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Kホテルでの2泊3日


 私はなぜ逮捕されたのだろうか。いまだにわからない。原発の危険を訴えたことが、そんなに悪いことだったのだろうか?

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 元原発労働者だった私は、福島第一原発の原発震災が発生した2011年9月に、「原発放浪記」という作品を宝島社から出版した。その直後から積極的に反原発運動に参加するようになり、浜岡原発のお膝元である御前崎市では少しは知られた存在になった。当然、警察にも目をつけられていた。
 だが警察の動きが活発になったのは、2018年に「放射能を喰らって生きる」の出版活動をはじめた時期と重なる。
 この作品の内容は、私自身の被ばく体験だけでなく、浜岡原発の危険について厳しく言及している。その直後から無言電話に悩まされるようになり、私のまわりに警察官の姿がやたら多くなった。
 御前崎市は原発城下町である。権力者に逆らえば、制裁を覚悟しなければいけない。中部電力には「中電防災」というグループ企業があり、浜岡原発では「消防防災業務」と「警備業務」を主におこなっていて、この警備業務の大半が県警OBで占められている。つまり、県警幹部の格好の天下り先となっていたのである。
 外出するたびに警官が待ち受けているといった感じで、立てつづけに4度の職務質問を受けた。そのあげく逮捕。罪名は公務執行妨害罪と器物損壊罪である。強引で高圧的な職務質問に怒りを覚え、思わず警官の挑発に乗ってしまったのだ。

 いきなり逮捕される

 東海地方も梅雨入りに突入したばかりの、2018年6月8日のことである。少し遅めの昼食をとったあと、2時過ぎにアパートを出ると、いつものように自転車を走らせて1キロほど離れた市民プール「ぷるる」に向かった。
「ぷるる」には、プールの他にトレーニングルームなども備わっていて、その日の気分でウォーキングなどの軽めのメニューをこなすこともあった。そして汗をかいたあとは、サウナ付きの入浴施設を利用していた。
 目的地まで、あと3、4分というところまで来ていた。ふと横を見ると、パトカーが徐行スピードで走行している。おそらくはアパートからあとをつけてきたのだろう、狙いを定めたハイエナが餌食にしようと、こちらの隙をうかがっているような無気味さを感じた。パトカーはしばらく並行して走ったあと、チカチカとウインカーを点滅させた。
「そこの自転車、止まりなさい」
 停止したパトカーから、間髪を入れずにマイクの声が響いた。

「なんだ、またかよ」
 うんざりした思いで、私は胸の中で叫び声を上げた。わずか5日前に職務質問を受けたばかりだった。それに。今年に入って4度目である。この町に住むようになって15年。昨年までは、パトカーから停止をもとめられたことは一度もなかった。
 自転車を停止させると、助手席と運転席のドアが開き、警察官2名が降りてきた。運転席から降りた40代のリーダー格の警官の目は血走っていて、あきらかに悪意が感じられた。彼は険のある目つきで私の足元から頭まで舐めるように視線を這わせたのち、乗っている自転車を指さした。
「この自転車はあなたの?」
「そうだよ」
「登録番号を調べるので、自転車から降りてくれないか」
 私は自転車にまたがったまま、このままで調べてくれと言った。
 警察官に逆らうのは不利とわかっていたが、何度も繰り返された職務質問に対して、私はかなりムキになっていたのは確かだった。だから、協力する気にはなれなかった。
「このままでも登録番号は見えるはずだ。だから、早く調べてくれないか」
 だが自転車が盗難品でないとわかったあとも、解放してくれない。名前は? 生年月日は? 住所は? と執拗に食い下がってくる。
「5日前の6月3日にも職務質問を受けたので、署に記録が残っているはずだ。そのとき、すべて話したので調べてくれ。すぐにわかるはずだよ」
 人口3万の御前崎市には警察署がないため、隣接するK市の警察署が御前崎市内も管轄区域としている。だが署にはいっこうに連絡を取ろうとはせず、あんたの名前を教えてよ、住所を教えてよ、と体をぶっつけてくる。

