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夜這いの風習


 北部タイの山岳地帯で暮らす、自由な恋愛観を持った一夫多妻の民族・アカ族。男は彼らの生き方に魅かれ、村で暮らすようになる。

 丘の上の集落

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 敵の攻撃を考慮したのだろうか。そのアカ族の村は丘の頂あたりに家々が寄り集まり、まるで村全体が要塞のような造りになっている。巨大な猛禽類の爪跡のような筋状に鋭くえぐられた坂道を、陣内孝志は丘の頂までいっきにバイクを走らせた。
 村の中心部である頂上周辺は小広場になっていて、その広場を取り囲んで環状にかや葺き屋根の貧しげな家々が建ち並んでいる。
 広場に面した村の中央をつらぬく道のほとりに小さな売店があり、数名の若者がたむろしている。その中には、16、7歳くらいの年頃の巻きスカートにゴム草履という2人の娘のきゃしゃな姿もあった。
 彼女たちの傍らでバイクを停止させると、いきなり村に乗り込んで来たよそ者を怖れるかのようにあどけない顔を凍らせ、険のある目で孝志を睨みつけると慌ててどこかに走り去った。
 娘たちの去ったあとの売店前には、粗末な長椅子に座って酒盛りをしている3人の若者が残された。彼らはうつむいたまま押し黙り、上目づかいにちらちらと警戒するような視線を孝志に注いでいる。

 孝志はバイクから降りると、彼らの前を通って物置小屋のような売店に入ってコーラを注文した。
「コカ・コーラは置いとらんよ。ペプシならあるけんど」
 店番をしていた老人がたどたどしいタイ語で言った。
「じゃ、ペプシでいいよ」
 前歯の欠けた小柄な老人から渡されたペプシ・コーラはまったく冷えていなかったが、電気の来ていない村では仕方のないことだった。
 瓶についている埃を指先で拭いながら小屋から出ると、うさぎのように目を赤くした長椅子の若者のひとりが、おどおどした目つきで声をどもらせながら何事か言った。
 タイ語を使用しているようだが、なんて喋っているのかよくわからなかった。だがその素振りから、酒盛りの仲間に加わらないかと誘っているらしかった。孝志は笑顔でペプシの瓶を指さした。
 Tシャツにジーパンというタイ人のような格好をしたその若者は、酔いの回った顔でつぎに喋る言葉を捜していた。やがて目の奥に探るような光を宿すと、かすれ声でポツリとつぶやいた。
「アカの娘が欲しくて来たのか?」
 こんどのタイ語はよく理解できた。 そのような目的で村を訪れる輩がいるのだろう。
「アカ族の女性はかわいいからな。娘欲しさに村に乗り込む者がいるの?」
「いっぱいいる。騙して村から連れ去るんだ」
「そうか」
 孝志はあいまいに微笑むと、若者の側から離れた。

 アカ族はこの国の先住民ではない。彼らは1950年代からミャンマーを経由してこの国に入って来るようになった。
 3万人から4万人ほどがタイ北部の山岳地帯で暮らしていて、村の数は200から300ほどと言われている。コック川流域からドイ・メーサロンの険しい山岳地帯に数多く集落を営んでいる。
 自称はアカ。タイ人は彼らを「イコー」と呼んでいる。神の子孫であると固く信じていて、文明と呼ばれるものにはほとんど汚染されることなく、伝統的な生活習慣とアニミズムの信仰を守って暮らしている。
 彼らの源郷はチベットの天地である。
 チベット高原に故郷を持つ民族として、他にリス族がいる。だがフレンドリーなリス族に比べ、アカ族は閉鎖的な民族だった。彼らの中に入っていくのは容易ではないというのが、孝志の体験上での結論だった。
 それはタートン周辺や、メースーアイの奥地にあるアカ族の村々で嫌というほど味合わされていた。村人とうちとけたつもりでいても、彼らの態度の端々によそ者の孝志に対する警戒心がほのみえた。何気なく投げかける彼らの視線に敵意と憎悪が垣間見え、思わず身震いしたこともあった。
 村に入るのはたやすいが、彼らの心の中に入っていくのは簡単ではなかったのだ。まるで他民族との交流を絶ち、孤立した生き方を望んでいるかのようであった。
 タイ北部の山岳民族の中で、もっとも原始的な民族と言われているアカ族に関するその他の知識は、水を恐れ、犬を食用とする民族。自由な恋愛観を持った、一夫多妻の民族。その程度だった。

