銀の硬貨でむらさきの水購えり生殖ののちは逃げるのだろう(野口あや子)

客観的な女性性あふれる歌集『眠れる海』の中でも、きわめてセクシーでいて悲しみのたゆたう一連『水の耳穴』からの一首である。身体感覚・皮膚感覚の表出を得意とする作者であるが、この歌は敢えてそれを封印して醒めた目線を作っているようで、たいへん目を引いた。シーンとしては、シティホテルの一室で行為をおこなう前(後とも解釈できる)に自動販売機コーナーでドリンクを買いながら、終わったらすぐに帰る男のことを思って不満を抱いているところであろう。「銀の硬貨」とは言っても本当に銀なわけではなく100円あるいは500円の硬貨を指しているのだろう。これは数字を言わない表現で、色味のイメージを用いることでより視覚的な想像を促し、二句の「むらさき」とのコントラストを際立たせている。「むらさきの水」というのも正体は葡萄ジュースか何かだと思うが、魔女的呪術的なイメージを喚起させて、あとの「逃げる」をより活かしている。「生殖」という単語を選んだことで、クモやカマキリのオスを連想させ、喰われるわけじゃあるまいにすぐに逃げることはなかろうというような主体の心理を出していると思った。個人的感覚として実に共感できる内容の歌でもあるし、美しい色と華麗で小気味よい構成も好きな一首である。

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