生まれる渇望

 

「ただいま」

 アパルトマンのドアを開け、シンとした室内に声をかける。人の気配は無いけれど、部屋にはまだ怪我が完治しきっていない霧香が眠っているはずだ。抱えていた荷物を持ち直し、しっかりとドアにチェーンをかけてから靴を脱いだ。プールテーブルの上にに荷物を置いて、物音を立てないように寝室へと近付く。壁越しに覗き込むようにすると、ベッドに仰向けに寝転がる少女の姿が確認できた。どうやらあたしが出かけている間、ずっと眠っていたようだ。
 なんとはなしに安堵して、キッチンへと向かう。少し急いだせいか、妙に喉が渇いていた。棚からグラスを2つ取り出すと、その両方ともになみなみと水を注ぐ。自分と、霧香のぶん。両手にそれを持って、来たときと同じように足音を忍ばせながら寝室へと繋がるステップを上がっていく。

「……霧香?」

 確かめるように、小声で名を呼んだ。あたしがどんなに気を遣ったところで、少女が積み重ねてきた経験から鋭敏に磨かれた感覚には触れてしまう。そうとはわかっていても、できる限り張り詰めた琴線に触れないように柔らかく接するようにしていた。そんな自分がらしくないと、苦笑することもしばしばだけれど。
 パリに帰ってからまだ2週間足らず。この先がどうなるのか、ソルダからいつ襲われるともわからない中、それでもこのアパルトマンだけがあたしたちにとっての居場所であり唯一安息を得られる場所でもある。今更と知ってはいても、この少女――霧香には、年相応の安寧を得てもらいたかった。そんな庇護欲のような、不可思議な感情がここ数日のあたしをらしからぬものにしていることは確かだ。

「……ミレイユ」

 ステップを上りきったところで、寝起きに掠れた声が聞こえた。ベッドに横たわったまま薄目を開けてこちらを見ている少女に、いつものように微笑みかける。傍らに近付いていくと、霧香は僅かに表情を顰めながら上体を起こした。

「……まだ痛む?」
「ちょっとだけだから、大丈夫。おかえり、ミレイユ」
「ただいま。飲むでしょ?」
「うん」

 左手のグラスを手渡すと、霧香はお礼を言ってそれに口をつけた。ごくり、と鳴る彼女の喉を数秒見つめてから同じようにグラスを傾ける。季節柄わざわざ冷やさなくても適温でいられる水が、渇いた身体にちょうど良く感じた。縁についた紅を指で軽く拭って、一つ息を吐く。

「どうかした?」

 鋭い子。一見すると他人になんて興味もなさそうなのに、霧香に誤魔化しというものが効いた試しはない。顔に似合わずなんでもストレートに言ってくるものだから、時にこちらがたじろいでしまうほどだ。そのくらいの度胸がなければ、あんな稼業はできなかったのだろうけど。
 それにしても、この子の場合はわかってやっているのかいまいち読めないところが性質が悪いわね。そんなことを思案して、ふと笑みが零れる。

「ミレイユ?」
「なんでもないわ。それより、あんたはまだ休んでなさい。その間に、夕食作ってあげる」

 霧香の手の中で弄ばれていた、空になったグラスを引き取るとさっさと踵を返した。『らしからぬ自分』は、どうやら必要以上にこの子と一緒にいると出てくるようだから。
 うん、という素直な返事とほぼ同時にベッドに重力がかかって軋む音がした。振り返ると、仰向けになって瞼を伏せた少女がいる。ぎゅっと眉を寄せて、静かにグラスをベッドサイドに置いた。そのまま流れるようにシーツの上に腰を下ろして、霧香の上に覆い被さるようにしてその顔の横に手をつく。顔を覗き込むようにすると、彼女の瞳がぱちりと開かれる。ダークブラウンのその奥が微かに揺らいだ気がした。

「ミレイユ?」
「霧香。……あたしが怖い?」
「……どうして?」
「あたしが、あんたに何かするんじゃないかって、思う?」
「ううん」
「……そう」

 右手を少女の頬へと伸ばして、そっと触れた。相変わらず彼女の瞳には大きな動揺は見られなくて、身じろぎ一つする様子もない。ホント、いい度胸ね。

「……あんたが、熟睡できないのはよくわかるわ。あたしもそうだったもの。でもね、霧香。もうあんたは一人じゃないのよ。……それを、忘れないで」

 まるで独白のように告げてから、霧香の驚きに見開かれた瞳を目の当たりにして気付いた。何故らしからぬ自分でなければならなかったのか、何が一体気に食わなかったのか。庇護欲だなんて生易しいものじゃない、もっと馬鹿馬鹿しい理由。あたしはただ、特別扱いを望んでいたのだ。

「ミレイユ」

 普段よりも数段柔らかい響きで名前を呼ばれて、胸の辺りがむずむずと痒くなるような心地がした。さっきまで感情の読めない瞳をしていたくせに、こんな時には嬉しそうに微笑む。霧香にはこうして、年相応に笑っていて欲しい。

「ありがとう」
「……さ、夕食作ってくるわ」

 感じたことのない気まずさのようなものが込み上げてきて、熱くなった頬を見られないよう彼女の側からそっと離れた。上がってきた時と同じようにグラスを手にして、振り返らずにステップを下りながら、それが羞恥心というものだと気が付く。霧香はパリに帰ってくる前から変わらずに霧香だっていうのに、あたしだけが振り回されてしまっている気がして癪だった。ぶつぶつと、呟いてみる。霧香は、霧香。
 プールテーブルに置きっ放しだった本日の食材の隣に、グラスを2つ並べて置いた。その拍子に、こつんと小さな音を立てて赤のボールが微かに転がっていく。それをしばらく目で追って、彼女の使ったグラスへと目線を戻した。霧香のグラスには紅はなく、綺麗なままだ。化粧っ気がないのはそういうことに興味がないからか、それともよく知らないからか。あたしだってまだ、霧香のことをよく知っているとは言えない。知りたいと思うのは、それこそエゴかもしれないけれど。
 今度二人で出かけたときには、彼女にグロスでも買ってあげようと思い付く。静かに微笑んで、その縁を指先でそっとなぞった。

 


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