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メディアの話その90。伯父とZOOMと、あの式と。

2020年4月のある日、伯父が亡くなった。

82歳。

8代続くゲタ屋の旦那だった。もともとは、大阪の船場に店があって、戦争のころ、静岡に店を移した。安倍川の下流にある静岡は木材加工業のメッカで、下駄などの履物もこちらでつくっていたらしい。ついでにいうと、模型もそうだ。昔の模型は木製だった。タミヤ模型をはじめ、静岡のプラモデル業の源流は木材加工業にある。

伯父は、親分肌で、短髪で大柄で剣道をやっていて白土三平の「サスケ」の親父の大猿にそっくりだった。つまりなかなか迫力のある風貌の男だった。若い自分から、かなりの自動車好きだった。草ラリーなんかもやっていた。小さい頃は、伯父の車の横に乗せてもらって、静岡のワインディングロードを走って、ゲロを吐いたりしたものだ。

話はちょっと横道に外れるが、伯父の父、つまり私のじいさんは、蔵書家だった。江戸から明治にかけての美術の本を相当集めていて、立派な書庫があった。2万だか3万だかの本が並んでいたが、子供の私が面白がれる本は限られていた。ちょっとエロい本と、古い生物図鑑(その一部を私はもらいうけた)と、それから、自動車雑誌だった。こちらは、じいさんではなく、叔父が購入していた。カーグラフィックにモーターファンが創刊号からずらりとあった。

で、スーパーカー少年である私は、いまの目で見ればとんでもない本がずらりと並んでいたはずのじいさんの蔵書には目もくれず、カーグラフィックとモーターファンと古い昆虫図鑑とエッチな本を、薄暗い書庫でこっそり読んでいたのだ。

叔父は生涯車道楽と食道楽でならしていた。

アルファロメオの156を静岡市で最初に買ったのは俺だよ、とえばりながら、乗せてくれた。

トヨタが86を発売したときも、すぐに手に入れていた。

ちょうどフェルディナントヤマグチ氏が「日経ビジネスオンライン」の「走りながら考える」で「トヨタ86」をとりあげていたので、オーナーとして取材をうけてもらった。清水にあるマグロが凄まじくうまい馴染みの寿司屋でおごってもらった。

そう、伯父はいつでもみんなを奢っていた。おそらくわたしはもっとも奢られた方だろう。静岡に立ち寄る度に、チーズのうまいワインバー、寿司屋、ピアノのある高級スナック。伯父はどこにいっても、地回りの親分的に顔が利いた。地元の銀行の頭取室に、下駄を履いていき「これが正装ですから、商売がら」と嘯いていた。

最後に直接あったのは、2019年9月1日。三島の病院だった。妹である私の母、おば、いとこ、そして伯父の奥さんである義理のおば。ずいぶん痩せていたが、「退院したら東京でうまいものを食わせろ」といわれた。すまない。約束を果たせなかった。

今年の2月6日に、伯父が所属する地元のライオンズクラブで話をしてくれ、といわれて、うかがった。伯父は体調がよくなく、参加できなかったが、電話越しに、「また遊びに来い」と誘われた。代わりにいとこがライオンズクラブにやってきて、老練なじいさんたちにいじられていた。

私はその夜、東京で用事があり、伯父に会うことなく帰ってきてしまった。あのとき、用事を飛ばして、伯父の家に泊まればよかった、というのは、よくある後悔だ。人生の大切なことは、たいがい、つまらない選択ミスで、どっかに失ってしまうものだ。

伯父は私があった前後に弟妹(たくさんいる)を全国から集めて、どーんと飯を食わせ、小遣いをあげた。うちの母親ももらった。ばあさんだが、伯父の前では、頼りない女の子になる。母親だけではなく、ほかのおじもおばも、長兄である伯父の前では、みんな、頼りないハナタレ少年、ベソかき少女だった。

