ちきりん『自分の意見で生きていこう』を読んで

社会派ブロガー・ちきりんの著書『自分の意見で生きていこう』を読んだ。

この本の要点をまとめると、下記のごとしである。

・「意見」に正解や間違いはない。答えのある問題には「正解」や「間違い」があるが、答えのない問題には人それぞれ異なる意見があるだけで「正解」や「間違い」はない。
・人生における重要な選択はたいてい「答えのない問題」であり、自分の意見をもてないと何も選択できなくなる。
・「意見」とは、あることに賛成か反対かポジションを明確にすることである。単なる「反応」とは異なる。


ある「行動」を選択したところで、それが正解だったのか不正解だったのかは分からない ―― 自分は1人しか存在しないから、もう一方の選択肢を選んだ時と比較することができない、という話が繰り返し語られる。 「自分の人生は "比較実験" ができない」という難しさ・もどかしさは、私が何年も前からずっと感じてきたことであり、同じことを考えているのは自分だけではないのだな、という発見があった。もっとも、古来からの哲学書をひもとけば、似たようなテーマは何度も語られていそうではあるが。

ちきりん氏は、自分の意見をもてなければ人生の何事も決定できないため、しっかりした意見をもつことが重要であると語る。その一方、ある決定が正しかったかどうかは誰にも分からない、とも語る。

私のようなひねくれた人間は、「意見をもって何事かを選択したところでそれが良かったかどうか分からないのだから、意見をもてずにズルズルと時を過ごすことがダメであるとも言えないのではないか」――と、ついつい考えてしまう。
こういう屁理屈的な袋小路に迷い込まず、「自分の意見をもつことが大事だ」とハッキリ言いきってしまうところが、ちきりん氏の良いところであり、人気の所以であろう。氏はあくまで「実務家」であり、「象牙の塔にこもる哲学者」とは違って余計な思考を削ぎ落としている。


自分の意見をもつことはなぜ重要なのか。
それは、ある人生の選択をした後めげそうな場面が訪れたとしても、「あれだけ考え尽くして決定した人生なのだからもう少し頑張らねば!」という気持ちを奮い起こしやすくなるからであると思う。自分の意見をもたずテキトーに決めた生き方であれば、「やっぱり、違う生き方のほうがよかったかも」とすぐ回避行動を取ってしまい、何事も完遂できないようになってしまう。
つまり、「選択そのものが正しいかどうか」よりも「ある選択を完遂するための "助走" ――その後の勢いをつけるための助走」として、自分の意見をもつことが重要なのではないか、と私には思える。
しかし、これは転倒した考えである。目の前の選択肢をどちらにしようか考えこむのは、直接的には、どちらがより「良い」かを当てたいがためである。
「何かを選択した後、その行動を完遂する意欲を起こすこと」を目的として考え込む――というのは、未来を先取りしすぎた「転倒」した考え方である。私はしばしばこういう「転倒」した考えに、囚われてしまう。
ちきりん氏は、この手の過剰に先取りした転倒した考えをほとんど語らない。一応、152ページで似たようなことを数行書いてはいるが、基本的には「自分の意見をもっていないと何も決められず困りますよね。だから自分の意見をもてるようになりましょう。」というシンプルな語り口を取っている。
こういうバランス感覚の良さ ―― 過剰に考えすぎない(あるいは、考えていたとしても著書としてまとめる時には無駄なことを書かない)ところも、またちきりん氏の良いところであり、「実務家」として成功している所以であろう。 この本が、ある種の哲学的なテーマを取り扱っていながら、あくまで「哲学書」ではなく「ハウツー本」という範疇に収まっているのも、そうした「制御されたスマートさ」ゆえである。
私のような「頭でっかち思考優位型」の人は持ち合わせていない「程よいスマートさ」「過剰ではない制御された賢さ」が、本書を通して感じられる。