 生ぬるいペプシを飲み干すと、孝志は小広場を取り巻く家々をため息まじりに見渡した。村に入ってまだ10分ほどしか経過していなかったが、そろそろ引き上げようかと軽い失望と虚しさの中で考えていた。
 長くここにいたところで、いつもの繰り返しであることはわかり切っていた。それに、陽気で気さくなリス族の村を訪ねたときのような、何が起こるかわからないわくわくするような期待は、アカ族の村では望めそうになかった。
 村を離れるつもりでバイクに向かっていると、広場を横切って来た30歳くらいの男が笑顔で話しかけてきた。小柄で猿のような顔をした貧相な男だったが、垣根をまったく感じさせない彼の態度に孝志は好感を抱いた。だが笑顔と親しげな態度の裏には、男のあるもくろみが隠されていたのだ。
「どこから来たのか?」
「この村に遊びに来たのか?」
「ドイ・メーサロンの何々村には、俺の親族がたくさん住んでいるが、その村には行ったことはあるか?」
 といった類の、山岳の旅行者なら一度は必ず耳にするありきたりの質問のあと、男はおもむろに本題を切りだした。
「このバイクは、あんたのか?」
「そうだが‥‥」
 孝志がうなずくと、彼は表情を輝かせた。
「ふもとの畑で農作業をしている妻に急用ができて行かなきゃならんのだが、少しのあいだ俺にバイクを貸してくれないか?」
 当然、返事を渋った。
「すぐに戻ってくる。ほんの30分ほどだ。俺の名はアチュという。家は、あの道を少し下ったところにある」
 彼は広場から放射状に伸びた細い道のひとつを指さした。
 男はいかにも純朴そうで、他人を平気で欺くような人間には見えなかった。それに、赤銅色に日焼けした顔からは土の匂いが濃厚にただよっていて、働き者といった顔つきをしている。警戒する気持ちはもちろんあったが、孝志は男を信用することにした。つまり彼の希望どおり、少しのあいだバイクを貸すことに決めたのだ。
「本当に30分で戻って来るんだな?」
「もちろんだ。嘘はつかない」
「わかった。充分に気をつけて走ってくれ」
「貸してくれるのか。スマンな」
「マイペンライ」
 男がバイクを発進させ、ゆっくりと坂道を下って行った。

 若者のひとりがふらふらと長椅子から立ち上がった。あっけに取られた表情で孝志の側まで来ると、ろれつの回らない声で咳き込むように叫んだ。
「アチュにバイクを貸したのか?」
「そうだよ」
「本当にアチュに貸したのか?」
「そうだが‥‥。でも、どうして?」
 他の若者も椅子から立ち上がり、唖然とした表情をしている。
「まさか、あの男がバイクを盗んだと言うんじゃないだろうな?」
 孝志は急に心配になり、あわてて叫んだ。
「いや、そうじゃない!」
 あとから立ち上がった若者が言った。赤い顔をしていても、声音はしっかりしている。
「だったら、問題ないだろ?」
「問題大ありだ。だって、あの男はバイクの運転ができない。一度もバイクに乗ったことがないんだ」
「えっ? ‥‥冗談だろ」
「本当だ。アチュは、バイクの後部座席に乗った経験しかない」
「??‥‥」
 その頃にはアチュという男の背中は、低速で道の損傷を器用に避けながら早くも中腹のあたりまで下っていた。やがて樹木の陰に隠れて見えなくなったが、バイクにまたがった姿は背筋も伸び堂々としていて、孝志よりもはるかに運転に熟練しているように思えた。酔った若者が勢い込んで言ったように、運転が未経験にはとても見えなかったのだ。
 だが男は行ったきり、約束の時間になっても帰って来なかった。1時間が早々と過ぎ、2時間目になろうとしていた。孝志は若者たちが酒盛りをしていた長椅子に腰をおろし、根気よくアチュの現れるのを待ちつづけた。