 やがて協力的ではない私に対して業を煮やしたらしく、警官たちは左右から挟むようにして両肩を押さえた。腕の付け根にぎりぎりと強い力が加わる。いつでも逮捕できるぞ、といった威圧感に満ちている。
 やむなく私は自転車から降りると、縁石に腰をおろした。それでも彼らは仁王立ちしたまま、矢のように質問してくる。まるで犯罪者に対するような扱いに、激しい怒りが込み上げてきた。
 私は立ち上がると、「この自転車のせいで職務質問のきっかけをつくったのなら、もういらないから」と叫び、自転車を思い切り蹴飛ばした。
 近くに停めているパトカーに当たらないように蹴ったつもりだったが、蹴った場所が悪かったらしく、自転車はよろよろとパトカーに近づいた。やばいと一瞬思ったが、接触することなく倒れた。しかし実際は、自転車の前輪がパトカーの後輪近くを掠めていたのだった。
 パトカーを見に行った若い警官が戻ってきて、耳打ちした。
「Iさん、パトカーに傷が入っていますよ」
「なんだと!」
 リーダー格の警官はすっ飛んでいき、傷の確認をすると顔を赤鬼のように真っ赤にさせて叫んだ。
「貴様……」
 2人掛かりで羽交い絞めにされ、体の自由を奪われた。
「公務執行妨害罪と器物損壊罪で逮捕する!」
 問答無用で手錠をかけられ、そのあとは暴言の嵐だった。すぐに応援のパトカー数台が駆けつけ、現場は警察官であふれ返った。たったひとりの人間を逮捕するのに、K署の警官が総動員したような大騒ぎとなった。
 それに職務質問とは、窃盗の常習犯や覚せい剤中毒者などの犯人検挙を目的として実施しているはずなのに、今回の場合は、あきらかに犯罪者をつくり出すための職務質問だった。もし罠にかけられたのでなければ、警察のノルマ主義の犠牲になったというべきだろう。

 私を後部座席に乗せたパトカーは、模範になるような安全運転でK署に向かった。裏口から車のまま建物内に進入すると、すぐにシャッターが下ろされた。パトカーから降りると、4人の私服警官が待ち構えていた。エレベーターで2階に移動し、机と椅子しかない狭苦しい取調室へ導かれる。
 持ち物をすべて没収され、刑事課の取り調べがはじまった。
「黙秘権がありますので、喋りたくないことは黙っていても結構ですから」
 取調べにあたった30代の刑事が言った。知人に電話をかけることさえできないのだという。電話ができる相手は、弁護士だけと告げられる。
 やむなく何度か会ったことのある、静岡市のO弁護士に連絡を取ってもらえるように頼んだ。すると、いまは忙しいので今日行くのは無理だが、明日にはこちらに来てくれるようだと、刑事から告げられる。
 厳しい取り調べを覚悟していたが、案に相違して恫喝されるわけではなく、比較的になごやかな雰囲気の中で尋問は進んだ。路上で職務質問を受けたときとはあまりにも違い過ぎる対応に、どうしてなのか尋ねると、
「鏡なんですよ。あなたの態度が横柄なら、我々も別の態度で臨みます。怒鳴ることもありますよ。でも、あなたは素直に取り調べに応じてくれていますからね。だから、こちらも紳士的に対応しているわけです」
 という返答が戻ってきた。
 取り調べの途中で刑事課の課長も姿を見せ、「今年、4度目の職務質問だって。申し訳ない」と頭を下げてくれる始末だった。
 3時過ぎからはじまった取り調べが終了したのが、夜の10時近い時刻だった。刑事の態度やもの言いから、取り調べ後に釈放されるものと確信していた。けれども、すぐに甘い考えだったと思い知らされた。手錠をかけられ、腰にロープを巻かれた情けない格好で留置場のエリアに向かった。

 留置場は同じ2階にある。いかにも頑丈そうなドアを刑事が開けると、連絡を受けた3名の看守が待ち構えていて、私の身柄は彼らに引き渡された。そのまま留置場に収容されるものと思っていたら、小部屋に入れという。事務机の上には、自転車の前カゴに入れていた物がすべてが置かれていた。
「ナップザックの中を確認してもいいですか?」
「どうぞ、お好きなように」
 看守がナップザックのファスナーを開き、着替えの下着やバスタオル、水着とゴーグルなどを取り出して机の上に並べた。
 百円ショップで購入したプラスチックの入れ物には、シャンプー、リンス、石鹸、タオル、髭剃りが入っている。髭剃りの刃は、自転車が転倒したときの衝撃ではずれたらしくついていなかった。
「石鹸やシャンプーを持ってここに入って来たのは、あんたが初めてだ」
 看守からそう言われたが、確かにそうだろう。泳ぐ目的で室内プールに向かっていただけなのに、犯罪者として勾留されようとしているのだから。
 所持品をすべてメモ書きしたあと、体重と身長の測定。そのあと、着用している半袖シャツとズボンを脱ぐように命じられた。看守たちは刃物などを隠し持っていないか慎重にチェックしている。だが刃物どころか、ポケットには財布さえ入っていなかった。「ぷるる」の利用は会員カードを使用していたので、この日も持ってきていなかったのだ。
 衣服の検査が終わると、前掛けのようなものを着せられ、パンツを脱ぐように命じられる。脱いだあとは中年看守から、壁に向き合って両手をつき、脚を大きく開くようにと指示される。
 前掛けはつけていても、お尻は丸見えである。もっとも屈辱的な瞬間だった。ここには人権などない。はるか昔からあたり前のように続けられてきたであろうこの儀式は、チェックという名目で辱めることによって、留置人の反抗心をもぎ取ろうとしているのである。

