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メディアの話、その26。わかりにくい太田道灌と物語とキャラ化。に「わかりにくさ」を学ぶ。

マスメディアのコンテンツのお仕事のひとつ。

それは、わかりにくい「現実」を、わかりやすい「法則」や、もっとわかりやすい「物語」や、さらにわかりやすい「マンガ」に「変換」して、伝えることにある。

古来、人間は、これを延々やってきた。

ラスコー洞窟は、その最たるもので、人類最初の「マンガ」であり、「パワポ資料」であり、「無声アニメ映画」でもある。数万年後の私たちに伝わってくるわけですからね。すごい「メディアコンテンツ」であります。「こんな動物がいたぞ!」「こいつらが獲物だぞ!」「かっこいいなあ」「ありがたいなあ」というのが、ちゃんと伝わってくる。作者が「わかりにくい現実」の中から、動物たちを抜き出し、その動きをじっくり観察し、みごとに高速シャッターで1枚の写真を撮るように、その姿を暗い洞窟の壁にとどめてくれた。

だいたいにおいて、現実というものは、わかりにくいものである。

現実は、漫画じゃないし、映画じゃないし、アニメじゃない。そこには物語が存在しない。

なぜ、わかりにくいか。それは、大脳皮質が、ありのままの現実をちゃんと理解できないからである。つまり、わかりにくいのは現実、というよりは、現実を、そのままでは「わかりにくいなあ」としか認識できないのが、私たちの大脳皮質なのだ。

私たちの大脳皮質は、人体のなかで最後に進化した、からだの部位としてはいちばんの「新米」である。そのせいか、いまいち性能が悪い。たぶん、いろいろな制限がかけられている。サイズの問題もあるし、そもそものスペックの問題もある。

だから、私たちの大脳皮質は、さまざまな「教育」を施して、ようやく、現実をいろいろ認識するようになる。

でも、やっぱり限界がある。そこで、大脳皮質は、自分にあった情報の取捨選択法、そしてインストール法を編み出した。それは「物語化」。たぶん、もうひとつは、おそらく、三次元を二次元の画像に落とし込む「マンガ化」。ラスコー洞窟は、まさにそれですね。

物語にしないと認識できない。それで連想するのが、私の場合、太田道灌である。

太田道灌というのは、室町時代の武将である。おそらく日本の歴史上で、現代の日本のかたち、とりわけ東京を中心とする関東のかたちをつくった人物としては、北条早雲、徳川家康に先んじていた。おそらくこの2人は道灌の思想と実践をコピーした。

足利学校で学び、歌を嗜み、関東一の歌人といわれる一方、江戸城を筆頭に関東にいくつもの城をまたたくまにつくった「築城のプロ」であり、川だらけの関東の低地で「灌漑」の重要性を見抜いて、土地活用を行い、水運に長け、そしてなにより、圧倒的に軍事の才に長けていた。

要するに、天才である。

道灌は主人である扇ガ谷定正に暗殺されちゃうのであるが、もし彼が生き残っていたら、その後関東の歴史はまったく変わっていた可能がある。つまり、日本の歴史そのものがいまとはまったく異なるものになっていた可能性がある。

そのくらいの重要人物、と思っている。

が、これだけキャラのたった太田道灌が主人公となった映画や時代劇は少なくとも過去30年見たことがない。NHKの大河ドラマでもやってない。

太田道灌が活躍した室町時代の関東が、あまりに群雄割拠で、キャラクターが多すぎて「物語化」するのが、むちゃくちゃ難しいからである。

1人の武将を物語から外しただけで、話が嘘になっちゃう。そのくらい複雑なのだ。敵と味方が三重構造四重構造になり、そのうえ京都の室町幕府のほうまでが応仁の乱で2つに分かれ、それぞれが権益を伸ばそうとしていたから、もうまとめようにもまとまらない。苗字が「上杉」のひとと「長尾」のひとと「足利」のひとがいっぱい出てきて、ますます頭に入らない。

なぜ短い期間なのに、安土桃山の戦国時代だけがなんどもドラマになるのか。それは、「切れやすくって、冷徹で、美意識が高くって、美男子で薄命」の織田信長、「ずるくって、愛嬌があって、頭の回転が速くて、スケベでチビでサル顔の豊臣秀吉、「もっさりしていて、腹のうちを明かさず、田舎者だが、誰よりも未来を見ている、見た目も心も古狸」の徳川家康、という類型化したイメージが、完璧に日本人の心に住み着いているからである。ここまで明快な造形のキャラが3人立て続けに出てきて「天下取り」をする。そして、この3人を軸に、サブキャラも顔が見えている。信長にしてやられる麻呂顏の今川義元、頭はいいけど恨みがましい明智光秀、東大法学部を首席で卒業したけどイマイチ人心掌握ができない高級官僚石田三成、なんて具合に、こちらも類型化されている。

いま、歴史を読むとき、我々はまず脳内でこういうキャラクターを立ち上げて読む。いわば、脳内マンガ、脳内アニメーションを再生させて、物語として吸収する。

戦国時代の次にキャラがたっているのは、清盛、頼朝、義経の流れかな。ともあれ、メインキャラが3人くらいに絞られていて、類型化されてないと、なかなか頭に入らない。

現実の世界は、もちろん「物語」なんかではできていない。もっと無為にクールに無情にあらゆる事象がだらだらと流れている。ある意味で、生きるというのは、そんな無情な現実から、自分の物語をむりやり切り出すこと、ともいえる。だから、ひとはロールモデルという既存の物語を求め、真似をする。そうしないと、無情な現実に自分の座標軸を刺すことができないからだ。

と、思っていたら、なんと太田道灌の小説が出ました。

『騎虎の将 太田道灌』。幡大介さんの上下二巻の大作であります。https://www.amazon.co.jp/dp/4198645434/

当然すぐに読みました。

面白かった。ぜひ読んでくだされ。太田道灌の時代を小説でちゃんと「メディアコンテンツ」した腕と努力と労力に敬服する作品であります。

で、この小説で太田道灌のキャラでわかったこと。

彼は、最初の戦国武将にあと一歩近づいた男だった。でも、戦国武将ではなかった。なぜならば、彼は、ぎりぎりのところで、「サラリーマン」だったのである。戦国武将は、ベンチャー経営者である。彼は、脱サラしてベンチャー経営者になれなかった天才、だったのだ。

ほら、こうやって「物語化」すると、ちょっと親しみがわくでしょ。この比喩が正しいかどうかはともかくとして。

続きます。

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