 大河メコン

 季節が雨季から乾季に移行する10月下旬、チェンマイの北方200キロに位置するチェンライの安ゲストハウスに滞在していた孝志は、日帰りの予定でチェンセーン方面に向かう計画を立て、時計塔近くのレンタル屋で100CCのバイクを借りた。
 北部タイには「チェン」と冠せられた地名が数多く存在する。都という意味である。チェンセーンも11世紀から栄えたランナータイ王国の都城のひとつであり、城壁や寺院など数多くの史跡にめぐまれている。だが孝志は史跡よりも、この町のほとりを流れている大河メコンに関心があった。雄大なメコン沿いに広がる豊かな自然の中を、風を切って思いきりバイクを疾走させようともくろんでいたのだ。大河の対岸はラオスである。

 朝8時過ぎ、ナップザックだけという軽装で孝志はバイクを走らせた。もしかするとどこかで一泊するかも知れないという思惑があったので、ナップザックには歯ブラシやタオル、それに着替えの下着が入っている。
 市街地を抜け出ると、交通量の多い幹線道路を北に向かった。チェンセーンまで60キロほどと手頃な道のりである。沿道に広がる田園では稲が黄金色の実りを見せ、あちこちで盛んに稲刈りが行なわれている。
 いまではすっかり機械化された日本の農村も昔はこうだったのだろう。つば広の麦わら帽子を被り、パカマと呼ばれる格子縞の布を首に巻いた男女数名が、陽ざしの強い中を横一列になって鎌で刈り進んでいる。
 チェンセーンまでの道のりのほぼ中間にあたるメーチャンという田舎町に到着すると、朝食をとっていなかった彼は市場近くの食堂に入った。チキン入りカオパット(焼き飯)とスープという簡単な食事をすませ、再び幹線道路に戻った。
 ふと稲刈り風景を間近で眺めたくなり、衝動的にバイクを脇道に乗り入れた。 少しくらい寄り道をしても昼前にはチェンセーンに到着でき、そのあとメコンを堪能する時間は充分にあった。そして、夕暮れ時にはチェンライに帰り着くことができる。
 清々しい香りのただよう農道をバイクでゆっくりたどった。しかし、どこまで走っても、稲刈りは道路からかなり隔たった場所で行われているため、期待したような光景に出会うことはできなかった。
 やがて傷みの激しいアスファルトの道は、穴ぼこだらけの赤土の道に変わり、道幅もかなり狭くなってきた。行く手には、濃い緑の山々がなだらかな盛り上がりを見せている。
 そろそろ引き返そうかと思いながらもさらに進んでいると、小集落が現れ道端に売店が見えてきた。孝志は売店前でバイクを停めると、店内に入った。奥の板の間に寝転び、大きな尻をこちらに向けてテレビを観ている中年女性に声をかけた。
「おばさん、あの山にチャオカオ(山岳民族)は住んでいないかな?」
 道の行く手に、牛のように横たわっている山並みを指さした。
「いっぱいいるよ」
 腰をひねるようにしておばさんは起き上がり、自信ありげに言った。
「たとえば?」
「ムソー(ラフ族)、イコー(アカ族)、リソー(リス族)、ヤオ(ヤオ族)、それにメオ(モン族)。山の上にうじゃうじゃいるよ。気味が悪くってね」
「リソーの村もあるんだね」
「ああ、いっぱいいるよ」
 リス族がいると聞いて孝志の胸は高鳴った。引き返そうなんて微塵も考えなかった。道はたどるにつれて悪くなる一方だったが、少しも気にならなかった。思いがけず、このような場所でリス族に会えるのだ。長く離れ離れになっていた恋人に、やっと出会えたような心境だった。リス族の女性の民族服姿に、孝志は魔法にかけられたように魅了されていたのだ。