 チェックのあと、身につけていたもので返されたのはパンツだけだった。ジャージのズボンと、かなりくたびれた白いTシャツを渡された。
「留置されているあいだは、この格好でいてもらうことになるから」
 私物の着用はパンツだけという意味において、留置場は原発とよく似ている。原発の建屋内では、作業着だけでなく下着のシャツやもも引きまで貸し与えられ、パンツ以外の私物の着用はいっさい認められていない。
 やはり貸し与えられたゴム製のサンダルをはき、今夜のねぐらである6号室に案内されたときには、11時30分を過ぎていた。同房者はいない。
 洗面所横の戸棚から取りだした布団を抱えて房内に入った。
「鉄格子のほうに頭を向けて眠るように……」
「わかりました」
 鉄格子の近くに顔があると、深夜の見回りのときに存在を確認しやすい。  
 布団の上下を、袋状になった白い布団カバーに入れるのを手伝ってくれたあと、看守たちは出ていった。「ガチャーン」と重々しい音が響き、彼らの姿は私の視界から消えた。頑丈な鉄格子を眺めていると、あらためて犯罪者になったことを思い知らされた。
 たとえ犯罪者を生み出すような強引なやり方でも、警察官にとって逮捕は手柄のはずである。あの警官たちにとって、今夜の晩酌はとりわけうまかったのではないだろうか。おかげでこちらは檻の中である。
 悔しさが込み上げてきたが、どうすることもできない。部屋の中央に布団を敷き、敗北感を噛みしめて眠った。

 留置場の仲間たち

 深夜にトイレに立った。驚いたことに室内灯が消えている。監視の目が届きにくいだろうから、照明はつけたままだろうと思っていたのだ。
 再び布団に入ったが眠れなくなり、あれこれ考え事をしているうちにしだいに窓の外が明るくなってきた。それから1時間ほど経過しただろうか。うつらうつらしているといきなりブザーが鳴り響き、室内の蛍光灯がともった。飛び起き、鉄格子越しに壁の時計を見ると、ちょうど7時を指している。
 布団を畳んでいると看守が姿を見せた。点呼のあと「26番」という番号を頂戴した。ここにいる限り、26番が私の名前変わりになる。
「約20分後に洗顔と歯みがきが出来るので、それまで待つように」
 1号室から順番だという。私が入ったのは6号室なので、いちばん最後だと告げられる。留置場での生活は、すべてにおいて耐えることを強いられる。そして、プライバシーなどない。
 胡坐をかいて待っていると、看守3名が風のように現れた。彼らはすばやく配置につき、房の扉が開けられた。命じられるままに布団を抱えて出ると、戸棚に収納した。そのあと、歯みがきと洗顔が許可された。看守3名に囲まれ、監視されての洗顔である。
 石鹸とタオル、それに歯ブラシなどを持って留置されたが、何ひとつ私物の使用は許可されなかった。タオルは古い物でも辛抱できたが、渡された歯ブラシはビジネスホテルで見かけるような安物で、これはひどかった。この使い捨て歯ブラシを、釈放されるまで使いつづけることになる。
 洗顔が終わったも、すんなりと房に戻れるわけではない。留置場特有の儀式がある。看守に手の平、手の甲をしっかりと見せ、そのあと壁に両手をつけ、両脚を大きく開いて所持品の検査をされる。もちろん何も持っていない。
 最後に足の裏と口の中を見せ「よおーし」という許可を得て、やっと房内に入れる。こうやって、絶対服従を体に叩き込まれるわけである。

 室内を歩いて軽く運動していると、いきなり差し入れ口がパタンと開いた。朝食の時間である。座って待っていると、差し入れ口から仕出し弁当が顔を覗かせた。受け取ると、次はみそ汁、お茶という順番で入ってきた。
 ご飯の量は少なく、おかずも貧弱である。おまけにおかずは味付けが薄く、食べた気がしない。浜岡原発で働いていたときの仕出し弁当が290円だったから、この弁当はその半額の150円といったところだろうか。
 弁当に箸をつけたとたん、ポップ系の音楽が大音量で流れた。収容者のリクエストなのだろうか、それとも看守の好みなのだろうか、どちらにしてもあまりセンスがいいとは思えない。3分ほどで朝食をすませたあと、ぬるくなったお茶を飲んでいると、部屋を移ることを告げられた
 収納したばかりの布団を戸棚から引っぱりだし、両手で抱えて看守のあとをついていった。そのエリアでは3つの房が横一列に並んでいて、数名の留置人の姿が望めた。その光景を目にした瞬間、無性に嬉しくなった。人里離れた田舎から、賑やかな町に出てきたような感慨があった。