第3章『SNS時代に「自分」を創る』では、ウェブ上の1つのプラットフォーム(TwitterならTwitter、個人ブログならブログ)に自分のあらゆる意見を集約していくことが大事であると語られる。
例えば「就活/転職」という面を例にとれば、今までの時代はまず「学歴」で受験者をふるいにかける時代であった。しかし、「学歴」は足切りのための選考=合わない人をざっくり弾くための選考であって、特定の1人を積極的に採用する根拠になるようなものではなかった。そこで、企業側は一人一人に面接を行って何とか人間性を知ろうと努めるのだが、受験生の側は面接の時だけ張り切ってイイカッコをするという「狐と狸の化かし合い」がよく展開されていた。
これからの時代は、就職希望者の人となりを知るために、その人のSNS情報をAIで解析することが当たり前になっていくだろう、とちきりん氏は語る。すでにこういう選考は一部企業で行われている。まだメジャーになっていないのは、コストがかかったりノウハウが蓄積されていないからで、いずれコストダウンしてお手軽にAI解析できるようになれば、多くの企業がこぞってするようになるだろう。
このような時代に必要なのは、「自分を飾るためのSNSアカウント」を持つことではなく、「自分のありのままを開示したSNSアカウント」を持つことである、とちきりん氏は語る。結局、自分を偽って入社しても、企業の方向性と自分の方向性が一致しなければ苦しいだけなのだ。それよりは、普段から自分の考えをありのままに開陳したアカウントを1つ持っておき、それを選んでくれる企業に入ったほうがよい.....。

まぁ正直「エリートの考えだな」と思ってしまうが、言っていることには一理ある。

そこで私も、今回の拙い note のように、徐々に自分の意見を開陳していくことにした。本拠地とするプラットフォームが note でいいのかはまだよく分かっていない。Twitter(現X)のような短文プラットフォームよりは、note のような長文プラットフォームのほうが合っているのではないかと思っているが、まだハッキリした自分の意見は持てていない。他に良いプラットフォームが見つかれば、記事をコピペして移動することはいくらでも出来るから、とりあえず note で発表することにした。

私は、ITエンジニアとしての技術系 note 記事をすでに4本書いている。ある1つの記事は「50スキ」をもらっており(リンク)、無名のエンジニアとしてはまぁそれなりに注目をもらっているほうだろう。そのアカウントに、今回のような全く別ジャンルの記事を投稿してよいものかどうか、少々悩んだ。私に対して、このような投稿を期待している人は今のところ世界に1人もいないであろうから。(そもそも、私にさしたる期待を向けている人が世界に1人もいなそうではあるが….)

「フォロワー数を伸ばしてマネタイズする」といった戦略を狙うなら、1つのアカウントは1つの話題だけに絞るべきだろう。しかし、ちきりん氏が言うように「あらゆるジャンルについての意見を1つのアカウントに集約して、ネット人格を創る」という戦略を狙うなら、むしろアカウントは分けないほうがよい。(ちきりん氏は結果的には、ネット人格を作り上げてフォロワーを増やしてマネタイズする、という両方の道を成功させた人物ではあるが……)

私はどちらの戦略をとるべきか?
―― とてもじゃないが、一つのジャンルに特化してフォロワーを増やせるような「専門性」をもった人物とは言いがたい。(*)
それよりは、来たる10年後の「AI解析が当たり前になった転職活動」に向けて、雑多なテーマの意見をありのままに開陳しておくほうが、何かと得になるだろう。
今回の note 記事は、私の「ネット人格」生成に向けたささやかな第一歩である。

(*) もっとも、ちきりん氏の別の著書『マーケット感覚を身につけよう』の論法に則るなら、専門性をもっていないこと――普通の人間であることは、アウトプットのやりかた次第で十分に価値をもつのだが….。いずれにしろ、今の私にはそのような戦略を取るモチベーションが無い。


ちきりん氏は、とにかく「考え尽くす」ことが重要であると語る。「自分の意見をもつ」ためには知識の多寡や専門性よりも、とにかく「考え尽くす」ことが重要である。
さて、どのような事柄について考え尽くすべきか? ちきりん氏の著書が面白いのは、ここで相反する2つのことを提案してくることである。