 ギシギシと音を立ててたわむ、危なっかしい板の橋の架かった小さな流れをいくつか越えた。ぬかるむ道はバイクを押して通った。カーブが多くなってきた。道端に農家が点々としている。小高い山や丘のふもとをしばらく走っていると、やがて山間にヤオ族の村が見えてきた。
 年配の女性数名が、民家の軒下に寄り集まって縫い物をしている。このクソ暑いのに、全員が赤い毛糸の襟巻のついたオーバーのような濃紺色の民族服を着込み、頭に刺繍の入った布をターバンのように巻きつけている。チェンライの市場でこの民族の姿をなんどか見かけたことはあるが、村に入ったのは今回が初めてだった。
 ヤオは自称で、タイ人も彼らをヤオと呼んでいる。また彼らは自らをミエンと呼ぶ。ミエンとは「人間」という意味である。中国の雲南地方から渡って来た彼らの多くは中国語を自由にあやつり、漢字の読み書きのできる者もいると聞いている。それを裏付けるように民家の戸口には、漢字の札がべたべたと貼りつけてある。

 バイクから降りると彼女たちに近づき、リス族の村にはどう行けばいいのか尋ねた。しかし、ここにいるのが年配の女性ばかりのせいか、タイ語が思うように通じない。困惑していると、民家の内部から幼児を胸に抱いた若い女性が出てきた。孝志は彼女に同じ質問をくり返した。
 普段着姿のその女性は盛んに首を傾け、軒下の年配者に聞いたりしていたが、しばらくしてリス族の村はこのあたりには存在しないと断言した。
「アカ族の村は、この道を少しもどった丘の頂にある。だけど、リス族がこの近辺に住んでいるなんて聞いたことがない」
「この道をさらにたどって行くと、山岳民族の村はあるの?」
「もう少し走ると、雲南人の村に行き着く。その先の道を谷間に下りていくと、深い森の中にラフ族の集落がある。だけど、谷間に下りる道はとても険しくて、あなたが乗っているような小型のバイクではとても無理よ」
 この周辺にリス族は住んでいなかった。売店のおばさんの話とは食い違っているが、こんなことはよくあることだった。彼女は知っている山岳民族の族名を並べただけなのである。

 中国人顔をした色白のヤオの女性に礼を言って、孝志は村を離れた。中国の雲南地方から移住してきた人々が暮らしている村は、ヤオ族の村からいくらも離れていなかった。かや草の茂る野原を少しバイクを走らせると、道路沿いに中国風の丸窓の民家が見えてきた。これが雲南人の村らしい。
 村人は農作業に出ているらしく、通りや民家の周辺に人影はなく、民家も戸を閉ざしたままである。バイクを徐行して走らせたが住人に出会うことはなく、戸数20ほどの村落はすぐに尽きてしまった。
 さらにバイクを走らせると、けもの道のような細く険しい道が谷間へと急勾配で落ち込んでいる。幼児を抱いたヤオの女性が語っていたように、谷間は鬱蒼とした森になっている。その森の中にラフ族の集落があるとのことだったが、確かに孝志のバイクでたどれる道ではなかった。
 道を引き返した。雲南人の村とヤオ族の村を通り過ぎ、丘の頂にあるというアカ族の村に向かう道との分岐点に差しかかると、衝動的に左の道を選んだ。しばらくバイクを走らせていると、細く急な上り坂が見えてきた。この道の先にアカ族の村があるのだろう。
 雨水によって激しく傷んだ坂道を孝志は睨みながら、その道をたどるべきか悩んだ。アカ族の村に入ったところで、奇抜な格好をした人々を眺めるだけで、一巡もしないうちに村を離れることになるだろう。
 だが、村はすぐ目の前にある。ほんの数分バイクを走らせただけで、まったく未知の村にたどり着くことができる。それに、メコンを楽しむ時間はまだ充分にあった。孝志は行ってみる決心をし、道の損傷を避けながら慎重に坂道を上って行った。