 1号室と2号室の前にカウンターがあって、高齢の看守と20代の看守が詰めている。高齢の看守は、見るからに人柄のよさそうな顔立ちをしている。私を引率した看守は、彼らにバトンタッチすると戻って行った。
 若い看守から身体検査され、足の裏や口内を見せるという儀式を終えて入った3号室には、相撲取りのような立派な体格をした先輩がいた。
 彼は24番。聞いてもいないのに、36歳になると教えてくれた。
「昨夜からですよね」
「ええ」
 なぜかよく知っている。
「6号室には、僕も3日間放り込まれていました。ひと晩だけならわからないでしょうけど、あそこに入れられると孤独という拷問を受けることになります。だから、6号室は皆が嫌っているんですよ」
 24番は窃盗罪で逮捕され、すでに1ヵ月余り収監されているのだという。
「空き巣ですよ。1年間ほど、袋井から磐田周辺の民家を相棒と2人で荒らし回りました。僕はいつも見張りと運転手役だったんですが、逮捕されたあと、盗んだ金額が1千万円を超えていたと知ってすごく驚きましたよ。だって僕が受け取った金額は、全部で百万円ほどでしたからね」
「つまり、分配は10対1ということになりますね」
「いやいや、とんでもない。実際には10対1どころか、9・5対0・5といったところですよ。本当に馬鹿なことを仕出かしたと後悔の日々ですよ」
 独身者の彼は地元の出身で、両親と一緒に暮らしている。アルバイト感覚で空き巣の片棒を担いでいたらしく、普段はちゃんとした職についている。
「会社は罪を償ったら再度雇いたいからと言ってくれるのですが、もうその会社に戻るつもりはないです。もし会社に復帰しても、ずっと元犯罪者というレッテルを貼られたままですからね。耐えられないですよ」
 わずか百万円の稼ぎのために両親を泣かせ、まわりから白い目で見られるようになり、社会的な信用を失うと同時に仕事も失ったことになる。
 真面目そうな顔つきをしているので、今回の窃盗以外の犯罪歴はないだろうと思っていたが、10年ほど前に東京で詐欺事件を起こして捕まったことがあると、隠すことなく教えてくれた。
「いままで、この部屋にひとりきりで?」
 私は24番に尋ねた。
「いや、4日前まで懲役太郎が寝泊まりしていましたよ」
「懲役太郎ですか?」
「ええ、刑務所をわが家ぐらいに思っている救いようのないクソオヤジですよ。懲役につきたいがために包丁を持って郵便局に押し入り、現行犯逮捕されたと言ってました。ところが当てがはずれ、たった2ヵ月の留置場暮らしで釈放されたんですよ」
「刑務所が好きとは、変わった男がいるものだね」
「話しかけても、だんまりを決め込んでいるような無気味なオヤジでした。あんなヤツが理由もなく人を殺しちゃうんでしょうね。一緒にいて怖くて仕方なかった。懲役好きなんだから野放しにしないで、一生監獄に閉じこめておくべきですよ」
「そうだよね」
 会話に夢中になつていると、いきなり「26番!」という声が響き、高齢の看守が房の鍵を開けはじめた。会話を叱責されるのかと覚悟していたが、そうではなかった。いまから本を貸すので、出なさいと言うのだ。
 廊下に連れて行かれた。棚に30冊ほどの書物が並んでいる。とても本など読む気になれなかったが、小説や雑誌のほかに漫画も何冊かあった。漫画本なら退屈したときに重宝すると考え、弘兼憲史作の「黄昏流星群」を一冊抜きだした。数多くの留置人の無聊を慰めたのだろう、表紙が破れそうになっている。

 3号室に戻ると、24番がトドかアザラシのように寝そべり、ノートに書きものをしている。反省文を書いているのだと言う。書かされていると言ったほうが正しいだろう。室内では熊のように歩き回ろうが、硬い体を捻って簡単な運動をしようが自由である。だらしなく寝そべって、漫画本を読んでいても文句は言われないのだという。
 それにしても暑い。空気の流れがないので、なおさら暑さを感じる。澱んだ空気が肌にまとわりつくような蒸し暑さである。ノートと格闘している24番の鼻の頭に玉の汗が浮かんでいる。そのうち「暑い暑い」と叫び、ノートをうちわにして扇ぎだした。
「冷房が入るのは、今月の15日からなんですよ。まだ1週間近くありますからね。冷房が入るまでは、ここは地獄ですよ」
 冷房が入るという15日になっても、まだ収容されているのだろうか。そんなことをぼんやりと考えていた。
 12時きっかりに昼食。朝食と同じようなメニューである。ただ、みそ汁はついていない。みそ汁は朝だけ出るのだろう。雑音のようなBGMを聴きながら、弁当に箸をつけた。ご飯の厚みが1・5センチほどしかなく、立派な体格をした同房者にはもの足りないのではないだろうか。
 それに1ヵ月間、この食事だけなら確実にスマートになるはずなのに、なぜかぶくぶく太っている。すぐにその謎がとけた。昼食のあとに猫なで声で看守を呼び、大きな紙袋を差し入れ口から渡してもらっている。紙袋の中身はお菓子。見事な肥満体は、せんべいなどの間食で維持していたのだ。