まず1つは、思わず考え尽くさずにはいられないような「自分の興味のある対象」を見つけるべきだ、という提案である。これはまぁ直感的に理解できる、至極真っ当な提案である。
もう1つは、自分から遠い事柄をあえて考えたほうがよい、という提案である。いざ災害に襲われた時、冷静にどんな対処をすべきか思考できる人はほとんど居ない。しかし、災害が起きる前の平和な時であれば、客観的に何をすべきか考えることができる。あえて、自分の今の人生から遠いことを考える訓練をするのもよいだろう、とちきりん氏は語る。

順に見ていこう。
まず、自分が好きで堪らない対象を見つけるべき、という意見は至極真っ当である。しかし私のような人間にとっては、難しい提案でもある。ここ数年、思わず考え尽くしたくなるほどの「好きな事柄」に出会っていない。それゆえに大した自分の意見というものも持たず、惰性で過ごしてきてしまった。思い返せば、子供のころは色々なことを思索していたし、誰にも見せない文章を書いて言語化しようと努めていた。「刺さる」小説や漫画に出会ったときは「なぜ、この作品は素晴らしいのか?」ということを何週間もしつこく考え、自分なりに言語化しようと努めていたものだ。しかし、そういう刺激もここ数年、とんと無かった。
話が飛ぶようだが、世の中のたいていの問題は「知能」ではなく「心理」の問題ではないか、と私は思っている。例えば「デマ」に騙される人は、知性の不足が問題なのだろうか? 真に問題なのは「この情報はもしかするとデマかも知れないが、騙されているとしても別にいいや」という捨て鉢な心理状態だったり、「何でもいいから何かを信じたい」という依存的な心理状態なのではないだろうか?

......ちきりん氏の「思わず考え尽くさずにはいられない、好きな対象を見つけよう」という提案を読むと、私の悩みは「意見をどうやって持つか?」から「情熱をぶつける対象をどうやって見つけるか?」へと変化していく。
どうやって、情熱をぶつける対象を見つけたらいいのか?
その答えは、この本には書いていない ―― 当たり前である。そんなことまで網羅的に書いていたら、本の趣旨がブレブレになってしまう。一つの書籍だけですべての答えが得られないのは当たり前のことである。(ちきりん氏に言わせれば、誰かの著書から「答え」を得ようという発想自体が捨てるべきものなのかもしれないが....)

かくのごとき心理状態の私にとって、わずかな希望となるのが2つめの提案 ―― すなわち、自分から遠い事柄についてあえて考える訓練をすればよいというものである。まだ自分ごとではない「からこそ」あえて考えてみる、という逆説。これなら私にも取り組めるであろう。


久しぶりにまとまった文章を書いた。自分の「意見」を長文にして、世間に公表する機会など長いことなかった。

改めて、自分の文章の回りくどさに嫌気が差した。ちきりん氏の文章はサラサラと読みやすく、誰でも書けそうな文体に思えるが、サラサラ読めることは実に立派なプロの技である。

私の思考は、つねに「外枠」へと向かう。
この本を読んだ時にも「かくかくしかじかの理由で、この本は哲学書というよりハウツー本といえる」....という外枠についての感想がまず沸いてくるのだ。
よけいな思考の迷路に入り込むことなく、ハウツー本らしく要所要所で断言してくるところが「好き」である ―― と、これはまぁ私の「意見」といっていいだろう。しかし、本の主張「内容」そのものに踏み込んで、賛成・反対のポジションを取っていないという点では、私の上記の文章は(「意見」というより)「反応」的でもある。
もう少し詳細に、自分の意見を書こうと思えば書くこともできる。しかしこれだけのまとまった文章を久しぶりに書くと、疲れてしまった。

最初から完璧なものを投稿しなくてよい。――これもまた、ちきりん氏の言である。

(2023.08.14)

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