 アドド 

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 アチュが村に迷い込んだ日本人のバイクとともに消えたという話が、昼間から酒盛りをしていた若者らによって伝えられ、村は蜂の巣を突いたような騒ぎとなった。村の男数名が孝志のもとに駆け寄ってきた。だが、話しかけようとはしない。無言で孝志の顔を眺めているだけだった。
 彼らは寄り集まってしばらく話し込んだあと、大柄な青年がバイクを走らせた。アチュを捜しに行ったのだ。それから1時間弱でもどって来た青年の報告では、近くの村や畑などアチュの立ち寄りそうな場所を何ヵ所か捜したが、発見できなかったという絶望的なものだった。
 孝志のまわりに遠慮がちに村人が集まってきた。その数はしだいに増えていき、最後には3、40名ほどの男女が取り囲んだ。口々につぶやく彼らの言葉はほとんど理解できなくても、孝志のことを心配しているのは、その表情を見ただけで嬉しいほどよく理解できた。
 アカ族を粗野だとか無知だとか、閉鎖的で排他的などうしょうもない民族だと誤解していたが、彼らは他者に対する思いやりの強い民族であった。目から鱗が落ちる思いだった。
 アチュを捜しに行った青年が近づいてきた。
「俺はアグという。あんたの名前は?」
「孝志だ」
「タカシか。呼びやすい名だ。タイ語が達者だけど、長くこの国で暮らしているのか?」
「3年になる。変化のない日本の暮らしに嫌気が差し、骨をうずめるつもりでタイにやって来た。年齢は36歳だ」
「そうか。俺よりもひとつ兄貴だ。あんたのバイクは必ず見つける。だから、安心してここで待っていてくれ」

 アグと名のった男は再びバイクにまたがった。やがて陽が西の山の鞍部に沈もうとする時刻に、彼は後部座席にアチュを乗せて戻ってきた。アチュは悄然としている。右頬にすり傷をつくり、少しびっこを引いている。
 アチュは追い立てられるようにして、村人数名とともに1軒の民家に入った。その民家の前に置いてある縁台に座って待っていると、しばらくして男たちがぞろぞろと出てきた。アチュも出てきて孝志の前で立ち止まった。目をしょぼしょぼさせながら何か言いたそうな顔をしていたが、結局、無言のまま足を引きずりながら行ってしまった。
 集まっていた男女も散り散りに引き上げていき、色黒で坊主頭の50年配の男だけが残った。彼はにこやかな表情で孝志の隣に腰を下ろすと、たどたどしいタイ語で喋りだした。
「わしの名はアドという。村人からは、アドドと呼ばれている。アチュとあんたのバイクはメーチャンの町近くで発見された。心配していたとおり、やはり事故を起こしていた。バイクは壊れていたため、アグが修理工場に運んだそうだ」
「どうしてメーチャンまで? 畑の妻に用事があると言ってたけど」
 孝志は咳き込むようにして叫んだ。
「ふもとの畑で働いている妻に用があったのは本当らしい。そのついでにメーチャンまで行き、帰り道に運悪く事故に遭った。壊れたバイクの修理に2、3日かかるそうだ。修理代は、3千バーツ(約9千円)くらいだろうとアグが言っていた。アグとは、アチュを捜しに行った男のことだ。おっと、それは知っているな。アッハハハ‥‥」
「‥‥」
「修理代に3千バーツかかるそうだが、あの男には弁償する金がない。金がないなら、警察に行こうと、わしらはいった。すると、勘弁してくれと泣きだした。どうする?」
「どうすると言われても」
「金もない。田畑もない。自分の家さえ持たない。アチュは貧しいこの村の中でも、いちばんの貧乏人と言ってもいい。わしは自信を持って断言する」
 金がないのなら、修理代はこちらが被ることになる。とんでもない男にバイクを貸したものである。孝志は改めて悔やんだ。
「家はあると聞いているが‥‥」
「ない。おそらくは見栄で家があると言ったんだろう。その証拠に、アチュはアグの家に居候している。アグの家の台所の片隅で、アチュの家族4人が生活している。だから、あいつは無一物だ。何も持っていない。強いて言えば、アチュの財産は妻子だけだ」
 そう口にしてからアドドという初老の男は、何かを思い出したように急に大口を開けて笑いだした。