 24番はしばらくボリボリやっていたが、食べ飽きるとムックと立ち上がった。鉄格子にでっかい体を押しつけ、2号室の収容者に声をかけている。3号室から隣が見えるわけではない。正面の洗面台の横には絶好の位置に鏡が取りつけられていて、その鏡に隣室の様子が写る仕組みになっている。
 2号室には東京の出身だという長身の若者と、20代半ばのベトナム人青年が収監されていた。
「2人とも元気?」
 24番が大声を上げると、すぐに隣室の2名は立ち上がった。
「パーティをやってますか?」
 20番と呼ばれている東京の若者がにこにこ顔で言った。結婚詐欺で留置されているのでは、と思いたくなるほど端正な顔立ちをしている。番号が若いということは、長くここに収容されていることを意味しているのだろう。
「うん、やってたよ。もう終わったけどね」
 24番が露ほども暗さのない声音で返した。
 パーティとは、お菓子を齧ることらしい。
「また、いちだんと肉がついたみたいですね」
 20番は片頬に笑みを刻んでいる。
「ここでは体力勝負だからね。体重を落とさないように頑張っているよ」
 まるで喫茶店で会話しているような明るい声が響いている。
 ポジティブさを維持しないと神経が参ってしまう。犯罪を犯したのだから、囚われの身となっているのは仕方ないと諦め、留置場生活を彼らなりにエンジョイしている。
「ところでベトナム人は、あと2回入浴すると出所だな」
「そうですよ」
 小柄なベトナムの青年が鉄格子を両手で握り、たどたどしい日本語で呟いた。ここでの入浴は、月曜日と木曜日の週2度と聞いているので、来週中に出られることになる。
 それにしても、私語を禁じていないことに驚いた。留置人は罪が確定した犯罪者ではないので、隣室の者と大きな声で話し込んでも許されているのだろう。そこが刑務所と違うところである。
「何年、日本にいたの?」
 24番の甲高い声が響いた。
「だいたい3年です」
「まだ日本にいるつもりなの?」
「それは無理ですよ。ここを出たあと入管の施設に収容され、強制送還ですから」
「そうか、ベトナムに帰っちゃうのか」
「田舎には、恋人がいます」
「えっ、恋人がいるの? その恋人を、3年も待たせたんだね」
「ええ、会うのが楽しみなんですよ」
 ベトナム人青年が目を輝かせて叫んだ。
 2018年6月9日のK署の収容者は、私を入れて6名だった。そのうち 外国人は2名で、ベトナム青年のほかに30歳前後のペルー人が留置されている。彼らと接して感じたことは、全員が善人に見えたことだった。少なくとも、本当の悪党は滅多にここに入ることはないだろう。

 24番は隣室者との会話に飽きると、畳の床にどっかと座った。コンクリートの壁にもたれて漫画本に目を通している私に話しかけてきた。
「公務執行妨害罪っていうのは、結構、重い罪なんですよ。それに器物損壊が加われば、48時間の勾留で出るのはむずかしいと思いますよ」
 どうして私の罪状を知っているのだろうか。看守から聞いたことになる。他人の罪状を平然と留置人に教える署の姿勢に、違和感を覚えた。
 私は漫画本を閉じ、床に置いた。
「明日、検察庁に行くって言ってましたよね」
 24番は真剣な顔つきになっている。
「ええ」
「検察庁では検事の取り調べを受けることになるのですが、早くここから出ようと考えているなら、何ひとつ逆らわないですべて認めちゃうことです。そうやって検事の印象をよくすれば、もしかすると明日釈放ということになるかも知れませんよ」
「反論したら駄目ですか?」
「駄目ですね。とにかく逆らったら損をします。たとえ48時間で釈放されるような軽微な罪状でも、ヘタするとあと10日間の勾留を食らうことになります。だから、主張したいことがあれば出てから訴えればいいのであって、ここではひたすら従順さを装うべきですよ。警察や検察と闘っても、メリットはないですからね」
「……」
「でも一度逮捕すると、検事は簡単に出してくれないのが現状ですからね。検事が裁判所に勾留請求をもとめ、裁判所が認めると、さらに10日間の留置場暮らしということになりますよ」

