メディアの話その113 プラットフォームがテレビや映画や新聞を「捨てる」とき

ネットフリックスは、「テレビ」だろうか。「映画」だろうか。

いや、もはや「テレビ」でも「映画」でもなく、「ネットフリックス」である。

そこで流れているコンテンツの多くは「テレビ番組」でもあり、「映画作品」でもある。つまり、コンテンツは「従来のメディア」なのだ。

では、テレビなのか?映画なのか?

ちがう。ネットフリックスなのだ。

マーシャルマクルーハンがかつて発言したメディアの法則が明確に当てはまる。

「前のメディアは、新しいメディアの「コンテンツ」になる」。

そう、消えて無くなるのではない。コンテンツになるのだ。

逆にいえば、メディアの革新とは「コンテンツ」の革新であるまえに、まず「プラットフォーム」の革新である。

iPodとiTuneの誕生、youtubeの誕生を思い起こしても、Kindleを考えてみても、みんなこの法則があてはまる。

そして、消費者が、「より便利なプラットフォーム」で「以前から親しんでいるコンテンツ」を楽しむのが当たり前になったころに、その「プラットフォーム」でなければできない「コンテンツ」が登場する。

「全裸監督」も「ROMAも、「鬼滅の刃」の映画・アニメ・漫画ひっくるめての世界的大ヒットも、サブスクリプションの動画有料見放題サービス、というプラットフォームの普及が前提にある。

あの、話の途中からいきなりスタートする、ある意味でとっても不親切な「鬼滅の刃 無限列車編」が日本どころかアメリカでヒットしているのは、すでにネットフリックスやクランチロールで視聴者の多くがアニメの「予習」を済ませていたからである。

もし、ネットフリックスなどが普及していなかったら、映画「鬼滅の刃」は、カルトなマニア向けになるか、あるいは映画の作り方をそもそも変えて、まずはスタートからの総集編を大々的に映画化するか、というターゲットの変更か、コンテンツの変更を強いられたはずである。

でも、それをしないで日本で最高のヒット、そしてアメリカでもヒット。

これは、サブスク動画配信という新しい「生態系」が前提のつくりかた、である。

そんな時代に、従来の「テレビ局」や「映画会社」は、なにができるか?

テレビコンテンツも、映画コンテンツも、むしろ需要がある。対応しなければいけないのは、プラットフォームのほうである。

おんなじことを、「新聞業界」では、日本では最初にヤフーが外部からやり、アメリカでは、ニューヨークタイムズが内部から自己改革した。

コンテンツは「新聞記事」であるが、ネット時代の「見せ方」「表現のしかた」をプラットフォームが変えていく。ニューヨークタイムズの「新聞記事」は、もはや「新聞」じゃなくて「NYT」である。

日本の新聞社にそれがどこまでできるか。


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