 愉快そうに笑いつづける彼の口の内部は赤黒く、まるでチョコレートを欲張って口いっぱいに頬張っているように見える。チョコレートの溶けたような感じのものが歯にこびりついて、層を成している。
 山岳民族の村に入ると、土間、民家の壁、路上など、絵の具が飛び散ったように赤黒く汚れているのを目撃することがある。彼は「キンマット」と呼ばれる檳榔樹の実を口に含んでいたのである。口中を清らかにすると言われ、山の恋人たちはこの実を噛んで夜の森で落ち合うと聞いている。
「ハハハハ、明日になったらアチュは言いだすだろう。アッハハハハ‥‥」
 笑いつづけていて、つぎの言葉が出てこない。孝志は催促した。
「明日になったら、アチュはなんと言う?」
「子供を、ワッハハハ。子供を買ってくれって、ウワッハハハ‥‥」
「誰が買うんだ?」
「ウワッハハハ‥‥。もちろん、あんただ」
「俺? 俺はいらない」
「子供は2人いる。男の子と女の子だ」
「どちらもいらない!」
 孝志は憤慨して叫んだ。そんなことなど少しもお構いなしにのっそりと立ち上がると、アドドは民家の柱をピシャーン、ピシャーンと平手で叩きながら、上体をよじって楽しそうに笑っている。
「それならアチュは、ウワッハハハ。妻を、ワッハハ、妻を買ってくれって言いだすだろう。ウワッハハハハ‥‥」
「やっぱり、俺が買うのか?」
「そうだ。ウワッ、ウワッ、ウワッヒャヒャヒャヒャ‥‥」
 ぶっ飛ばしてやろうかと思った。
 だがアドドの底抜けな笑顔を見ているうちに、孝志は自分ひとりだけ憤慨しているのがしだいにバカらしくなってきた。山岳民族の村に入って、傷を負ったわけでも、生命の危険を体験したわけでもない。たかがバイクが壊れただけなのだ。たいした問題ではない。壊れたバイクは修理すれば元通りになる。そう考えると、陰鬱になっていた気持ちがかなり楽になった。
 チェンセーンへの小旅行の途中に気まぐれで立ち寄っただけなのに、運命のいたずらでその夜はアカ族の村に泊まることになった。孝志の寝る場所はアドドが提供してくれた。

 あくる朝、アドドの娘さんの手料理で食事を呼ばれていると、アチュが姿を見せた。うなだれて見る影もないが、子供を買ってくれ、妻を買ってくれとは言わなかった。アチュはしんみりとした口調で、事故のときの模様を説明しはじめた。
「あのときは仕方なかったんだ。メーチャンまで行った帰り道、村に向かう道に入ると、すぐ前を土砂を満載したダンプカーが走っていた」
「ちょっと待て。畑にいる妻に用事があると言ってなかったか?」
「うん、言った」
 声を荒げると、アチュの目にネズミみたいな臆病な光が宿った。
 わかりやすい表情を取る男である。
「メーチャンには何用で行ったんだ?」
「買い物」
「それで、何を買った」
「タバコ‥‥」
 うつむき、やっと聞き取れるような小声である。
「タバコなら町まで出なくても、途中の村でいくらでも売ってるだろ?」
「タバコも買いたかったけど、バイクを運転してみたかったんだ」
 声はさらに小さくなっている。
「バイクの運転経験はあるのか」
 アチュはバイクに乗ったことがないと語っていた若者の顔が浮かんだ。
「以前はよく運転していた。だけど、久しぶりなんだ」
「本当に運転したことがあるんだな?」
「もちろんだ。運転できなかったら、バイクを貸してくれなんてあんたに頼むわけがないじゃないか。そうだろ?」
「‥‥」
「それでさっきの話のつづきなんだが、メーチャンまで行ったあと村に向かっていると、すぐ前を土砂を山盛り積んでいるダンプカーが走っていた。嫌な予感がしたんだが、そのすぐ後ろを走った。すると別の、やはり道路工事のダンプカーがすぐ後方に迫ってきた」
「それでどうした?」
「バイクのスピードを上げると、後ろのダンプカーもスピードを上げた。2台のダンプカーの間隔は縮まるばかりだ。恐る恐る振り返ると、ダンプカーの運転手がすごい形相で俺を睨みつけている。そのとき俺は、このままだと挟まれて死ぬと思った。あの運転手に轢き殺されると思った」
「‥‥」
「妻子がいなかったら、俺は潔く死を選んでいただろう。あんたから借りた大切なバイクだ。傷つけるわけにはいかない。だが、俺には妻子がいる。家族の顔がはっきりと頭に浮かんだ。ここで、くたばるわけにはいかんと思った。その瞬間、俺はバイクから身を躍らせていた」
「バイクから跳んだのか?」
「勢いよく跳んだ。あのまま走っていたら、俺は間違いなく死んでいた。あの運転手とダンプカーに轢き殺されていた」
「ちょっと待ってくれ。バイクを道端に寄せようとは考えなかったのか?」
「ん?」
「道端に寄せ、そしてスピードを緩めれば、後方のダンプカーはそのまま走り過ぎたんじゃないのか?」
「??‥‥。だけど、あのままだと挟まれてぺちゃんこになっていた。バイクを犠牲にしてでも跳ぶしかなかったんだ」
 この男はやっぱり運転の経験がなかったと、いまでは確信を持っていうことができる。とんでもない男にバイクを貸したものである。