 土曜日のせいなのか、この日の取り調べはなかった。
 4時頃、寝転んでうとうとしていると、弁護人が接見にみえたと看守から告げられる。静岡市からわざわざ来てくれたのである。私のような依頼者は困るだろう。まず最初に、弁護士に支払う金がない。それでも裁判になれば弁護を引き受けてくれることを約束して、O弁護士は帰って行った。
 6時、夕食。雑音のような音楽を聴きながらまずいダイエット食を摂ったあと、1号室から順に洗顔と歯みがきのために房の外に出される。たとえ数分間でも、房から出るとほっとする。
 夜8時、ホウキと塵取り、それに水の入ったバケツが2つと雑巾が2枚、室内に入れられた。同室の先輩が「室内とトイレ、どっちの掃除をします?」と聞いたので、「トイレでいいよ」と答える。
 留置場は、世間ではブタ箱と呼ばれている。しかし何もないこともあって、室内もトイレも清潔に保たれている。掃除を終えたあと、借りていた漫画本を返却し、棚から布団を取りだして室内に運ぶ。
 8時半、点呼がはじまる。
「24番いるか?」
 看守の声が響いた。
「24番、おります」
 私の横で気をつけをしている関取が声を張り上げた。
「よぉ~し」
 3人の看守の張りのある声が響き渡る。
「26番いるか?」
「26番、おります」
 24番にならって、私も声を張り上げた。
「よぉ~し」
 これは点呼というよりも、一種の儀式である。
 9時きっかりに布団を敷いて横になる。5分後に消灯。翌朝の7時に起床だから、留置場での睡眠時間は10時間近くということになる。眠れないのにズッと横になっているのも苦痛だなと考えていると、すぐに24番のいびきが聞こえてきた。

 浜松の検察庁

 3日目の朝を迎えた。その日は日曜日だった。8時前にはここを出て、検察庁に向かうことになる。検察庁では、パトカーを傷つけたことを認めるのはもちろんのこと、逆らうのはやめようと考えていた。抵抗の姿勢を見せて、さらに10日間も勾留されることになったら溜まったものではない。
 少し早めの朝食をとったあと、3号室を出た。
「手を出して」
 命じられるままに両手を前に突きだすと、手錠が私の両手首に食い込んだ。腰にロープを巻かれたあと、防刃ベストの着用。外部に出るときには留置人の生命を守るために、着用させるのが義務づけられているのだという。
「銃弾は無理にしても、刃物なら充分に防ぐことができるよ」
 護送車に乗りこんだあと、同行する看守が笑顔で言った。この日検察庁に向かう留置人は私だけだった。シャッターが開けられ、看守2名と運転手、そして私を乗せた護送車は走りだした。
 小雨が降っていて、車の窓を濡らしている。3日ぶりに見る外の風景だというのに、視界が悪い。菊川インターから高速に乗り、1時間弱で浜松の検察庁に到着した。
 地下の駐車場からエレベーターに乗り込む。エレベーター内では壁に向かうように指示されたので、何階で降りたのかは不明。
 だだっ広い待合室のようなところに連れて行かれた。片隅に動物の檻のような鉄格子付きの小部屋が並んでいる。そのひとつに入るように命じられ、手錠を解かれた。検事の取り調べが始まるまで、ここで待機することになる。 
 6畳ほどの広さで、プラスチック製の固定椅子が左右の壁際に4つずつ並んでいる。若者の先客がいて、彼のベストには「掛川」という文字が躍っていた。
 手錠をかけられた者が続々と入ってきたが、一瞬で目が覚めるような凶悪な顔つきに遭遇することはなかった。両手を手錠で固定され、猿回しの猿のように腰ヒモをつけられた容疑者たちは、すべてごく普通の面相だった。
 ただ80代と思われる小柄な爺さんがよろよろしながら、上背のある若者と数珠つなぎで入って来たときには、思わず目を見張った。それに女性警官の姿はちらほらと見かけても、手錠つきの女を目にすることはなかった。

 さんざん待たされ、昼からになるのかなと考えていると、いきなり「K署……」と呼ぶ声が響いた。長い廊下を通って検事の執務室へ向かった。
 広々とした室内。正面に30代の色白の女性検事が姿勢よく座っていて、その左側にトンボ眼鏡をかけた女性書記の姿があった。検事の前に置かれたパイプ椅子に着席を命じられた。
 手錠をはずされたが自由になったわけではない。看守たちは腰ロープを椅子に縛りつけると、すばやく片隅にある衝立の陰に隠れた。
「あなたは今年6月8日の午後2時20分頃、静岡県御前崎市池新田の鈴川橋のたもとにおいて、警ら中のK警察署の警官2名から職務質問を受けた際、いきなり激昂して暴れ出し、自分が乗っていた自転車を蹴ってパトカーを傷つけ、おまけに静止させようとした警官に対していちじるしく抵抗し、公務執行妨害罪で逮捕されました。これに間違いありませんか」
 女性検事が澄んだ声で、K署が作成した書類の罪状を読み上げた。職務質問を受けただけで、いきなり激昂して暴れ出したのなら狂人ではないか。それに自転車を蹴ったあと、私は露ほども抵抗の姿勢を取っていない。2人がかりで乱暴にパトカーに体を押しつけられたときも、手錠をかけられるときも無抵抗だった。
 2日前、担当刑事はきわめてフレンドリーな態度を装い、悪意ある作文をねつ造していたことになる。これは黙っているわけにはいかない。私はあっさりとこの日の釈放を諦めた。それなら遠慮することはない。言いたいことをすべてぶちまけてしまえ、と開き直った。

