……。
「私は告白の話に尾ひれをつけて言いふらしたよ。ストーカー、いやがらせ、盗撮等々いろいろ悪いことしたって。私の人格も下げたから、留年することになった。でもいいの。私は決めていたから」
 僕は足ががくがくと震えていた。立っているのもままならないほどだった。そんな噂が学内中に言いふらされているなんて……。
「私はね、恋愛は一生に一度しかしないと決めていた。罪も、何もかもすべて思い出してもらって、一度でも純情を揺るがされたのならこの人にしようと決めた。私にとってあなたは好きな人で、献身するに足る人だと尊敬していた。だから、私はあなたが求める不潔でない世界を実現する。それは、あなたと私だけの世界。ほかの邪魔ものは誰もいない……そうだ、この部屋はもうそんな世界だ!」

椎名は僕に抱き着いた。僕は椎名が触れることが汚らわしくて、彼女を押しはがして逃げ出した。
 
 だが、部屋の端まできて、逃げるも何もここはアパートの二階。椎名が無表情のまま近づいてくる。手には、カッターナイフが握られていた。
「リストカットもしてたのかな? 自己陶酔? 本当は私もいない世界の方がよかったの? あの告白は他を排除するためだけのダミーだったの?」

椎名は自らの首にカッターナイフの刃をそえた。そして引きつった笑顔を見せてから、思いきり首を抉った。
 まき散らされた血は、僕にも降り注いだ。
 その血が汚らわしくて、僕はすぐに体を洗いに行った。
 シャワーで流された血は、排水口に渦を描きながら吸い込まれていくが、それは僕の手の傷からも流れ出しているかのようだった。
 僕はユニットバスの鏡を見た。そこに映るのは誰だろう。僕さえもいない世界もありうるのかもしれない。それはきれいな世界かもしれない。
 バスルームから出て、僕は倒れている椎名を見た。椎名の首から血が流れているが、彼女の死に顔は白く美しかった。
 初めて感じた存在の肯定に、僕は、生きていてはいけない人間だと感じた。

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