「あんたのバイクが俺の身代わりになってくれた。俺もいくらか傷を負ったが、このくらいの怪我はどうってことない。かすり傷だ。しかし不慮の事故だから、修理代を勘弁してくれなんて無様なことは言わない。いまから親族のところや、友人の家を片っぱしから回って借金を頼んでくる。俺の名誉にかけて、修理代は間違いなく弁償すると約束する」
「修理代を支払うと言うんだな」
「あたり前だ。任せてくれ!」
 アチュはきっぱりと宣言して出て行った。そして約束どおり、その日の夕暮れ時になってアチュは姿を見せた。
「金を集めてきたぞ」
 満面の笑みを浮かべている。
「そうか。約束を守るなんて、お前はたいした奴だ」
「これをバイクの修理代にしてくれ」
 握りしめていた黒い右手を開くと、紙幣が現れた。小さく折りたたんでサイコロみたいになっている。汗で濡れたその紙幣を広げてみると、500バーツ紙幣がたったの2枚しかない。
「ん、これだけ?」
「これだけって、千バーツもあれば修理代には充分だろう」
「お前なぁ、アグの家に居候しているのだから、ご主人様から金額を聞いていないのか? 修理代がいくらかかるのか」
「聞いていない。足りないのか?」
「全然、足りない」
「嘘!」
「嘘とはなんだ」
 声を荒げると、急に哀れっぽい目つきになった。見ていて可哀想になるくらいおどおどしている。その頃になると孝志には、バイクを壊したアチュへの怒りといったものはすでに消え失せていた。
 あのときバイクを貸すのを拒否していれば、アチュも事故に遭うことはなかったし、多額の償いをしなくても済んだ。だから思慮なく貸した自分にも責任があると、考えるようになっていたのである。
 それにアチュはどこかから千バーツという、彼にとって間違いなく大金に違いない金額を都合つけてきたが、これ以上彼が借金できる相手はもういないのではないだろうか。おそらくはそうだろう。
「でも、これだけで充分だ。この千バーツを、アチュの誠意として受け取らせてもらうよ。残りはもういいから」
 孝志はアチュに告げた。
「ほんとに?」
「ああ、本当だ」
 急にアチュは笑顔になった。まるで子供のような笑顔だ。おまけに、笑みを浮かべたまま首をひねってコキコキいわせている。
「それなら、この村に滞在しているあいだはなんでも言いつけてくれ。修理代の残りの分は、あんたのために働くよ」
「それは助かる」
「村を案内しようか?」
「それなら、水浴び場に案内してくれないか」
「いまから水浴びにいくのか?」
「そうだ。昨日も浴びていないからな」
「お安い御用だ」
 部屋に引き返し、ナップザックからタオルと石鹸を取りだしたところで、山岳民族の村の水浴び場には囲いがないことに思い至った。慌ててパーシン(腰巻き)を引っ張りして外に出ると、肩を並べて道を下って行った。民家が切れたところでアチュは足をとめた。
「この奥が村の水浴び場だ」
 アチュは草の生い茂った細い道を指さしている。
「アチュは浴びないのか?」
「俺はいつも暗くなってからだ」
 孝志にそれだけ告げると、アチュは逃げるように立ち去った。