そんな伯父が亡くなった。

あ、新型コロナウイルス のせいではない。長年、ゆるりゆるりと闘病して、ある意味で大往生だった。静かになくなった、と、息子であるいとこからきいた。

ただし、新型コロナウイルス は、亡くなった人間の邪魔をする。

全国にちらばった親族を集めることを許さない。もちろん、私も、だ。

つまり、大々的にお通夜も葬式もそのあとの飲み会もひらけない。

白状しよう。

「絶対に動くな」「自分の所在地から遠くにいくな」「動くことは、自分ではなく、他人を危険にさらす」と新型コロナウイルスの対応について、えらそうに言っていた。

でも、伯父が亡くなり、浜松の実家にいる母親と電話で話しているうちに、「いけるんじゃないか」「いっても大丈夫じゃないか」「いや、いかねばならない」と思い込み始めた。

止めたのは妻だ。

いや、行く。と言ったのは私だ。

間違いなく、動揺していた。判断力を失っていた。

夜、雨降る中を家を出て、1人で車に乗り、走った。そのまま近所のインターチェンジから高速道路に乗ると叔父の家まで飛ばせば2時間もかからない。

インターチェンジに降りる道を選ばず、そのまままっすぐ走り、橋のたもとに車を止め、雨が流れ落ちるフロントウインドウの向こうをぼんやりながめた。

2時間半。

エンジンに火をいれ、家に戻った。途中の、夜中までやっている、ほとんど人のいないスーパーで5000円分駄菓子とアイスクリームを買って。

私は妻と娘とアイスクリームを何事もなかったように食べた。

家族とアイスクリームで、私はなんとか正常な判断をとりもどした。

おそらく、いまの私が新型コロナウイルス に感染している確率はきわめて低いだろう。すでに2週間、家族以外にはほとんど誰にもあっていない。どうしても移動が必要な時は自動車を使い、クラスターに入らない。外食もしていない。職場も早い段階でリモートワークだ。

だからといって私が東京から地方に自動車で動くのは間違いだ。

おなじような「大丈夫だろう」と判断したひとが複数いて、そのなかのたった1人がもし感染していたら・・・。感染症のおっかないところは、ほんのちょっとの例外から指数関数的に被害が拡大していくことだ。だから、自分もふくめ、例外をなるべく認めないようにしないと、感染拡大は防げない。

ただ、自分がある種の「当事者」になったことでわかった。

強制力を伴わないと、ひとは、いざというときに動いてしまう。

私も妻に強力にとめられて、そして自分1人で考える時間を2時間半もたなければ、おそらくは叔父の顔をみるために、自動車で東京を出ていただろう。

いざというときに動いてしまう人たちの心情を知ってしまった。

だからこそ、止める知恵が必要だ。どんな知恵か。

翌日、私はいとこに電話をした。

「あのさ、ズームってやったことある?」

ズームをつかって、直接集まれない親戚が、斎場とお寺にバーチャルに集結しよう。全国にちらばっているいとこやおばたちに連絡をして、まずはお通夜をズームでつないだ。いとこ兄弟の2台のスマホがカメラがわりだ。

翌日夕方、8人ほどのいとこたちが、ズーム越しにお通夜に参加した。

いとこのスマホ2台のうち、1台は祭壇の横。もう1台は祭壇を正面から望む場所。ここに固定して設置してもらった。

お通夜もお葬式も、現場に参加しているのは本当の身内だけ。地元で集える親戚が加わるだけ。人付き合いの非常の多い叔父だったが仕事関係は今回はお断りをしたようだ。全員がマスクをして、しかも広い会場にばらばらに座った。

お寺のほうは、静岡でも随一の景色のところにあり、広い庭に面していて風通しがいい。快晴に恵まれ、気温も高かったので、屋外でお経を唱えているようなかたち。

ズームの話にもどろう。お通夜の時点で、失敗したのは音声だ。

斎場にはいない、見学している複数の参加者の音声をミュートにしておかないと、斎場側に設置したスマホから話している声がもれてしまう。その状態のままだったので、いとこ同士の雑談が、通夜の席にもれてしまっていたそうだ。はなはだ申し訳ない。叔父が化けて出て、かみなりを落とすかもしれない。