「パトカーを傷つけたのは事実です。でも、けっしてパトカーを傷つけようと意図したわけではなく、怒りにまかせて蹴った自分の自転車が運悪くパトカーに接触したというのが真相です」
 このとき初めて知ったのだが、パトカーの修理代は1万8900円だった。傷ついたというよりも、わずかに塗装が剥がれたための修理代ということになる。
「それに、職務質問されていきなり暴れだしたという内容にも反論したいと思います。2人の警官の態度はあまりにも高圧的であり、最初から逮捕に持っていこうというたくらみがあったと感じました」
「逮捕されることについて、身に覚えがあるのですか?」
「犯罪を起こしたことはありませんし、意図したこともありません。それなのに、今年に入って4度目の職務質問なんですよ」
「6ヵ月間で4度の職務質問というのは確かに多いですね」
「はい、私は常に警官に見張られていて、アパートから出てきた私を逮捕目的で職務質問したんだと考えているのです。逮捕が目的だから、最初から彼らの態度は傲慢であり、高圧的でした」
「職務質問の警官はいつも同じ人物でしたか?」
「いえ、違います」
「それなら、ターゲットにされていたとは断定できないのでは?」
「私は浜岡原発のある御前崎市に住んでいて、反原発運動に身を投じています。中部電力にとって私は邪魔な存在でして、地元警察と結託して私を‥‥」
「ちょっと待ってください。何を根拠にしてそんな話をしているのですか。それは、確固たる証拠のある事実ですか。それとも推定ですか?」
「証拠はありません。でも……」
「ここは証拠もないような、あやふやな話を議論する場ではありません。口を慎んでください」
「はい、わかりました」
 原発問題を持ち出すべきではなかった。自ら墓穴を掘ってしまった。今回の件が複雑化するのを、女性検事はあきらかに嫌がっている。まだ少しは今日中の釈放を期待していたが、これであと10日間の勾留は決定だろう。
 だが、彼女は正義の人だった。
「最後に聞きたいのですが、あなたが自転車を蹴ったとき、警官たちはどこにいましたか?」
「2人とも、私の背後にいました」
「自転車の近くにいたわけではないのですね」
「その通りです」
 警官を傷つける意図はなかったことを確認したのだと、私は理解した。
「わかりました。これで聞き取りを終了します。退室してくださって結構です」
 すぐに、2人の看守が衝立の陰から飛び出てきた。

 検事の執務室から退室したあと、再び檻の中に入れられた。右手だけ手錠をはずされて昼食の弁当を食べているときに、検察庁所属の警察官が入って来た。そして釈放だと告げられ、その場で「釈放証明書」を見せられた。
 めでたく放免となったのである。遠慮することなく、思いのままをぶっつけたのが好結果をもたらしたのだ。あの女性検事は、この以上の勾留はやり過ぎだと判断してくれたのである。
 帰りの車中でも、私の手首に手錠は食い込んだままだったが、胸の内部に清澄な光や風が入ってきたような晴れやかな気分だった。
 これで、栄養失調になりそうな弁当を食べなくて済む。あのワイヤーブラシのような安物の歯ブラシを使わなくても良くなったのだ。暑ければ窓を開けられるし、エアコンだって自由に使用できる。
 嫌な身体検査ともおさらばできるし、名前の代わりに番号で呼ばれなくても済む。おまけに毎日、風呂にも入れる。鼻歌気分だった。
「早く出られてよかったね」
 横に座っている高齢の看守が言った。彼は手錠が手首に食い込まないように、何度も緩めてくれた温情のある看守である。
「あなたはライターだと聞いていますが、今回の留置体験をどこかに発表するつもりですか」
「さあ、どうでしょうか。もし書くとしたら、Kホテルというタイトルはどうでしょうか?」
「えっ、Kホテルですか?」
「K署のことですよ。ホテルのようにのんびりと滞在できましたからね」
 これは負け惜しみであった。
「いいタイトルじゃないですか」
 警官らしからぬ言葉に、私は笑みを浮かべた。
「そうですか。でも、使いませんよ。こんな陳腐なタイトル」
 私は窓の外を眺めた。まだ雨は降り続いている。
 警察署に到着して、ようやく手錠とロープが解かれた。やっと自由の身になったのである。留置場エリアの小部屋に入り、借りていたジャージとTシャツを脱ぎ、自分の衣服に腕を通した。
 小部屋の中には3人の看守がいて、彼らの態度は好意的だった。私の逮捕は署内で話題になっているのだという。もしかすると署員の中には、不当逮捕だと思っている者もいるのではないだろうか。
 水着やゴーグル、着替えの入ったナップザックと、プラスチックのケースに入った石鹸やシャンプーを返してもらった。
「本当に『ぷるる』に行く格好で捕まったんだな」
 検察庁に向かう護送車の運転をしていた大柄な中年看守が部屋の外から眺めていて、満面の笑顔で叫んだ。普通なら、市が運営している保養センターに向かっている者に職務質問などしない。やはり、最初から狙われていたと考えるべきだろう。
「さきほど、御前崎の市議が面会に来ていた。もうすぐ検察庁から戻ってくると伝えといたから、待っているはずだよ」
 看守のひとりが笑顔で教えてくれた。
 私は、友人の運転する車でアパートに帰った。

