私はスカートを履けない
私はスカートを履けない。
家のクローゼットの中にはたくさんのスカートが並んでいる。白いフレアスカートに赤いロングスカート、緑の柔らかいスカートや黒のタイトスカート。花柄もチェックもたくさん。ミニスカートだってもちろんある。
…私はスカートを履けない、って言ったけどそれは外での話で、部屋の中では一人ではいて楽しんでる。
そうだな、正しく言えば私はスカートを履いて外出することができない。
たった一回の記憶が私を怖がらせるんだ。
あの日はとても楽しみにしていた旅行の日だった。おしゃれをして友達と観光地へ。現地集合で私はバスと電車を乗り継いで一人でそこに向かった。
丸襟の花柄のレースのブラウスに淡い水色のロングスカートに白いリボンの付いたパンプス。それまでオシャレなんてしたことの無かった私が一番かわいいと思うものを合わせたハリボテのコーディネート。
白色なんてめったに着ないかならなんだか歩いているときは落ち着かなった。誰も自分のことなんて見ていないだろうに周りの視線が気になって仕方がなかった。
旅行先は大都市で、平日の昼間なのにたくさんの人がいた。バスから降りて駅の中から地下鉄に向かっていた時だった。妙に近くに足音が聞こえるなって思った。
そしたら「ねぇ、どこで服買ってるの?」って。あまりにも近くに聞こえた声に思わず振り向いてしまった。少し高めの若い男の声だった。
振り向いた先にいた男はひょろひょろしてて、幸が薄そうな顔にお土産袋を片手にぶら下げていた。大都市の街を歩いたことが無かった私はもちろん知らない男の人に声を掛けられるなんて初めてのことで対処法が分からなかった。
頭の中に過ぎったのは知らない人と喋ってはいけませんという幼いころの教えで、すぐに男から目を離した。
私は男のことを無視して地下鉄の案内表示に向かってずんずんと歩き続けた。並走してくる男の気配に身震いした。
でも男はどこで服を買っているのかと尋ねてきただけで、世間一般でいうナンパのようなことをしているわけではないのかもしれない。だからどこで服を買っているのかくらい教えてもいいのかもしれないと思った。
若者が良く使うファッションブランドの名前を口にしようと思ったとき「かわいいね」って言われた。ねっとりとした口調に私は気分が悪くなった。
漠然とした恐怖に足が止まりそうになったし顔がひきつった。声を出せなくなった。
「どこにいくの?」っていう吐息交じりの声に吐き気を覚えた。
顔なんて見たくないから男がどんな表情で言っているのかは分からない。でもこれだけは分かった。私は今危険なんだってこと。
歩く速度が上がる。はやくわたしの乗る地下鉄線についてほしい。構内は広くまだ着く気配はない。
私は固く口を引き結んだまま歩き続けた。前しか見ずに。だって男のほうを見るのが怖かった。
しばらくすると足音が無くなって、いくらか気を抜くことができた。ふと、私が無事に地下鉄線に乗ることができたとして男も一緒について来たらどうしようかと思った。途端、どこに行くのも怖くなった。けれどもし電車の中までついてくるようなことがあったら車内で思いっきり声を上げてやろうと思った。
ついに改札が見えてきた。私は改札を抜けるためにICカードを取り出した。その瞬間、私の頭に何かが乗った。と思ったら左右に揺れて離れていった。衝撃に何か分からなかったが、瞬間的に理解した。今、私は男に頭を撫でられたのだ。強烈な不快感に男が触れた頭頂を、汚れを払うように勢い良く振り払った。最低だった。本当に最低最悪な気分だった。泣きそうになりながら私は改札をくぐった。
男はついて来なかった。最悪だ。何もできなかった自分がとても惨めに感じた。無力さを痛感した。ショックだった。知らない人に触れられるのは不快でしかないし、しかも頭は本能的に恐怖を感じてしまう。触れられた感触がずっと消えなくて電車の中で私は必死に泣くのを我慢した。
待ち合わせ場所に着くと友人はまだいなかった。怖かった。これ以上一人でいたくなかった。できるだけ人の多いところを探して友人を待った。早く話したかった。恐怖を共感して慰めてほしかった。
20分も遅れて到着した友人に作り笑いを張り付けて「久しぶり」と言った。私は今の出来事話したかった。でも、なんて言ったらいいのか分からなくて胸につっかえて言葉にならなかった。友人は私の様子に気づいてどうしたの?って言ってくれた。でも私は何も言えなかった。
あれは何だったんだろう、声をかけられたらそれはもうナンパというのだろうか。だとしたらナンパされたということになる。けれど、それを口に出すのがとても恥ずかしいことのように思えた。悔しい。口にしたらなんだかあの男に負けるような気がした。でも胸に秘めておけば私は破裂してしまうような気がした。だから「声をかけられた、男の人に」と震える声で絞り出した。
友人の返答は最悪だった。
「ナンパ?かわいいもんね」
言わなければよかった。気遣いの何もない。他人事のように言いやがる。でも慰めを期待していた私が悪いのだ。普段なら気にもともめない友人の言動が鼻につくように感じられた。けれど、友人はちっとも悪くない。私がどれだけ怖かったのか口にして泣きさけべば友人も哀れみを向けてくれるのだろうけど、そんなことは自分が弱い女性だと主張しているようでしたくなかった。それに、詳細に先ほど起こったことを口にしようにも胸がつっかえて言葉にすることができなかった。言葉にしようとすると、じわりと視界が滲む。せっかく楽しみにしていた旅行なのに、こんな気分で友人と一緒にいるのが申し訳なかった。友人と目的地へ向かおうにも、人の視線が気になって仕方がなかった。すれ違う男の人に視線を向けられるとそれだけで恐怖に涙が浮かんだ。
友人はそんな私に気づいた風もなく純粋に旅行を楽しんでいる。恨めしかった。でも純粋に楽しめないのが申し訳ないと思うのも本当で、たった少しの知らない男性との接触が私にトラウマを植え付けた。
歩くたびに揺れる水色のロングスカート、丸襟のブラウス、リボンの付いた白いパンプス、全部今すぐ脱ぎ捨てたくなった。
それからいつもの自分が身に纏う黒いジーパンと白いTシャツに着替えたかった。今の私はいつもの私じゃないから声をかけられたんだ、そうだ、いかにも女の子ですってスカートなんか履いてたから。
思い至ってしまえば、それからはもうスカートを履けなくなってしまっていた。
スカートを履いたら怖いことが待ってる。たった一度の体験が脳にトラウマを植え付けた。
だから今日も私はスカートを履けないでいる。
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