 わずかばかりの木立ちによって遮られた水浴び場に近づくにつれ、陽気な笑い声や女性の甘ったるい声が誘うように響いてきた。夕焼け空を背景にして、10名前後の姿があった。アチュが断るわけである。陽が暮れた直後の水浴び場は、20歳そこそこの若者たちに占拠されていたのである。
 タイ人社会では、女性の水浴び姿を見るのはタブーとされている。盗み見た男は目がつぶれると信じられていて、それに夫婦でない限り一緒に浴びることはない。
 ところがアカ族の若者たちは、ここが男女交際の場であるかのように、水桶を挟んで仲良く輪になって水浴びしている。女性は薄いパーシン1枚きりだから、胸や腰にぴったり布が貼りついて、かなりエロチックである。それに男性のほうも、前はくっきりとその形になっている。このような場所で男女とも、生涯の伴侶にふさわしい相手を品定めしているのだろう。
 円筒形をした木製の巨大な桶に、ビニールパイプを伝わって清らかな水が勢いよく流れ込んでいる。パイプには蛇口がついていないので、水は出しっぱなしということになる。昼間、村の女たちはここで洗濯し、煮炊き用の水もここに汲みにくるのだろう。
 孝志は片隅でTシャツとジーパンを脱いだ。視線が背中に突き刺さる。パーシンをつけて水浴び場に行くと、さっと場所を開けてくれた。山水に手を触れただけで、ヒヤッとする。周囲に目を走らせると、女性の姿が圧倒的に多い。彼女たちの熱い視線を浴びながら体を洗いだした。
 うす暗くなってきた。陽が暮れると森は精霊たちの息吹に満たされる。
 アカ族はシャイだと言われている。嫌悪されてはいないようだが、娘たちの笑い声や話し声は完全に途絶えた。硬い表情でちらちらと孝志を盗み見ている。どうにも居心地が悪い。簡単に体を洗っただけで、早々に水浴び場から退散した。

 翌朝、アグが訪ねてきた。アチュのご主人様である。
「どうだ。アドドの家の住み心地は?」
「悪くない。食事まで提供してくれて、チェンライのゲストハウス暮らしよりもずっと快適だよ」
 本音だった。
「山岳での暮らしに慣れているみたいだが、アカの村に泊まったことは?」
「ない。いままでさんざん山岳民族の村に厄介になったのに、アカ族の村で寝泊まりするのは今回が初めてだ。リス族の村には何度も滞在している」
「リスは、きれいな娘が多いからな」
「確かに。でもアカ族の娘もなかなかのものだよ」
「昨日水浴びに行ったそうだが、お気に入りの娘はできたか?」
 小さなコミュニティである。情報の伝達は驚くほど早い。
「まわりは妙齢の娘ばかりなので、目のやり場に困ったよ」
「早い時刻は若者が利用することになっている。決まっているわけじゃないが、自然とそうなった。そこに、タカシが迷い込んだというわけだ」
「アチュに水浴び場への案内を頼んだんだが、そんなことは何も教えてくれなかった」
「タケシを気に入っているみたいだから、サービスのもくろみもあったんじゃないかな」
「確かに、アチュのおかげで目の保養をさせてもらったよ」
「アチュに感謝だな」
「ところで、彼女たちは何か言ってた?」
 知らなかったと言え、若者たちの聖域に踏み込んだのである。非難されても仕方ない。
「日本人がいきなり水浴びにきたので、びっくりしたって語っていた。娘たちは、その話題でもちきりだ」
 アグはにこにこしている。
「嫌われていないようなので安心したよ。でも、この次からは陽が暮れてから水浴びに行くことにするよ」
「どうして? タカシなら歓迎してくれるはずだ。もし俺が早い時間に水浴びに行ったりすると、娘たちから睨まれるけどな」

 その日の昼過ぎ、アグと一緒にメーチャンの修理工場を訪ねた。まだ修理は終わっていないのではと心配していたが、バイクはすっかり元通りになって油臭い工場の片隅に置かれていた。修理代は2800バーツだった。
「いまから、チェンライに帰るんだろ?」
「ああ、バイクをレンタル屋に返さなきゃな」
「気が向いたら、また村を訪ねてくれ」
「もしかしたら、明日にでも訪ねるかも知れない。歓迎してくれるか?」
「タカシなら、いつだって大歓迎だ」
 国道沿いにある修理工場の前でアグと別れたあとチェンライに戻り、バイクを返却した。そしてその翌朝、ゲストハウスをチェックアウトしてリュックを背負い、しばらく滞在する予定で孝志は再びアカ族の村に向かった。

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