 東京に向かう

 釈放された数日後にパトカーの修理代、1万8900円の請求書が舞い込こんだので、すぐに支払いを済ませた。その後も調書を取るためになんどかK署に出頭した。そのとき、職務質問をした2人の警官のことを、特にリーダー格の警官の横暴さを私は何度も訴えた。
「あの2人はなんの問題もない署員です」
 調書をねつ造した張本人である刑事は、ニタニタ笑いながら言った。
「それから署に連絡を取ってくれと言ったそうですが、確かに逮捕の五日前にも別の署員が職務質問をおこなっています」
「そのときに記録を取られたのですから、それさえ見てもらえれば私の素性はわかったはずです」
「その記録はすでに廃棄されていました」
「廃棄した? わずか5日間で記録を処分したというわけですか?」
「普通ならそんなことはないのですが、なぜか残っていないんですよ」
「……」
 そんなわけないだろ。30代の担当刑事は、子供だましの言い訳でごまかそうとする。だが私は、それ以上追及することはなかった。このことは、いずれどこかで訴えるチャンスがあるはずだ。そんな心境だった。
 4度呼び出された末に解放されたが、それ以後アパート周辺で頻繁にパトカーを目撃するようになった。あきらかに私に対する監視であった。それから検察庁からの呼び出しはなく、罰金を科せられることもなかった。

 2019年になっても、パトカーが堂々とアパート脇に貼りつくという状況に変化はなく、むしろエスカレートしているように感じた。
 それにしても、私が何を仕出かすと思っているのだろうか。何を警戒しているのだろうか。自暴自棄になった私が浜岡原発に爆弾を仕掛けるとでも考えているのだろうか。
 釈放後の調書取りのときに、女性検事の判断に対して担当刑事が怒りをぶつけることもあったので、再び逮捕にもっていこうとしているのではないだろうか。逮捕理由などいくらでもねつ造できる。警察権力の横暴に対して、私はあまりにも無力だった。
 監視されることに疲れた私は、思い切ってこの町から離れる決心をした。15年間で溜め込んだガラクタはすべて処分し、体ひとつだけで逃げるようにして東京に向かった。2019年4月末のことである。

 東京に到着すると、上野のカプセルホテルに滞在しながら職探しに励んだ。だが高齢ということもあって、就職は困難を極めた。半月たっても職を得ることができず、窮した私は思い切って「自立支援センター台東寮」に飛び込むことになった。ひと言でいえばホームレスの収容所である。

画像2

 そこは、想像を裏切らないほど凄まじいところだった。公園やビルの片隅などをねぐらにしている野宿焼けしたホームレスだけでなく、ひきこもりや、あるいは心に悪魔を飼っているような一筋縄でいかない連中など、ごった煮の鍋の中身のようにさまざまな種類の人間が棲んでいた。
 個室を与えられる道理もなく、8部屋に約60人が荷物のように詰め込まれ、ひとり分の専用スペースはたったの一畳というお粗末さである。おまけに食事は豚のエサ。各部屋には牢名主のような連中がいて、その多くは暴力で支配している。
 私が居候することになった部屋のネズミ目の牢名主は、昼間は毎日のように出かけ、夕方5時の門限直前になって背中のナップザックをパンパンに膨らませて戻ってくる。電車や公園で置き引きをやっているのである。
 台東寮の宿泊者の年齢は10代から60代、70代とバラエティに富んでいて、チンピラもいれば、元ヤクザもいる。出所したばかりの40代の元結婚詐欺師もいれば、台東寮をホテル代わりにして稼いでいるパチプロもいる。 
 女装趣味の中年男も暮らしているし、飯場ガラスの暮らしに嫌気が差した者が逃げ込んだりしている。それにここに来れば、働かなくても済むとばかりに飛び込んだ若者もいる。
 だが、せっかく3食と寝床にありつけたのに、規律の厳しさから脱走する者が後を絶たない。あるいは万引き事件を引き起こして寮から追放される者、喧嘩騒動の末に強制的に退寮させられる者。それに禁じられている酒を飲んで暴れ、叩きだされる者までいた。しかし、台東寮での生活は私にとって、まさに楽園暮らしだったことを最後に付け加えておく。

「ホームレス自立支援センター台東寮」での7ヵ月と3日間の生活記録は、今年(2021年)12月28日に「彩図社」から出版される「ホームレス収容所で暮らしてみた」という著書に詳しく書いているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

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