また、お互い不慣れだったので、いとこたちは自分たちの音声をミュートにしてしまったため、お寺の老師さまのお経を聞くことができなかった。無声映画状態である。

というわけで、音声は会場にあるカメラがわりのスマホやパソコンのみオンにしておく設定にする必要がある。

また、映像はレコーディングできるが、音を発している画面が選択される。このため、ディスプレイ越しにしゃべっているいとこの顔が大写しになって残ってしまったりする。というわけで、会場の音声をオン、見学側はオフ。これが、ズームでお葬式をやるときの忘れてはいけないポイントである。

途中で2度ほど回線が切れた。ただし、自動的に復活し、録画もそのまま続けられた。切れた時は慌てちゃダメで、ただ待っていればいい。

また40分の時間制限だが、通夜のときも葬式のときも、特に遮断されることはなかった。どんな条件設定で、遮断されるのか、いまひとつ、まだズームの癖がわからない。

スマホ越しだったが、お棺に収まった伯父の顔をみんなで見ることができた。

ズーム越しだったが、全国にちらばったいとこたちは、伯父に会えた。シンガポールにいる妹も、会えた。

デジタル、ありがとう。

伯父は、亡くなったじいさんとばあさんに似ていた。生きているころはあまりそう思ったことはなかったのだが。たぶん私も死に顔は父親と母親に似ているのだろう。

翌日=今日、お葬式があった。

斎場で老師様のお経をきき、出棺。

焼き場はカメラが回せないので、荼毘に付された後、お寺で老師があらためてお経をあげる。こちらでも2台のスマホを横と後ろにおいた。

今度は外部参加者の音声をあらかじめオフにして、現場のスマホ2台の音声をオン。2時間以上あったが、ズームはとぎれることなく中継してくれた。いとこの子供たちのお別れの言葉もズーム越しに聞こえてきた。みんなおっきくなったなあ。

というわけで、ズームをお通夜とお葬式に導入するのは、電話がつながる限り、それほど難しくない。新型コロナウイルス の感染拡大にともない、動きたくても動けないひとたちは増えるだろう。お葬式だけじゃなく、祝い事なども、ズーム(あるいは類似のサービス)をつかって会場と行きたかったひとをつなぐケースは増えてくるだろう。

もしかすると、斎場やお寺や教会や結婚式場が、あらかじめ、遠隔地で現場を結ぶ安定した回線と専用カメラを用意して、リモートお葬式やリモート結婚式やリモート授賞式を行うのが当たり前になるかもしれない。

伯父のお通夜とお葬式で、ズームを利用したのは、おそらくこれが初めてではないかもしれない。すでに、全国のどこかで私同様導入したケースがあるだろう。

ただ、静岡では伯父のお通夜とお葬式がはじめてだったかもしれない。

伯父は新しもの好きだった。

昔から、私が新しく変なことを始めると、うれしそうに「おい博一、話をきかせろ」と電話をしてきた。で、「ライオンズクラブでなんか話せ」とさそわれた。うっかり大学の教員になったときも「おい博一、教授ってのはもうかるのか?」と聞いてきた。儲かりません。でも、2回お話をした。

そんな伯父の通夜と葬式には、新型コロナウイルス のせいで、親戚のほとんどが集まれなかったけれど、ZOOMを使った電脳通夜、電脳葬式が盛り込まれた。

おじさん。アルファロメオ156買って以来だね、静岡ではじめて、ってのは。

そして、おじさん、すまん。あなたにとって、いちばんはじめの甥っ子は、むかしもいまも、こうやってえらく騒がしいので、「やすらかにお眠りください」とは、とても言えないのです。

そのかわり、極楽浄土か、静岡の高級クラブのどこかで、「どうだ、俺の葬式がズームってのつかったのが、静岡じゃ、はじめてだぞ」と、周囲の亡者どもにえばってください。


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